※この作品はR-18です。

貞操逆転世界の傾国記   作:熟睡枕

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第9話 失踪事件1

ハイハイを覚えてから、俺の世界は大きく広がった。

以前は、興味を引かれるものを見つけても、自分で近づくことすらできなかった。だが、今では自分の意思で部屋の中を移動できる。気になるものがあれば、時間はかかるものの、自分で確かめに行くこともできる。

言葉についても、少しずつ理解が進んでいた。

もちろん、まだ大人同士の会話を完全に理解できるわけではない。難しい単語や複雑な言い回しはわからないし、聞き取れない言葉も多い。

それでも、日常生活で使われる言葉なら、ある程度は意味を推測できるようになっていた。

最初は名前の区別すら曖昧だったのだから、大きな進歩だ。

やはり赤ん坊の体は覚えがいいらしい

しかし、言葉を理解できるようになってくると、今度は別の問題が生まれた。

 

――文字が読めない。

 

当然といえば当然である。

俺はこの世界で生まれたばかりの赤ん坊だ。前世の記憶があろうと、この世界の言葉を耳で覚えることはできても、見たことのない文字まで読めるようになるわけではない。

ましてや、俺の前世で使われていた日本語や英語とは、文字も言葉も異なる。

今のところ、この世界の文字は、曲がりくねった線や見慣れない記号が並んでいるようにしか見えなかった。

しかし,文字を覚えれば、本を読める。

本を読めば、この世界についてもっと詳しく知ることができる。

この国の歴史、社会の仕組み、貴族の制度、そして魔法。

特に魔法については、知りたいことが山ほどあった。

前世では、魔法などは空想の産物だった。それが、この世界では当たり前のように使われている。

侍女たちが掃除の際に魔法を使っているのを見たときの衝撃は、今でも忘れられない。

物体を浮かせたり、風を起こしたりする力。

あれはいったい、どのような仕組みなのだろうか。

もし、魔法について体系的にまとめられた本があるなら、ぜひ読んでみたい。

 

……いや、読めないのだが。

それでも、本を手に入れなければ何も始まらない。

文字の習得は、そのあとだ。

俺はそう考え、記憶を探った。

すると、ある光景が思い浮かんだ。

以前、侍女に抱えられて屋敷の中を移動していたときのことだ。

廊下の奥にある扉が開いていて、その向こうに、古くて分厚い本が大量に並んでいるのが見えた。

壁一面に設置された本棚。

背表紙の色も形もさまざまで、何年も読まれていないように見える本まであった。

あれは、おそらく書庫だ。

あそこなら、俺の知りたいことが書かれた本もあるかもしれない。

問題は、どうやって行くかだった。

普段の俺は、母や姉たち、あるいは侍女に付き添われて生活している。

一人で屋敷の中を自由に移動することは、基本的に許されていない。

それに、書庫がどこにあるのか、正確な場所も覚えていなかった。

だが、諦める理由にはならない。

幸いなことに、俺には一つだけ使える武器があった。

――赤ん坊であることだ。

大人たちは、俺が多少動き回っても、基本的には微笑ましく見守ってくれる。

まさか本を読むために、一人で屋敷の奥へ向かうなどとは思っていないだろう。

……ふふふ。

今こそ、この身体の利点を活用するときだ。

 

◇

 

その機会は、思ったより早く訪れた。

 

「ルシー、こっちよ!」

 

エリザベート――リーザが、床に置いた木製の玩具を指さした。

俺はその前に座り、玩具を手に取る。

 

「上手ね、ルシー」

 

隣にいたエレオノーラ――ノーラが、優しく頭を撫でてくれた。

この日、俺はいつものように姉二人と遊んでいた。

母は領主としての仕事があるらしく、今は別の部屋にいる。

そして、俺たちのそばには侍女のセレナが控えていた。

彼女はいつもどおり落ち着いた様子で、俺たちの遊びを見守っている。

……厄介だな。

セレナは優秀だ。

俺が何かしようとすれば、すぐに気づく。しかも、俺の行動をよく観察しているので、普段ならちょっとした悪戯すら見抜かれてしまう。

正面から抜け出そうとしても、止められる可能性が高い。

ならば、どうするか。

俺は玩具を握ったまま、姉たちの様子を窺った。

 

