翌週の金曜の夜。
「ルポ」のシャッターは、21時ちょうどに下ろされた。
最後の客を見送って、千夏は店内の照明を半分落とした。
カウンターの上のペンダントライトだけが、暖色の光を落としている。
今日のシフトは、千夏と玲奈の二人だけだった。
レジを締め、売上を確かめ、入金袋に詰める。いつもなら、そのまま手早く片付けを済ませて、帰り支度をする。
けれど今夜の千夏は、カウンターの内側のスツールに腰を下ろしたまま、なかなか立ち上がれなかった。
智也は、今週も出張だった。帰っても、誰もいない。
先週のあの夜から、千夏は、一人きりの寝室が少しだけ怖くなっていた。布団に入ると、また同じことをしてしまいそうで。
いや、実際、あれから二度、同じことをしてしまっていた。そのたびに、まぶたの裏に浮かぶのは、夫の顔ではなかった。
「千夏さん、コーヒー淹れたよ」
声がして、千夏は顔を上げた。
エプロンを外した玲奈が、湯気の立つマグカップを二つ持って立っていた。
「……あら、まだ帰ってなかったの。もう上がっていいのに」
「えー、千夏さん一人だけ残して帰れないですよー。はい、これ。ミルク多め、砂糖なし。でしょ?」
「……よく覚えてるわね」
「そりゃあ、千夏さんのことだもん」
玲奈はさらりとそう言って、隣のスツールに腰を下ろした。ほんの少し、肩が触れそうな距離だった。
千夏は「ありがとう」と小さく言って、マグカップを両手で包んだ。温かさが、指先からじんわりと染みてくる。
しばらく、二人とも黙っていた。シャッターの外を、時々、車が通り過ぎる音がする。冷蔵ショーケースのモーターが、低く唸
っている。それだけだった。
千夏は、何か話さなければと思った。けれど、何を話せばいいのかわからない。あの日のバックヤードのことは、二人とも、一度も口にしていなかった。
それを破ったのは、玲奈だった。
「この前、バックヤードでさー」
のんびりとした、いつもの口調だった。
「気づいてたでしょ?」
千夏の手が、マグカップの上でぴたりと止まった。
「……何のこと」
「とぼけなくていいよー。あの後、千夏さんずっと私のこと、ちらちら見てたもん。……ここ、だけど」
玲奈は、自分のスカートの前を、指先でとんとんと叩いた。
千夏は、思わずそこを見てしまった。
短いスカートの布の下に、はっきりと、重たげな膨らみが浮かんでいた。太腿の付け根から斜めに、長く伸びる輪郭。
あの日、臀に押し当てられたものの形だった。
千夏は、息を吸うのも忘れて、それを見つめていた。
「私さー、こういう身体なんだよね」
玲奈は、マグカップを一口すすってから、天気の話でもするような調子で続けた。
「ふたなりってやつ。世界に二人しかいないんだって。ちっちゃい頃からこれだから、私にとっては当たり前なんだけど」
「……ふたなり……」
「そ。で、男には全然興味ないの。むしろ嫌いかも。大学じゃなんか、男食いまくってるとか言われてるけどさー。一回もないよ、男となんて」
玲奈はけらけらと笑った。
「その代わり、女の人にはちょー興味あるの。……特に、寂しそうにしてる女の人」
最後の一言だけ、声が少し低かった。
千夏は、マグカップを握る指に、力が入るのを感じた。
「……どうして、私にそんな話をするの」
「んー?」
玲奈は、千夏のほうに体を向けた。ペンダントライトの橙色の光が、その横顔を柔らかく照らしている。
「千夏さんが、寂しそうだから」
玲奈は、千夏の左手を取った。
マグカップからそっと引き離し、自分の手のひらの上に乗せる。千夏は、振りほどくことができなかった。
薬指には、結婚指輪が光っている。七年前、智也が着けてくれた、細いプラチナのリング。
玲奈の親指が、その指輪を、そっとなぞった。ゆっくりと、一周。
「旦那さん、最後に千夏さんのこと抱いたのいつ?」
千夏は、答えられなかった。
答えを知らないわけではなかった。ただ、口に出したくなかった。口に出せば、それが本当になってしまう気がした。
二年。いや、もう少し前かもしれない。最後がいつだったのか、はっきりとは思い出せない。
これが最後になるなんて、そのときは思いもしなかったから。
「……だよねー」
玲奈は、小さく笑った。意地の悪い笑いではなかった。ただ、わかっていた、というような、静かな笑い。
「顔に書いてあるもん。初めて会った日からずっと、千夏さん、『誰かに触ってほしい』って顔してた」
「……そんなこと……」
「あるよ。……この前、髪のごみ取ったときも、ケーキ食べさせたときも、ちょっと触っただけで、すっごい顔赤くなってたもん」
親指が、指輪からそっと離れ、千夏の手の甲をゆっくりと撫でた。
それだけで、千夏の背筋に、小さな痺れが走った。
「ほら。今も」
「……だめよ、玲奈ちゃん」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど弱かった。
「私、結婚してるの」
「知ってるー」
「それに、あなたはバイトで、私は店長で……」
「それも知ってるー」
玲奈は、千夏の手を、そっと離した。
あれほど握られていた手が、急に空っぽになる。千夏は、そのことに、自分でも驚くほど、胸がきゅっと縮むのを感じた。
(……どうして)
だめだと言ったのは、自分なのに。
「だからさ」
玲奈は、スツールから立ち上がった。のびをするように両腕を上げ、それから、千夏を見下ろして、いつもの人懐っこい笑顔で笑った。
「私からは、何もしないよ」
本番書きたくなったせいで結構急な展開になってるかもです