夜八時。閉店まで、あと一時間。
駅前のカフェ「ルポ」の店内には、ノートパソコンを広げた学生が二人と、文庫本を読む年配の女性客が一人いるだけだった。
コーヒーマシンの低い唸りと、控えめなジャズが、静かな空気を満たしている。
カウンターの内側で、千夏はミルクピッチャーを洗いながら、隣で伝票をまとめている玲奈の横顔をちらりと見た。
制服の白いシャツは、今日も第三ボタンまで開いている。屈むたびに、豊かな谷間と、淡い色のブラの縁がのぞく。
黒いスカートは規定よりもずいぶん短く詰められていて、長い脚が惜しげもなく伸びていた。
「玲奈ちゃん、またシャツのボタン開けすぎ。お客様の前よ?」
「えー、だって暑いんですもん。コーヒーマシンの前、ずっといたら汗かいちゃう」
玲奈はシャツの襟元を指でつまんで、ぱたぱたと扇いでみせた。
「それに、女のお客さんにはこっちのほうがウケいいんですよー。この前も、『玲奈ちゃん今日も可愛いね』って言ってくれた人いたし」
千夏は小さくため息をついて、それから苦笑した。叱っても、この子はいつもこの調子だ。それでいて仕事は早いし、客の顔もよく覚えている。だから、強くは言えなかった。
「てか、千夏さんこそ、そのエプロンいつもきっちりしてて、暑くないんですか?」
千夏の制服は、白いブラウスの上に、胸元まで覆う紺色のエプロン。その下に、くるぶし近くまである丈の長いフレアスカート。店長になってから、ずっとこの格好だった。
「私はいいの。もうそういう年じゃないし」
「えー、もったいない。千夏さん、絶対スタイルいいのに」
玲奈は人懐っこい笑顔で、さらりと言った。
「……え?」
「エプロンの上からでも分かりますよー。腰きゅってしてるし、お尻の形も綺麗だし。胸だって、私と同じくらいありません? 隠してるの、ほんともったいない」
「も、もう。何言ってるの」
千夏は笑って流した。流したつもりだった。けれど、ミルクピッチャーを持つ手が、少しだけ止まっていた。
頬が、熱い。
(……スタイルいい、なんて)
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
結婚する前、まだ二十代の半ばだった頃は、智也もよくそんなことを言ってくれた。
新しいワンピースを着れば「似合う」と言い、髪を切れば「可愛い」と笑った。
手をつないで歩き、夜になれば、当たり前のように肌を重ねた。
いつから、なくなったのだろう。
はっきりとした境目は、思い出せなかった。ただ気がつけば、智也は千夏の服装に何も言わなくなり、千夏も、誰かに見せるための服を選ばなくなっていた。
「そういえば、旦那さん今日も出張でしたっけ?」
「ええ。今週はずっと大阪。帰ってくるのは土曜日」
「へー。大変ですねー、商社って」
「そうね。……でも、もう慣れっこよ」
本当のことだった。
智也は優しい。怒鳴ったりもしないし、家事にも文句を言わない。給料もきちんと稼いでくる。
友人に話せば「いい旦那さんじゃない」と言われるし、千夏自身も、そう思っている。ただ、もう何年も、自分を「女」として見ていない。
出張から帰ってきても、「ただいま」と「おかえり」を交わして、夕食を食べて、テレビを見て、それぞれ風呂に入って、同じベッドで背中を向け合って眠る。
最初の頃は、寂しいと思った。何度か、自分から寄り添ってみたこともある。けれど智也は
「疲れてるんだ、ごめん」と言って、すぐに寝息を立て始めた。
それが何度か続いて、千夏は、寄り添うのをやめた。
今では、それが当たり前になっていた。
「……千夏さん?」
名前を呼ばれて、千夏ははっと顔を上げた。
玲奈が、カウンターに頬杖をついて、千夏の顔を下から覗き込んでいた。
開いたシャツの胸元から、豊かな谷間がのぞいている。千夏は一瞬だけそこに目を落としてしまって、慌てて視線を逸らした。
「ご、ごめんなさい。ぼーっとしてたわ」
「んー? 千夏さん、ちょっと寂しそうだなーって思って」
「……え」
「旦那さんの話するとき、いつもちょっとだけ声のトーン下がるんですよ。気づいてました?」
千夏は、言葉に詰まった。
玲奈の目は、笑っていた。けれどその奥に、こちらの胸の内を見透かすような光があった。
「……寂しくなんかないわよ。もう慣れっこだし」
「ふーん」
玲奈はそれ以上何も言わず、ただにっこりと笑って、カウンターから身体を起こした。
「じゃ、私テーブル拭いてきまーす」
ひらりとスカートの裾を揺らして、玲奈はフロアへ出ていった。
閉店後、一人きりのマンションに帰ったのは、夜の十時過ぎだった。
電気をつける。誰もいないリビング。冷蔵庫には、作り置きのおかずが、二人分。智也が帰ってくるまで、あと四日。
シャワーを浴びて、脱衣所の鏡の前に立つ。いつもなら、すぐにパジャマを着て、鏡など見ない。けれど今夜は、なぜか、濡れた髪を拭く手が止まった。
鏡の中の自分を、千夏はじっと見つめた。
三十二歳。若くはない。けれど、肌はまだ張りを失っていない。胸は、エプロンで隠しているのがもったいないと言われるほどの大きさで、重たげに丸みを保っている。
腰はくびれ、そこから臀へと、なだらかな曲線が続いている。
(……まだ、そんなに悪くない、のかな)
そう思った自分に、千夏は少し驚いた。
『千夏さん、絶対スタイルいいのに』
玲奈の声が、耳の奥でよみがえる。
千夏は、そっと自分の胸に手を当てた。指先が、柔らかな膨らみに沈む。誰かに触れられたのは、もう何年前のことだろう。
指先が、少しだけ下に滑りかけて、千夏は慌てて手を離した。
(……何をしてるの、私)
パジャマを着て、ベッドに潜り込む。広すぎるダブルベッドの、いつもの右側。左側は、今夜も空いている。
目を閉じても、なかなか眠れなかった。胸元の開いたシャツ。人懐っこい笑顔。こちらを見透かすような目。
『ちょっと寂しそうだなーって思って』
千夏は寝返りを打って、枕に顔を埋めた。頬の熱は、いつまでも引かなかった。
本番はいつになるか分かりません