「リーザ、少し強く押しすぎよ。ルシーが驚いているでしょう?」

「えー? そんなことないわよ!」

「さっき、びっくりしていたじゃない」

「それは……たまたまよ!」

 

姉二人が玩具の遊び方について言い合いを始めた。

セレナは小さく息を吐き、二人のところに行って何かを説明している。

今だ。

俺はそっと玩具を床に置いた。

そして、姉たちとは反対の方向へ身体を向ける。

手をつく。

膝を動かす。

ゆっくりと前へ進む。

……よし。

誰も気づいていない。

そのまま俺は、部屋の出口へ向かった。

扉の近くで仕事をしていた侍女が、俺の姿を見て微笑んだ。

 

「あら、ルシアニウス様。お散歩ですか?」

 

俺は愛想よく笑った。

赤ん坊らしい、無邪気な笑顔だ。

侍女はすっかり油断した様子で、俺の頭を撫でてくれた。

 

「気をつけてくださいね♪」

 

そう言って別の仕事をしに部屋を出ていった

ありがたい。

俺は侍女が開けた扉が閉まる前にするりと部屋を出た。

リーザとノーラはまだ言い合いをしている。

セレナも仲裁に気を取られている。

……すまない、姉たち。

そしてセレナ。

俺には、やらなければならないことがあるのだ。

俺は覚悟を決め、ハイハイの速度を上げた。

もっとも、赤ん坊の移動速度などたかが知れている。

 

第一段階、突破。

 

◇

 

屋敷の中は、思っていた以上に広かった。

普段は抱き上げられて移動しているため、廊下の長さや部屋の位置関係を正確に把握できていなかったのだ。

実際に自分の足……ではなく、手と膝で移動してみると、その違いは歴然だった。

まず、遠い。

とにかく遠い。

大人なら数十秒で移動できそうな距離でも、今の俺にはかなりの時間がかかる。

しかも、途中にはいくつもの分かれ道があった。

右へ進むべきか。

左へ進むべきか。

そもそも、書庫はどちらにあるのか。

……まったくわからない。

俺は廊下の真ん中で立ち止まった。

いや、座り込んだ。

これはまずい。

書庫の場所を覚えていると思っていたのだが、記憶に残っていたのは、本棚の光景だけだったらしい。

肝心の道順が曖昧だった。

 

だが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。

俺は周囲を見回した。

廊下の壁には、いくつもの絵画が飾られている。

窓から差し込む光。

磨き上げられた床。

そして、遠くから聞こえてくる使用人たちの声。

俺はその声に耳を澄ませた。

誰かが近づいてきている。

慌てて、近くの大きな家具の陰へ移動した。

……危ない。

しばらくすると、二人の侍女が廊下を歩いてきた。

 

「奥様への書類は、もうお届けしたの?」

「ええ。あとは厨房に確認を……」

 

そんな会話を交わしながら、二人は俺が隠れている場所の前を通り過ぎていった。

気づかれなかった。

俺はほっと息を吐いた。

誰かに見られたら、間違いなく抱き上げられて連れ戻されるだろう。

それでも、目的地にはたどり着きたい。

俺は再び移動を始めた。

途中で何度か道を間違えた。

別の部屋に入りかけて、慌てて引き返したこともある。

侍女と鉢合わせしそうになり、扉の陰に身を潜めたこともあった。

 

そして、長い探索の末。

ついに、見覚えのある扉を見つけた。

扉の隙間から、古びた紙の匂いが漂ってくる。

あのとき見た本棚のある部屋の扉。

間違いない。

ここが書庫だ。

俺は扉に手をかけた。

もちろん、赤ん坊の力で簡単に開くはずもない。

だが、幸運にも扉は少しだけ開いていた。

俺は隙間に身体を滑り込ませた。

そして、目の前に広がる光景を見て、思わず息を呑んだ。

 

壁一面に並ぶ本棚。

その棚を埋め尽くす、無数の本。

背表紙の色は、茶色、黒、深緑、赤。

古いものから比較的新しいものまで、さまざまな本が並んでいた。

部屋の中央には大きな机が置かれ、その上にも数冊の本が積まれている。

窓から差し込む光が、空中に舞う細かな埃を照らしていた。

静かだった。

人の気配はない。

 

俺はしばらく、その光景を眺めていた。

そして。

――見つけた。

ようやく、目的の場所にたどり着いたのだ。

 

