大きなケヤキの木の下、紡錘形の鋸歯で編み上げられた天幕の下、数人の子どもたちに囲まれて女が紙束をひらげている。時折、風が吹き、梢が揺れ、木漏れ日の粒が彼女たちに降り注いだ。見えない存在が道案内をするかのように、女の持つ紙束の上に光の足跡が明滅する。足跡を追って、女は言葉を継いでいく。ある子どもは女の隣で木の幹にもたれながら、ある子どもは女の膝に頭をのせながら、ある子どもは紙束を覗き込みながら、継がれ伸びゆく言葉の綾織を自身の脳内で広げ直す。そこに現れる景色に思いを馳せる。
「先生、次はおひめさまのお話して〜」
女の膝の上にいる子どもが言った。
「昨日もおひめさまだったから今日は冒険の話がいいよ!」
木の幹にもたれていた子どもが言った。
「そうだなぁ。じゃあ、今日はちょっと怖い話にしようかな」
女は紙束を繰る。
「おばけ?」
紙束を覗き込んでいた子どもがおそるおそる聞いた。女はそれぞれの子どもたちの顔を順に見渡しながら、声をひそめて言った。
「雪女の話」
その瞬間、ガサッと音がして、子どもたちは跳ね上がった。皆、女の懐に飛び込む。早くも妖怪の類が現れたと震える子どもたちの背をさすりながら、女はその正体を見上げた。「驚かしちゃってごめんね」。長い間この場所にあり続けたと思われるケヤキの太い幹の背後から現れたのは妖怪などではなく、女も、子どもたちもよく知る人物であった。
「西園寺くん」
なぁんだ、羽京先生か。ほっとしたように子どもの一人が言った。そんなことだろうと思ったよ。子どもの一人は強がりを言った。あぁ、びっくりした。子どもの一人は女に抱きついたまま言った。現れた男は、突然の登場に驚かされた子どもたちからの非難の言葉に笑いながら問うた。
「僕も聞いていいかい?」
もちろん。女は手招きする。男はケヤキの幹にもたれる女に向かうように、木陰の端に腰をおろした。女は話を始めた。昔、二人の男がいて、山で雪女に会い、一人は殺され、一人は生かされた。雪女を見たことを誰にも言わないという約束で生かされた男はお雪という女と夫婦となり子をもうけた。肌が白く美しいお雪の顔に、かつて出会った雪女の面影を見た男はついに雪女の話をしてしまう。お雪は豹変する。お雪こそが雪女だったのだ。雪女に会ったことを話せば命を奪うという約束だったが、今度は子どもたちを大事にすることを約束に、雪女は再び男を生かし姿を消した。子どもたちは静かに聞き入った。透徹した語り口は雪女のようで、子どもたちを見守る眼差しはお雪のようである女の物語に、男も聞き入っていた。
-
物語を終え、子どもたちは去り、木陰には女と男が残った。話し続けた喉を潤そうと女は水筒に口をつけた。竹筒でできた水筒は、先ほどの子どもたちと共に手ずから作ったものである。衛生的にそろそろお役御免として箸にでも加工したほうが良い、などと考えているところへ男が尋ねた。
「すっかり先生業も板についたね。仕事に支障はない?」
男は男で金属製の水筒から水を飲んでいた。最近、この村では金属の加工品がよく出回るようになったのだ。さまざまな資源が集められ、急速に文明が発達していることの証左でもあった。
「ありがとう。南からの仕事もきちんとやってるよ」
女は元記者の北東西によって選出された復活者の一人である。本格的なロケット開発に向け多くの人間が復活させられたタイミングで女もまた復活しているが、労働者としてではなく、大勢の人間を束ねるためのエンタメ産業を担う人員としての復活であった。女は元編集者だったからだ。北東西とは元々同じ新聞社に勤めていたことがあり、その縁で選出された。ラジオやテレビ、ゲームのほか、まだまだ通信網が発達していないストーンワールドにおいて新聞や雑誌等の紙媒体によるアナログなエンタメを担当することになったのだ。
