「私からは、何もしないよ」
「千夏さんが『だめ』って言うなら、私今日はこのまま帰るし。来週も普通にバイト来る。何にもなかったことにして、ぜーんぶ忘れてあげる。千夏さんが嫌なら、バイトも辞めるよ」
「……」
「私さー、無理やりとか、一番ダサいと思ってるんだよね。こういうのは、相手が自分から来なきゃ意味ないもん」
そう言って、玲奈はバックヤードの扉の前まで歩いていった。
扉に手をかけて、玲奈は振り返った。ペンダントライトの光が届かない、薄暗がりの中。その笑顔だけが、はっきりと見えた。
「でもさ。もし千夏さんが自分から、こっち来るなら」
一拍。
「千夏さんのこと、女に戻してあげる」
扉が、半分だけ開いて、玲奈の姿がその奥に消えた。
閉められはしなかった。扉は、半分開いたままだった。その隙間から、バックヤードの蛍光灯の白い光が、店内の床に細い線を引いている。
千夏は、カウンターの内側で、じっと動かなかった。
マグカップのコーヒーが、ゆっくりと冷めていく。湯気はもう立っていない。壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
チクタク、チクタク。
帰るべきだと思った。
レジを閉めて、入金袋を金庫にしまって、照明を全部落として、裏口の鍵をかけて。
玲奈には「おつかれさま」とだけ声をかけて、駅まで歩いて、電車に乗って、一人きりの家に帰る。
そうすれば、明日からも何も変わらない。
土曜日には智也が帰ってくる。「おかえり」と言って、夕食を作って、一緒にテレビを見て、同じベッドで、背中を向け合って眠る。
来週も、再来週も。来月も、来年も。
何も、変わらない。
その言葉が、千夏の胸を、重く、冷たく締め付けた。
(……それで、いいのよ。それが、普通なの)
そう自分に言い聞かせる。
七年間、ずっとそうやってきた。寂しいと思うたびに、寄り添って拒まれるたびに、そう言い聞かせてきた。
だから、今度も、大丈夫なはずだった。
けれど。
『千夏さんのこと、女に戻してあげる』
その一言が、耳の奥にこびりついて離れなかった。
千夏は、自分の左手をゆっくりと持ち上げた。
薬指の指輪が、半分落とした照明の下で、鈍く光っている。
七年前の、教会の祭壇。智也の指が少し震えていて、なかなか指輪が入らなかった。参列者の前で二人とも吹き出してしまって、それから、智也が照れくさそうに「幸せにする」と小さく言った。
あのときは、本当に幸せだった。
今は。
千夏は、指輪をじっと見つめた。
智也が悪いわけではない。優しい人だ。自分を大事にしてくれている。ただ、その「大事」の中に、もう、女としての千夏はいない。家族として、同居人として、大事にしてくれているだけ。
それを寂しいと思う自分は、わがままなのだろうか。
『初めて会った日からずっと、千夏さん、『誰かに触ってほしい』って顔してた』
そうだったのかもしれない。自分でも気づかないふりをしていただけで、本当はずっと。
誰かに、女として見られたかった。誰かに、欲しがられたかった。
千夏の目の奥が、じんと熱くなった。どれくらい、そうしていたのだろう。
時計を見ると、玲奈がバックヤードに消えてから、十五分が過ぎていた。
その間、扉の向こうからは、何の音もしなかった。帰ったのではない。裏口の扉が開く音はしなかった。
ただ、そこで、待っている。
千夏が来るのを。あるいは、来ないのを。
(……もし、今帰ったら)
あの子は、本当に何もなかったことにするのだろう。来週もいつものように「おはよーございまーす」と笑って、シャツのボタンを開けすぎて、千夏に叱られて。
そして二度と、あんなふうに指輪をなぞったりはしない。
それを想像した瞬間、千夏の胸が、ぎゅっと痛んだ。
千夏は、ゆっくりとスツールから立ち上がった。
脚が、少し震えていた。
帰るのなら、レジのほうへ。そうでないなら。
千夏の指が、自分のエプロンの紐にかかった。
紐をほどく。首の後ろの結び目も。
紺色のエプロンが、するりと千夏の身体から滑り落ちた。
店長になってから、毎日着けていたエプロン。きっちりと胸元まで覆って、自分を「店長」でいさせてくれていたもの。
それを、千夏は、カウンターの上にそっと置いた。玲奈のエプロンの、すぐ隣に。
白いブラウスの胸元が、半分落とした照明に照らされる。布地を内側から押し上げる、豊かな膨らみ。エプロンで、ずっと隠してきたもの。
千夏は、一度だけ、深く息を吸った。
それから、半分開いたままの扉のほうへ、一歩を踏み出した。
もう一歩。もう一歩。
扉の前に立つ。蛍光灯の白い光が、千夏のつま先を照らしている。
(……一回だけ)
そう心の中で唱える。自分への言い訳だと、わかっていた。
一回だけ。少しだけ、思い出したいだけ。自分が、女だったことを。
千夏は、扉の取っ手に、そっと手をかけた。
薬指の指輪が、金属の取っ手にふれて、かちん、と小さな音を立てた。
それでも、手は離さなかった。
千夏は、扉を押し開けた。
長文のメモや小説はPDF&圧縮ファイルにすると容量がだいぶ減るのでお得らしいです。友達が言ってました。やったことないので知りませんがね。