21XX年、とあるファミレスで起きた『一筋の事件』が、世界のコンプライアンス史を決定的に塗り替えた。
事態は極めて日常的で、同時に悲劇的だった。
注文された料理を運んできた女性ウェイトレスに対し、客がテーブルの下からニヤニヤと手を伸ばし、彼女の尻を撫で回したのである。
長年のストレスと突発的な不快感で感情を爆発させたウェイトレスは、トレイに乗っていた『フォーク』を握り締め、そのまま客の頭部に突き刺した。
幸い命に別状はなかったものの、事件は即座に傷害罪として大々的に報道された。
世論は激しく二分した。
『セクハラをした客が100%悪い』という強い同情論と、『いくらなんでもフォークで刺すのは過剰防衛であり危険すぎる』という批判。
企業側も必死に彼女を守ろうと試みたが、客に怪我を負わせた傷害事件という厳然たる法理の前には抗えず、涙を呑んでウェイトレスを解雇せざるを得なかった。
「どれほど理不尽な被害を受けようと、感情に任せて手を出せば、その瞬間に『加害者』へと転落し、会社も自分も守れなくなる」
この苦い教訓を得た現代の各企業は、法的に正しい手順で自己を防衛し、なおかつ社会的に完勝するための『対セクハラ被害者防衛プログラム』を導入した。
――そして。
その過酷かつ狂気に満ちた指導を執り行う国家資格所有者。
人々は彼らをこう呼ぶ。
『セクハラマイスター』――と。
21XX年、秋。
陽光が差し込む住宅街の舗装路を、橘葵(たちばな・あおい)は重い足取りで歩いていた。
彼女の職種は、大手企業に勤める営業職のOL23歳。
そして、彼女を語る上で絶対に避けて通れない最大の特徴――それが、スーツの布地を内側から強烈に押し広げる、「凶悪なHカップ」の爆乳であった。
すれ違う男性サラリーマンも、立ち止まった工事現場の作業員も、彼女が目の前を通り過ぎるたびに例外なく二度見、三度見、最低でも五度見は確実に視線を奪われていく。
それはもはや魅力というよりは、物理的な存在感による『暴力』に近かった。
しかし、当の葵本人は、すれ違う人々の視線を感じるたびに、胸の奥がキュッと締め付けられるような不快感に苛まれていた。
(……また見てる。みんな、私の胸ばかり……)
無意識のうちに背を丸め、猫背になる。
この豊かな胸を少しでも隠そうと肩をすぼめるのが、彼女の長年の癖になっていた。
新卒で入社して以来、彼女の営業成績は社内でも上位をキープしていた。
だが、その内訳は異常だった。契約を獲得してくる顧客の男性比率が、他の営業社員と比較して圧倒的に高いのだ。
『また橘が新規取ったって? どうせあのデカい胸を相手の顔に押し当てて契約取ってきたんだろ』
『男の客なんて、あんな爆乳見せられたらイチコロだからな。体使って稼ぐ営業は楽で羨ましいよ』
給湯室やデスクの陰から聞こえてくる、同僚たちの心ない陰口。
セクハラまがいの接待や、スケベな顧客からの不必要な接触を愛想笑いでやり過ごし、傷つきながらも必死に掴み取ってきた成果。それをすべて「胸のおかげ」「身体を売っている」の一言で片付けられるたび、葵にとってこの胸は誇りではなく、ただの深すぎるコンプレックスへと変わっていった。
(違う……! 私だって、ちゃんと提案書を作り込んで勉強してるのに……ッ!
……でも、契約をくれたお客様たちが最後に見つめていたのは、私の顔でも提案書でもなく、いつもこの胸だった。……本当に私の営業力なのかな? 周りの言う通り、ただこの胸のせいで取れてるだけなんじゃないの……?
心の中でどれだけ叫んでも、一度ついてしまった「色目使い営業」のレッテルは剥がれない。
断りきれずにセクハラを受け入れてしまう自分の弱さにも、それを免罪符に契約を取っているように見られてしまう現実にも、彼女は疲れ果てていた。
(よし……! 今日の目標は新規1件獲得! どれだけ渋られても簡単に引き下がらないで、相手のニーズを引き出して粘り倒すんだ。……でも、セクハラとか不必要な接触をしてくる客なら、毅然とお断りしてコンプライアンスを守る!)