主に北東西が取材したニュースを瓦版の様に掲示したり、画家・漫画家たちの作品を編集して流通させたりするのが女の仕事だった。エンタメにまつわる仕事ではないが、人類石化後から現在に至るまでの足跡を後世に伝えるための歴史書の編纂も重要な仕事として任されるなど、これまで科学の発展およびそれに必要な膂力だけが求められてきた中では、人類の生活環境が整いつつある今だからこその、文化部門再興の一歩を任されていたのだった。子どもたちを対象とした村の学校で文字を教えたり、作文の指導なども行っており、同じく先生役をつとめる男とは良く知った仲だった。
「君はいろんな物語を知っているんだね」
女の手元を見ながら、男はため息混じりに言った。見つめているのは女が持つ紙束だった。
「そんなことないの。絞り出してるだけ。人に聞いたりもしてるよ。獅子王くんは妹さんがいるからか意外といろんな童話を覚えてたりするんだよ」
ラプンツェルとか、雪の女王とか。女は、旧世界において人気アニメーション映画の原作となった有名な童話の筋がメモされたページをめくってみせる。妹への愛情がかの大男の中に童話という形になって蓄えられていた事実は、女はもちろん、それを聞いた男の胸をじわりと締め付けた。この新世界で武力の象徴となった男のいじらしさに、二人で目を細める。
「このメモ、みんな、君が?」
男が手を差し出す。女はその手に持っていた紙束を委ねた。所狭しと文字で埋め尽くされた紙が数十葉、麻紐で束ねられている。男はいかにも繊細なものを触るかの様に、そっとめくっていく。男があまりにもマジマジとそのメモの束を見ていくので、あくまで自分のためのメモであり随分と雑な文字も並んでいることに恥じらいを感じはじめた女は落ち着かない気持ちでその様子を見ていた。
「貴重な紙をたくさん使っちゃって申し訳ないけど」
「いいや。子供たちも喜んでいるし、文字を学ぶモチベーションにもつながると思う。けど、どうしてそんなに物語を集めるの?」
ページによっては書ききれなくなったのか、どんどんと文字が小さく詰められていっているそのメモにただならぬ情熱の蓄積を感じ、男は疑問を呈す。何が彼女をしてそこまで物語を収集せしむるのか。紙束の厚み、そこに書き連ねられた文字の量、ここに注がれている膨大なエネルギーの源泉、それに単純な興味があった。男のてらいのない疑問に女ははにかみながら首をかしげた。この情熱の源など考えもしなかったというように。
「科学王国だからこそ、フィクションが大事かなって」
「フィクション」
「ジャーナリズムは南がいるし。ローティがいうにはエスノグラフィも重要らしいんだけど、まずはね」
「……意義ある仕事だね」
男はローティやエスノグラフィという言葉が何を指すか分からなかったが、それらについての質問はしなかった。女の言わんとすることがなんとなく知れたからだった。科学が玉座に座る新世界において、ともすれば置き去りにされうる人々の感情という複雑怪奇な現象に対し、ジャーナリズムやフィクションの方面からアプローチする。そのようなことだろうと飲み込み、男は”意義ある仕事”が詰まった紙束を女に返す。女は紙束を受け取り、その一番上のページに目を落としながら、小さく言った。
「西園寺くんに見習って」
風が吹けば飛ばされる様な、風にそよぐ葉音に容易にまぎれてしまうような、小さなつぶやきだった。しかし、男は耳が良かった。
「僕?」
男は目を丸くして言った。女はその顔をチラリと見て、また視線を手元に落とす。指先で自分の文字を撫でながら、ポツポツと語った。
「私、復活してすぐの頃は結構絶望してたの。どれだけ科学が発展しても、石になった人が復活しても、人類が積み重ねてきたもの全ては復活しない。全ての小説、全ての詩、全ての戯曲が戻ることはない。源氏物語54帖を丸暗記している人なんていないだろうし、万一、原文を暗記している研究者がいたとして、じゃあ、与謝野晶子訳は、谷崎潤一郎訳は、円地文子訳は。私の好きだったものは二度と戻らないんだろうって」
地形が変わるほどの長い年月にさらされ、記録媒体のほとんどは喪失した。ギルガメシュ叙事詩のように粘土板に刻まれてでもいない限り、旧世界の人間が受け継ぎ、積み上げた、文化のほとんどが失われたと言って良いだろう。粘土板の楔文字でさえ風化している可能性がある。いわんや、書籍、映画フィルム、レコードをや。復興しつつある環境で目覚めた女にとって、めざましい速度で科学が発展し、周囲がかつての生活に近づいていくほど、失われたものへの追慕が募るばかりであった。文学好きが高じて編集者の道を選ぶに至った女が、かつて好んだ作品を再び読み返すことは、未来永劫かなわない。