◇

 

さて、問題はここからだった。

本は大量にある。

しかし、どれが何について書かれたものなのか、俺にはわからない。

背表紙に書かれた文字は、相変わらず見慣れない記号の羅列にしか見えなかった。

タイトルが読めない以上、手当たり次第に探すしかない。

俺は近くの棚に手を伸ばした。

もちろん、一番上の段には届かない。

そのため、下の方にある本を引っ張り出すことにした。

分厚い本だった。

表紙は革張りで、角の部分が擦り切れている。

 

俺は両手で本を引っ張り、どうにか棚から取り出した。

……重い。

赤ん坊の腕には、かなりの負担だ。

それでも、なんとか床に下ろすことができた。

表紙を開く。

見慣れない文字が並んでいた。

当然、読めない。

次のページをめくる。

やはり読めない。

さらにめくる。

……読めない。

当たり前である。

文字を覚えるために本を探しに来たのに、文字が読めないと嘆いても仕方がない。

俺は本を閉じ、別の本を探すことにした。

今度は少し薄い本を選んだ。

表紙を開く。

文字。

文字。

文字。

……だめだ。

どうやら、俺の思いつきは甘かったらしい。

このままでは、本を眺めることしかできない。

しかし、諦めるのはまだ早い。

俺は棚を見上げ、別の本を探した。

 

そのとき、目に留まったものがあった。

棚の下段に、表紙の一部が剥がれた本が置かれている。

引っ張り出してみると、他の本とは少し違っていた。

文章だけではなく、ページのあちこちに絵が描かれているのだ。

炎のようなもの。

水のようなもの。

人が手を前にかざしている絵。

そして、空中に浮かぶ奇妙な模様。

……これは。

俺は夢中でページをめくった。

そこには、さまざまな現象を図解したような挿絵が並んでいた。

文字は読めない。

説明文も理解できない。

それでも、絵を見れば、ある程度のことは推測できる。

人が手をかざし、その先に火が生まれている絵。

別のページには、水が空中に集まっているような絵。

さらに別のページでは、石のようなものが浮かんでいた。

 

魔法だ。

これは間違いなく、魔法について書かれた本だろう。

俺の胸が高鳴った。

ようやく、手がかりを見つけたのだ。

俺は本を膝の上に置き、慎重にページをめくっていった。

すると、ある挿絵が目に留まった。

人の周囲に、小さな点のようなものが大量に描かれている。

その点は、人の手元へ集まっていき、やがて炎のような形を作っていた。

次のページにも、似たような絵がある。

今度は点が集まって水になり、その次では風の流れのようなものになっていた。

 

……なるほど。

俺は前世の知識を思い浮かべた。

魔法という現象を説明するために、何らかのエネルギーや物質を想定しているのだろうか。

俺が見てきた限りでは、魔法を使う侍女たちは何もない空間から火や水を生み出したり、物体を浮かせたりしていた。

もし、この本の挿絵が魔法の仕組みを示しているのなら。

空気中には、目に見えない何かが存在している。

魔法を使う人間は、その何かを集めたり、動かしたりして、別の現象を引き起こしている。

そう考えれば、少なくとも絵の内容には筋が通る。

もちろん、これは推測にすぎない。

文字を読めない以上、本当にそう書いてあるのかはわからない。

見えないものが、どのように働いているのか。

どのような条件で、どのような結果が生まれるのか。

もし法則があるのなら、それを理解することで、魔法をより効率よく使えるようになるかもしれない。

 

俺は次のページをめくった。

そこには、空間に描かれた点が、一方向へ流れていく様子が描かれていた。

さらに別の挿絵では、その点が特定の場所に集められ、形を変えている。

……空気中に何かが漂っている。

それを集め、操作することで、魔法を発動させる。

今の俺にわかるのは、そこまでだった。

その物質が何と呼ばれているのか。

どのような性質を持っているのか。

どうすれば操作できるのか。

肝心なことは、何一つわからない。

それでも、十分だった。

魔法は、ただの不思議な力ではないのかもしれない。

何らかの法則に従って働く現象であり、その仕組みを理解できれば、今よりも自由に扱える可能性がある。

俺は本を抱きしめた。

……素晴らしい。

前世を含めた人生で1、2に入るくらい胸が躍っていた。




この話は長いので3つくらいに分けることにしました
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