営業マンとしてのプライドと、セクハラには屈しないという毅然とした意気込みを胸に抱き、葵は丸まりがちな背筋を意識して少しだけ伸ばした。
手元のタブレット端末で地図アプリを開き、目的地と目の前の住宅を見比べる。
「……よし、ここね」
閑静な住宅街に佇む、どこか浮世離れした清潔感と静寂を纏った一軒家。
葵は大きく深呼吸をすると、意を決して門柱の呼び鈴へと指を伸ばした。
「――以上のプランが、今回ご案内させていただく個人様向けの最新サービスとなります。お客様のライフスタイルにも非常にマッチしているかと存じますがいかがでしょうか?」
落ち着いた雰囲気の個人宅――その応接スペースで、橘葵は緊張に身を硬くしながらも、必死に練習してきた営業トークを締めくくった。
対面に座る男は、提示された資料にゆっくりと目を落とし、短く顎を引く。
葵の主観では、年齢は20代後半ほど。175センチはあるであろうすらりと背の高いスタイルに、パリッとした清潔感のあるシャツを着こなしている。細フレームのメガネの奥にある瞳は知的で落ち着きがあり、どこか冷徹とも言える洗練された雰囲気を纏っていた。
(良かった……すごくシュッとしてて理知的な人だ。これなら今までの客みたいに、下心丸出しでベタベタ触られたり、スケベな目で見られたりする心配もなさそう……)
今まで数々の下心丸出しな顧客(主に脂ぎった中年男性たち)から舐めるような視線を注がれてきた葵にとって、目の前のアラサー男性の冷ややかなほどの態度は、むしろ最大の安心材料だったのだ。
「……なるほど。悪くない内容だ。前向きに検討したいが……そうだな、もう少し『色』をつけてほしいところだな」
「? 色……といいますと? お値引きの交渉でしょうか?」
葵が首を傾げた次の瞬間、男は静かに立ち上がり、机を回って葵のすぐ目の前へと歩み寄ってきた。
そして、葵が返答を咀嚼する間もなく、その嫌らしい手つきが彼女の豊満な胸元へと迷いなく伸ばされる。
「――こういうことだよ」
「っ……!? な、何を……ッ!?」
スーツの上からでもはっきりと分かる、スーツの布地を押し押し戻す圧倒的なHカップの質量。男の手指が、その柔らかい肉感を愛でるようにじっくりとなぞり上げた。
「これほど見事な爆乳は滅多にお目にかかれないからね。契約を結んでほしいなら、少しは楽しませてもらわなければ困る」
「あ、あの……! 弊社のコンプライアンス上、このようなサービスは……っ!」
「契約する、と言っているんだよ? 双方にとって良い取引にするための、ほんの少しの『おもてなし』じゃないか」
「しかしですね……っ、それは問題が……ひゃうん!?」
困惑し、後退ろうとした葵の背後に瞬時に回り込んだ男の手が、容赦なく襲いかかった。
右手が背後から葵の巨大な右乳を鷲掴みにし、左手がタイトスカートの輪郭に沿って、その豊かなヒップをねっとりと撫で回す。
「ダ、ダメですよ……ッ! こんなの、後で絶対に大問題になっちゃいますから……っ!」
だが、葵の弱々しい拒絶など意にも介さず、男の手はさらに過激さを増していく。
ブラウスの隙間から滑り込んだ右手がダイレクトにブラジャーのカップの中へと潜り込み、左手もまたスカートの裾を押し広げて太ももの内側へと侵入を開始した。
「あ……ダメ、ダメですっ……! もうやめましょう……っ!?」
敏感な肌を直接撫で上げられ、葵の頭の中に警報が鳴り響く。
右手はすでにブラジャーの陰から溢れ出た生乳を直接揉みしだき、左手はショーツのラインを越えようとしていたその時。
(ダメ……! このままじゃ、言われるがままに抱かれちゃう……ッ!)