「でも、西園寺くんが村の人たちに文字を教えてたでしょう。それを見て、なんかすごく感動しちゃって。戻らないものを思って絶望するよりも、旧世界からわずかながら持ち越した文化のようなものをもって新しい世界の文芸の礎を築く方がよほど建設的だし、ずっと楽しいんじゃないかって思えるようになったの」
だから、これ。女は紙束を少し持ち上げて見せた。女の頬も少し持ち上がった。男の頬も持ち上がった。男は突然の賞賛に耳輪をうっすら染めていた。その色を見て、女の持ち上がった頬の先も同じ色に染まった。
「ありがとうね。西園寺くん」
「……僕の方こそ」
男は造船現場に、女は印刷機のある小屋へ向かうため立ち上がった。それぞれの役割をこなすため、ケヤキの木の下、別れに手を振った。
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村の夜は暗い。先頃、ダムが作られ水力発電が行われる様になったとはいえ、電線がめぐり各家庭、各事業所に電気の供給があるわけでもなく、ましてや街灯のようなものが立っているわけでもない。夜警のためのかがり火も、火事を防ぐため最小限である。そんな夜闇に沈む村の中でも、ロケット開発チームの小屋や、世界各地とつながる通信室では夜通し明かりが絶えないのが常態であり、この頃はもう一つ、遅くまで明かりのついている小屋があった。その小屋の扉がノックされる。小屋の中から「どうぞ」と声がして、扉は軋みながら開けられた。
「こんな遅くまで仕事?」
撮りためられた写真板が山のように積まれ、テレビ中継用の機材、印刷機などが所狭しと詰め込まれた小さな空間の片隅で、これもまた小さなデスクに向かっていた女がかけられた声に振り返る。物語収集に勤しんでいた元編集者のあの女である。
「キリのいいところまでって思ったらやめ時を見失いまして」
小屋は編集室だった。北東西が率いるメディアチームのための事務所のようなものだ。北東西は取材現場に出向くことが多いため、実質、この小屋は女一人が占有しているようなものだった。出勤退勤の時間設定もなければ、そもそも就業規則もない仕事場において、深夜まで作業に没頭してしまっても咎める者がいないのだった。
「西園寺くんは?」
「夜間パトロール」
「さすが自衛官」
集中しすぎて力んだ体をほぐすように、女は腕をグッと伸ばしながら言った。男はパトロールを終えて自室へ帰るところだったが、深夜だというのに明かりのついている小屋を見かけ、様子をうかがいにきたのだと説明する。明かりがつけっぱなしなんて、誰か倒れてでもいるのかと思ったよ。照明の消し忘れだとしても火事の元だしね。などと、どこか言い訳めいた口調でこの小屋を訪れた理由を述べる男を、女が小さく手招いた。小屋の大半は機材を土埃から守るため小上がりのようになっている。小上がりは土足禁止だ。男は一瞬間の躊躇の後、靴を脱いでこの小上がりへ進んだ。積み上げられた銀板写真の森を抜け、小さなランプの明かりを頼りに何かをしたためている、小さな文机にたどりつく。そして再び、男の前に紙束が差し出された。
「百物語。ストーンワールド発の新しい文学をね、出版したいなって」
エスノグラフィ、というにはおこがましいけど。先日、二人が話したフィクション、ジャーナリズム、エスノグラフィの三番目の実践をしている、女はやはりはにかんで言った。女が自分を手招いた理由に少し肩透かしを食った気持ちで、しかしそれが表情に出ないよう努めて、男は神妙に紙束を受け取った。新世界の、耳が痛くなるほどに静かな夜、紙をめくる音がやけに大げさに聞こえた。
「読んでも?」
「もちろん。ついでというわけではないのですが、よければ誤字脱字、表記揺れとか見てくれる?」
「いいよ」
