その日から、千夏は玲奈のことが気になり始めた。
評判は、元から知っていた。
「あの子さ、大学で男を食い物にしてるらしいよ」
「彼氏持ちにも平気で手出すんだって。友達の彼氏、取られたって言ってた」
常連の女子大生たちが、窓際の席でひそひそと噂しているのを、千夏は一度や二度ではなく耳にしていた。そのたびに、店長として、聞かなかったふりをしてきた。
けれど、一緒に働いている玲奈は、噂とは少し違った。
仕事は早い。注文を間違えることはほとんどないし、一度来た客の好みは、ちゃんと覚えている。客あしらいもうまい。ちょっと面倒な常連の老紳士も、玲奈が相手だとにこにこと帰っていく。
その一方で、若い男性客には、不思議なほど冷たかった。
「ねえお姉さん、何時にバイト終わるの? このあと飲み行かない?」
カウンター越しに身を乗り出してきた大学生風の男に、玲奈はいつもの笑顔のまま、あっさりと言った。
「ごめんなさーい。私、男の人にはマジで興味ないんですよー。ご注文は以上でよろしいですか?」
男がふてくされたように席に戻っていくのを見送りながら、千夏は思わず、玲奈の横顔を見つめてしまった。
(……男の人には、興味ない?)
では、あの噂は何なのだろう。
そのくせ、玲奈は女性客や千夏には、やたらと距離が近かった。
「千夏さん、髪にごみついてる」
開店前の仕込みの最中。そう言って、玲奈は千夏の首筋のあたりに、すっと指を伸ばしてきた。指先が、うなじをかすめる。
「……っ」
千夏の肩が、小さく跳ねた。
「はい、取れた。……どしたの? くすぐったかった?」
「い、いえ。ありがとう」
そう答えながら、千夏は自分の首筋にそっと手を当てた。触れられたところが、ほんのりと熱い。
ある日の休憩時間には、こんなこともあった。
「千夏さん、この新作のケーキちょっと食べてみて。生クリーム、甘すぎないかなーって」
バックヤードの小さなテーブルで、玲奈は自分のフォークでケーキをひと切れすくい、千夏の口元に差し出した。
「はい、あーん」
「え、ちょっと……自分で食べるわよ」
「いいからいいから。ほら、落ちちゃう」
拒む間もなく、唇にフォークが当てられる。千夏は仕方なく口を開けた。生クリームの甘さが、舌の上に広がる。
「どう?」
「……美味しいわ。ちょうどいい甘さ」
「よかったー。……あ、千夏さん、クリームついてる」
玲奈の親指が、千夏の唇の端を、すっとなぞった。そしてその親指を、そのまま自分の口に運んで、ちろりと舐めた。
「ん、甘っ」
千夏は、何も言えなかった。
ただ、心臓が、うるさいほど早く鳴っていた。
(……女の子相手に、何をどきどきしてるの)
そう自分に言い聞かせた。きっと、久しく誰かに触れられていないからだ。それだけのことだ。
そのはずだった。