「だ、だ、ダメなんですーーーッ!!!」
パニックに陥った葵は、全身の力を込めて激しく身を捩り、背後に張り付いていた男を振り払おうとした。
――その瞬間。
葵が勢いよく振り抜いた右肘が、背後で彼女の体を拘束していた男の顔面を、鈍い音とともに完璧に直撃した。
「ゴッ!!!!」
「ぐ……ッ!?」
不意打ちのクリーンヒットを食らった男は、受身を取る間もなく後方へと豪快に倒れ込んだ。
「ひっ……!? あ、あぁぁっ!? す、すみません! 大丈夫ですか!?」
鼻を押さえて床に転がる男を見て、葵は血の気を引きながら弾かれたように駆け寄った。
男は手を退けると、その鼻腔からは赤黒い血液がポタリ、ポタリと床へ滴り落ちていた。
「ほんっとうに申し訳ありませんっ! 痛いですよね!? 今すぐティッシュを――」
オロオロと取り乱す葵に対し、床に伏せたままの男は、低く冷ややかな声を響かせた。
「……すみません? 君は今、『すみません』と……そう言ったのか?」
「え……?」
「契約の対価として卑劣にも君の肉体を要求し、うら若き乙女の身体を好き勝手に弄び、威圧的にセクハラを仕かけてきた悪質な痴漢に対し……君は平然と『すみません』と謝罪したのか?」
「あ……いや、でも、お鼻から血が……」
男は鼻血を垂らしたまま、眼鏡の歪みを正しゆっくりと、死神のような恐ろしさで起き上がった。
そして、怯える葵の顔を真っ直ぐに見据え、言い放った。
「0点だ、橘葵」
「れ、0点……!?」
鼻血を拭うことすらせず、冷酷な眼光を放つその男こそ――S.E.X.(Sexual Exploitation Expulsion Protocol)が誇る凄腕指導員、『セクハラマイスター』精野正であった。
正は胸ポケットから1枚の無地のカードを取り出すと、血で汚れていない左手で葵の目の前へと提示した。
そこには、深紅の文字で重厚な刻印が施されていた。
【S.E.X.(Sexual Exploitation Expulsion Protocol)】
「……っ!? え、SEX……!?」
「そうだ。性搾取・ハラスメント駆除プロトコル――通称『S.E.X.』。世に蔓延る不当なセクハラや性暴力に対し、被害者が自ら法的および肉体的な武器を持って撃退するための実技訓練を提供する、国家資格を有する歴とした正規の防衛機関だ」
男は眼鏡の位置を冷ややかに直すと、背筋をピンと伸ばし、堂々とした声で己の名を口にした。
「私の名は、精野正(せいの・ただし)。当機関における最高位の指導員――『セクハラマイスター』を務めている」
「せ、セクハラ……マイスター……!? セクハラを極めた変態ってことですか!?」」
「失礼なことを言うな。セクハラという不当な犯罪を完璧に分析・処置し、被害者を防衛者へと叩き直すスペシャリスト――それが『セクハラマイスター』だ」
「君の勤める会社は、これ以上君のような被害者を生み出さないため、巨額の予算を投じて我が機関に社員の『更生プログラム』を委託した。……つまり今日のこの個人宅でのシチュエーションは、君の防衛本能とコンプライアンス意識を試すための、完全なる実地試験だったということだ」
葵は開いた口が塞がらなかった。
自分が必死こいて営業プレゼンをしていた相手が、ただのスケベな個人客などではなく、自分を『教育』するために送り込まれたプロの指導員だったとは。
鼻血をポタリ、ポタリと床に落としながら、正の冷徹な声が密室に響き渡る。
その姿は、先程までいやらしくセクハラをしていた男とはまるで別人だった。
「――では、本題に入ろう。橘葵、会社での研修は受けているはずだな? 答えてみろ。……『不同意わいせつ罪』は刑法何条だ?」
「え……? え、えっと……け、刑法……? その、170条……とか、でしょうか……?」
研修は受けたはずだが思い出せない。まさか自分が実際に『対セクハラ被害者防衛プログラム』を遂行することになるとは思いもしなかったのだ。
当然、答えられない。焦りで視線を泳がせ、うつむいて指を弄る葵。
その情けない姿を見下ろし、正は深々と溜め息をつき、心底呆れ果てたように吐き捨てた。
「呆れたな。被害者でありながら、自分を守るための不同意わいせつが刑法何条ですら答えられないのか。君はセクハラ被害に遭っているんじゃない。自ら望んでセクハラを受けに行っているに過ぎない。」