村の巫女が伝える口承文学の取材メモを元に、文章を起こす。注釈や解説を加えるため、先代の巫女からも話を聞いていた村の隠居や百物語が伝える科学に詳しい人間にも取材し、併せて編集する。手間と時間はかかるが楽しいものだと語る女は、心から楽しげな微笑みを浮かべながらランプに火を灯した。机に置かれているランプではなくもう一つのランプだ。男が原稿を読むためにつけたのだ。ランプは立てかけてあるカメラ用の三脚にかけられた。
「そういえば、昨日の劇よかったね。君の脚本だと聞いたよ」
昨晩は村において演劇の上演があった。以前から村民の士気高揚を目的とした劇は行われてきたが、今回、女が主導した演劇はあくまで娯楽作品であり、子どもたちを演者にしたお遊戯会のようなものだった。脚本というほどの大仰なものではない、ただ物語の筋に沿ってセリフを用意しただけだ。女は自嘲気味に笑って答える。
「ただの桃太郎でもあんなに喜んでくれるんだから、この世界がいかに過酷か逆に実感しちゃうよね」
「よく知ってる物語を共有できることでみんなどこか安心してたようだね。いろんな種類の生き物が一丸となって鬼を倒しに行くっていうストーリーも自分たちに重なっただろうし」
演目は西遊記でもシンデレラでも良かったのだろう。しかし、女は桃太郎を選んだ。その意図をくんで、男は上々の成果を生んだ女のプロデュースを讃えた。
「共通の敵と娯楽という酒に酔っていなければこんな綱渡りできないものね」
浴びせかけられた賞賛の言葉に謙遜を示すように、女はアイロニカルな批評を加えて微笑んだ。そして、机に置かれているワインの入ったコップを持ち上げてみせる。夜間作業のお供に常備しているワインは今年のもので、それこそ上々の出来であった。
「みんな、人類を復活させる、月に行く、ロケットを作る、そんな大きな命題で自分を騙している。家族は無事なのか、かつての生活は取り戻せるのか、また石にされるのではないか、常にうっすら脳裏にある剣呑な思いを文字通り呑み込んで」
僕も少しもらおうかな、と男はそのコップに手を伸ばし、そのまま口をつけた。ゴクリとワインを飲み込む音が部屋に響いた。赤ワインに濡れた唇が、ランプの明かりに照っていた。二人は炎に揺れる互いの表情を注視し、そこにアルコールに浮かされた熱以外のものが見え隠れしていることを視認しながら、そうすることがあらかじめ取り決められていたとでもいうように、言葉も、まして皮膚も重ねずに各々の手元にある紙束へ視線を落とした。再び、村の静かな夜がやってくる。紙をめくる音だけが、時折、生まれては消えた。
「西園寺くん、そっち終わったら今度は−−」
仕上げに取り掛かっていた分がひと段落して女は振り返った。書き終えたばかりの分も読んでもらおうと男の様子を確認しようとしたのだ。
「寝てるの?」
男は機材や写真板で埋め尽くされた床の隙間を縫うように、その身を横たえていた。もしや酒に弱かったのだろうか、と女はいぶかった。夜間まで仕事をしていて疲れただけだろうか。かぶったままになっている帽子を脱がせてやりながら、その寝顔を観察する。目の下にうっすらクマがあるように見えた。ランプの光の作った陰かもしれない。自分より大柄の男性を背負ってその自室へ送り届けることはかなわないため、規則正しく上下する体に撮影用の暗幕をかけ、寝かしておくことにした。
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自分の行動の落ち度に後悔の念を抱きながら女はため息をついた。今自分を壁際に追い詰めている男をチラリと見る。目が合う。男の目が光るのが月のない暗い闇夜でもよく分かった。
「君、いいよね」
「はぁ。モズくんは女性なら誰でもいいんでしょう」
「ハズレ。かわいい子なら誰でも、だよ」
「あぁ、そう」
