※この作品はR-18です。

背徳の日々   作:天狗連

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本番まで行けませんでした


5

「私からは、何もしないよ」

 

 

「千夏さんが『だめ』って言うなら、私今日はこのまま帰るし。来週も普通にバイト来る。何にもなかったことにして、ぜーんぶ忘れてあげる。千夏さんが嫌なら、バイトも辞めるよ」

 

「……」

 

「私さー、無理やりとか、一番ダサいと思ってるんだよね。こういうのは、相手が自分から来なきゃ意味ないもん」

 

そう言って、玲奈はバックヤードの扉の前まで歩いていった。

 

扉に手をかけて、玲奈は振り返った。ペンダントライトの光が届かない、薄暗がりの中。その笑顔だけが、はっきりと見えた。

 

「でもさ。もし千夏さんが自分から、こっち来るなら」

 

一拍。

 

「千夏さんのこと、女に戻してあげる」

 

扉が、半分だけ開いて、玲奈の姿がその奥に消えた。

 

閉められはしなかった。扉は、半分開いたままだった。その隙間から、バックヤードの蛍光灯の白い光が、店内の床に細い線を引いている。

 

千夏は、カウンターの内側で、じっと動かなかった。

 

マグカップのコーヒーが、ゆっくりと冷めていく。湯気はもう立っていない。壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

チクタク、チクタク。

 

帰るべきだと思った。

 

レジを閉めて、入金袋を金庫にしまって、照明を全部落として、裏口の鍵をかけて。

玲奈には「おつかれさま」とだけ声をかけて、駅まで歩いて、電車に乗って、一人きりの家に帰る。

 

そうすれば、明日からも何も変わらない。

 

土曜日には智也が帰ってくる。「おかえり」と言って、夕食を作って、一緒にテレビを見て、同じベッドで、背中を向け合って眠る。

来週も、再来週も。来月も、来年も。

 

何も、変わらない。

 

その言葉が、千夏の胸を、重く、冷たく締め付けた。

 

(……それで、いいのよ。それが、普通なの)

 

そう自分に言い聞かせる。

七年間、ずっとそうやってきた。寂しいと思うたびに、寄り添って拒まれるたびに、そう言い聞かせてきた。

だから、今度も、大丈夫なはずだった。

 

けれど。

 

『千夏さんのこと、女に戻してあげる』

 

その一言が、耳の奥にこびりついて離れなかった。

 

千夏は、自分の左手をゆっくりと持ち上げた。

 

薬指の指輪が、半分落とした照明の下で、鈍く光っている。

 

七年前の、教会の祭壇。智也の指が少し震えていて、なかなか指輪が入らなかった。参列者の前で二人とも吹き出してしまって、それから、智也が照れくさそうに「幸せにする」と小さく言った。

あのときは、本当に幸せだった。

 

今は。

 

千夏は、指輪をじっと見つめた。

智也が悪いわけではない。優しい人だ。自分を大事にしてくれている。ただ、その「大事」の中に、もう、女としての千夏はいない。家族として、同居人として、大事にしてくれているだけ。

 

それを寂しいと思う自分は、わがままなのだろうか。

 

『初めて会った日からずっと、千夏さん、『誰かに触ってほしい』って顔してた』

 

そうだったのかもしれない。自分でも気づかないふりをしていただけで、本当はずっと。

 

誰かに、女として見られたかった。誰かに、欲しがられたかった。

 

千夏の目の奥が、じんと熱くなった。どれくらい、そうしていたのだろう。

 

時計を見ると、玲奈がバックヤードに消えてから、十五分が過ぎていた。

その間、扉の向こうからは、何の音もしなかった。帰ったのではない。裏口の扉が開く音はしなかった。

ただ、そこで、待っている。

千夏が来るのを。あるいは、来ないのを。

 

(……もし、今帰ったら)

 

あの子は、本当に何もなかったことにするのだろう。来週もいつものように「おはよーございまーす」と笑って、シャツのボタンを開けすぎて、千夏に叱られて。

 

そして二度と、あんなふうに指輪をなぞったりはしない。

 

それを想像した瞬間、千夏の胸が、ぎゅっと痛んだ。

千夏は、ゆっくりとスツールから立ち上がった。

 

脚が、少し震えていた。

 

帰るのなら、レジのほうへ。そうでないなら。

千夏の指が、自分のエプロンの紐にかかった。

 

紐をほどく。首の後ろの結び目も。

紺色のエプロンが、するりと千夏の身体から滑り落ちた。

 

店長になってから、毎日着けていたエプロン。きっちりと胸元まで覆って、自分を「店長」でいさせてくれていたもの。

 

それを、千夏は、カウンターの上にそっと置いた。玲奈のエプロンの、すぐ隣に。

 

白いブラウスの胸元が、半分落とした照明に照らされる。布地を内側から押し上げる、豊かな膨らみ。エプロンで、ずっと隠してきたもの。

 

千夏は、一度だけ、深く息を吸った。

それから、半分開いたままの扉のほうへ、一歩を踏み出した。

 

もう一歩。もう一歩。

 

扉の前に立つ。蛍光灯の白い光が、千夏のつま先を照らしている。

 

(……一回だけ)

 

そう心の中で唱える。自分への言い訳だと、わかっていた。

一回だけ。少しだけ、思い出したいだけ。自分が、女だったことを。

千夏は、扉の取っ手に、そっと手をかけた。

 

薬指の指輪が、金属の取っ手にふれて、かちん、と小さな音を立てた。

それでも、手は離さなかった。

 

 

千夏は、扉を押し開けた。




長文のメモや小説はPDF&圧縮ファイルにすると容量がだいぶ減るのでお得らしいです。友達が言ってました。やったことないので知りませんがね。
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