「なっ……! そんな……ッ! 私、望んでなんて……ッ!」
「黙りたまえ!」
正の声が静かな部屋に一閃する。その気圧されるような威圧感に、葵の肩が跳ね上がった。
「君は無意識のうちに、自らセクハラを正当化しているのだ。『この胸があれば契約が取れる』という事実を、どこかで是としている。現に、君の営業成績における男性客の比率は、他の営業社員と比較して圧倒的に高い」
「っ……!」
葵の顔から、さっと血の気が引いていく。自覚の奥底に秘めていた一番痛いところを、容赦なく鋭利なナイフで抉られた感覚だった。
「今回のようなケースは、一度や二度ではないはずだ。相手が『色を付けろ』と言い出し、距離を詰め、胸や尻を触り……そして、下着の中にまで手が侵入する最後の最後まで、君は拒絶の判断を『相手の良心』に委ねていた。それが証拠だ。自分がハッキリ断らないことで、相手に『行けるところまで行ける』と思わせているのだからな!」
「ち、違います……っ! 私はただ、断って雰囲気が悪くなったら、契約がなくなっちゃうと思って……! それに、ハッキリ断りきれなかった私が悪いからって……っ!」
涙を浮かべ、必死に自分を弁明しようとする葵。
だが、正はその言葉すら一刀両断に切って捨てた。
「そうやって自分を責めるフリをして逃げるな! 契約のために己の身体を差し出し、流されることを受け入れた時点で、君は被害者であると同時に、犯罪を助長する『共犯者』に成り下がっているのだ!」
正はゆっくりと葵に歩み寄ると、鼻血の付着したティッシュを捨て、冷たい眼光で彼女の豊満すぎる胸元を指し示した。
「言っておくが、不同意わいせつ罪は『刑法第176条』だ。覚えておけ。……君のその豊満なバストは、男どもに悪用されるための生肉でもなければ、契約を取るための『色付け』の道具でもない。君が正当に胸を張り、不当な加害者を合法的に叩き潰すための、強靭な防衛拠点なのだ!」
「今回の不祥事は、当然ながらクライアントである君の所属企業へ正式に報告させてもらう」
正は淡々と血を拭ったティッシュをゴミ箱へ放り投げ、冷徹な告知を続けた。
「セクハラ行為を許した挙句、不可抗力とはいえ指導員である私の顔面に肘打ちを叩き込み、過失傷害を負わせたのは動かしようのない事実だ。もしこれが本物の悪質顧客であったなら、相手は『不同意わいせつ罪』だが、君もまた『過失傷害罪』で立件されるリスクを否定できない。即刻の再研修、および謹慎処分は覚悟したまえ」
その瞬間、葵の表情が氷のように固まった。
(最悪だ……っ!)
頭の中を絶望的な思考が駆け巡る。
S.E.X.の更生プログラムにおいて「0点(不合格)」と査定されるだけでも壊滅的なのに、さらに構成員への過失暴行による謹慎処分。社内での評価はドン底まで落ち、何より「被害者防衛プログラム・落第」という烙印を押されてしまう。
それは過剰コンプラ社会の裏側において、「この女はセクハラされても正しく法理で拒絶・対処できない」というセクハラの免罪符を男どもに与えることを意味していた。
そうなれば、仮に再講習を受けて復帰したところで、今の会社でまともに営業を続けることなど不可能なのは火を見るより明らかである。
「な……なんとかなりませんか……っ!?」
葵の目からボロボロと涙が溢れ出す。彼女は崩れ落ちそうな膝を必死に持ちこたえ、正の服の袖にしがみつくようにして懇願した。
「た、確かに私の対応は0点でした……! 泣き寝入りしようとして、法的な知識もなくて、正さんに怪我までさせて……っ! でも、国家資格をお持ちのマイスター……正さんなら、こんなダメな私でも更生させることができるんですよね……!? お願いです、どうか……指導してくださいっ!!」
鼻血を完全に拭い去った精野正は、懇願する葵を冷ややかな眼光で見下ろした。
手帳を開き、ボールペンのノックをカチリと鳴らす。
「……ほう。免責の嘆願ではなく、過酷な実地指導の受講を直訴するか。言っておくが、S.E.X.の即時補習は生半可なものではないぞ。君のその誇り高い『武器』を徹底的に再定義してもらうことになる」
「は、はい……っ! なんですか!? 何でもしますっ、私を……私を叩き直してくださいっ!!」
追い詰められた葵のその言葉を聞き届け、正の唇の端が、不敵で冷徹な「マイスターの笑み」へと歪んだ。