例によって遅くまで編集室で仕事をしていた女が、外部にあるトイレに立ったのが数分前だ。その帰り道、この好色な大男が現れた。大男はバーで飲んできた帰りだと、酒の匂いを漂わせながら言った。どう、一緒に。手にはワインの入ったデキャンタサイズの器が握られている。女はワインは好きだが、こうあからさまな男は嫌いだった。あしらいながら歩を進めているうちに編集室までたどり着いたのは良いのだが、夜な夜な一人でこの大したセキュリティーのない小屋にいることを知られても厄介である。扉を開けずに逡巡しているうちに大男は躊躇なく距離を詰め、結果、女は壁際に追い詰められることになったわけだった。
「ということで」
「触らないで」
「いいねぇ。気の強い子、好きだよ」
女は自分の方へ伸びてきた手を強めにはたく。手をはたき落とされたことに対し、一向、意に介さないどころか、劣情が増している大男を睨みつける。もう一度、手が伸びてくる。おそらくこれは簡単に払えないだろうことが、女には分かった。唇を噛みながら、切り抜ける策を捻出しようと脳内の引き出しを開けてはみるものの、世界的にも治安の良い国であった旧世界の日本で育ったためか、相応の護身術はストックされていないのだった。噛んだ唇の隙間から小さく舌打ちをする。今にも男の指が女の首筋に触れそうになった。そこへ、別の登場人物が現れる。
「あ、いたいた」
現れた人物は一直線に女の元へ歩み寄った。手に持つカンテラを顔の横まで持ち上げ、微笑む。
「西園寺くん」
女は突然現れた男に驚きながらも、安堵の色を隠さなかった。大男から離れ、カンテラの男の元へ駆け寄る。駆け寄ってきた女を受け止めるように、男はその腰を抱き寄せた。女は再び驚いた。しかし、腰を抱く男は平静を崩さず言った。
「遅いから探しに来ちゃったよ。こんなところにいたんだね」
女は理解した。この大男を拒絶するための芝居をうってくれているのだと。待ち合わせなどしていないし、そもそもこんな触れ合いをする仲ではない。しかし、危機を見捨てるほど互いに薄情な仲でもない。盟約の契りを視線をもって結び合い、女も控えめに男の腰へ抱きついた。大男は女を追い詰めていた時とは異なる感情から、しかしどちらにせよ楽しそうに、目を細め、口の端を釣り上げた。
「ふーん。君たち、そういう感じなの」
「みんな、特に子供たちには」
「わかってるよ」
良い夜を、とワインの器をカンテラの男に渡し、大男はあっさりと去った。暗闇に姿が見えなくなったところで、女は男から離れる。他者の体温を感じていた部分に風が抜けるのが涼しかった。元自衛官だという筋肉量が多いこの男の体温が高いということを、女は初めて知った。これまでの距離に戻り、女は礼を言った。
「ああいうタイプは、人の女(モノ)には手を出さないからね」
あ、君をモノ扱いしたいわけじゃないんだよ、彼がそういう慣習に生きてきただろうから。いくつかエクスキューズを加えながら、男は先ほどの行為に説明を加えた。
「アリバイ工作じゃないけど、一応、僕の部屋の方に向かおうか」
また、あの大男と鉢合わせた時のために、今晩二人は逢瀬をしていることにしておいた方が良い。二人の間に再び密約が交わされる。女は男の腕に手をかけた。エスコートを頼む淑女のように。男が持つ器の中でワインがチャポンと跳ねる音がした。
ナンパな男を退けるのに、恋仲を演じる必要が果たしてあったのだろうか。恋仲を演じるためにあれほど密着する必要があっただろうか。もう危機が去ったにもかかわらず、小さな理由を編んで、男の部屋へ向かう意味は果たしてあるだろうか。部屋にたどり着いた後、二人はどこへ向かうのか。疑義はいくらでもあり、そのどれもを夜闇のせいにして見ぬふりをしていることにワインが警告を唱えたようだった。
男の部屋は無人だった。同室の人間は今夜、かつての男のように夜警を担当しており朝まで帰らないという。せっかくだから、と部屋に上がり、二人でワインを飲むことになった。石化する以前からすでに成人し、就職し、いっぱしの大人として生きていた二人が、他に誰もいない部屋で、夜間、酒を飲み交わすことに含まれるメッセージ性に気づいていないわけがなかったが、互いに素知らぬ顔をして靴を脱いでいた。知識として可能性を知っているだけで、そこにやたらな期待をするほど若くもなく、ストーンワールドという異常事態においてそんな状況にもつれ込むほどの無謀さも、リスクを背負ってなお求めたいほどの情熱もなかった。まだ。
「今日もパトロールしてたの?」
「いや、ただの散歩。そしたら声が聞こえたから」
「さすが、よく聞こえますこと」
先日ワインを一口飲んだだけで眠ってしまった男は、今夜は一口では眠らなかった。おつまみ、といってどこからともなく干し肉を出してきて女に分けた。礼を言う女の顔の中に、男はワインとは異なる赤を見た。ふと手を伸ばす。が、すぐに方向を変えて自分の唇にのせた。
「これ、モズが?」
床に置かれたカンテラの明かりに目を細めるように、男はしぼった視線を女の唇に注ぐ。女の唇には血が滲んでいた。もしや先ほどの大男がここに噛み付いたのか。本来の唇の血色、ワインレッド、こぼれ落ちる赤血球を、男は睨め付ける。女はその視線が刺さる場所に気がつき、指を口元に寄せた。
「ん? あ、ううん。自分で噛んじゃったの。あいつにムカつきすぎて」
あの夜と同じように赤ワインで濡れた唇をカンテラの明かりが照らす。夜間のパトロールを担う男たちの部屋では、カンテラが室内照明代わりを果たしているようだった。女が自分の指でなぞると血の滲んだ唇に影が波打った。柔らかく形を変える陰影に視線が注がれ続けている。その視線にランプの灯りの如く宿る小さな熱が、酒気によるものかどうか。それを確かめるため、女はそっと男の目元を見る。女の視線に気づいた男が慌てて視線を目に移す。眼差しが重なり、二人はよそよそしい笑みを浮かべあった。
「この世界じゃちょっとの傷も命取りだから、気をつけてね」
「そうだね。気をつける」
素直に反省の意を示し、女は唇を巻き込んで舌で撫でた。ワインの味、血の味に混じってそそがれた視線の味がするような気がした。湿って動きやすくなった唇を女はためらいがちに開いた。自分の心配をする男に対し、抱いていた心配事について言及する。
「寝不足も。寝不足も、命取りだよ」
編集室で昏倒するように眠りに落ちた男の目元にはクマがあった。薄暗いこの部屋で見つめた男の目元にもやはりクマが見える。夜間の徘徊。パトロールや散歩と称しているがおそらく眠れないためであろう。この世界では体力がものをいう。おそらく自衛官であった彼にとっては石化前からそうであっただろう。だというのに、クマを作るほど慢性的に寝不足というのは本意でないに違いない。何か、精神的な理由から不眠を患っている。女は断定的に考えていた。酒に頼ると眠れるのか、他者が起きている空間だと眠れるのか、まだ実証は少ないが、編集室では熟睡していた男の様子からして、自分にできることがあると、そうも考えていた。
「子守唄、歌おうか?」
突然の提案に男は目を丸くした。そして、すぐに目を細めて微笑んだ。
「いいね」
この提案が突飛なものとして受け取られたわけではないと知り、女もまた目を細めて微笑んだ。二人は部屋に常備されている飲用の水で口をすすぎ、酒とつまみを片付けた。就寝の準備である。簡易な寝具を広げ、男は横たわった。帽子をとり、腰紐をゆるめる。片肘を枕に横臥した男は、もう片方の手で自分の胸元あたりの寝具を軽く叩いた。女を呼んでいるのだ。女は躊躇した。自ら男の寝具に横たわるというのは、字義通りの同衾であり、性的な関係を持つことへの同意とみなされかねない。恋愛をしたことも、他者と性的に交わったこともないことはないが、交際の宣言をしないまま関係を持ったことはなかった。憎からず思っている相手ではある。このまま一線を越えても後悔はしないだろう。しかし、この世界に避妊具はない。今日は最後の生理から何日目だっただろうか。様々なことが脳内を駆け巡り、動けなくなっている女の寄せられた眉を見て、男は吹き出した。その色気のない笑い方に女はハッとする。そういう意味ではなかったのだろうか。男との行為を想像していたことが急に恥ずかしくなり、女は男を寝具のすみに押しやってわざとぞんざいな動きで寝転んだ。
「ごめん、自分で言っといてなんだけど子守唄らしい子守唄って知らないや。アンパンマンマーチとかでもいい?」
「あはは、本当に歌わなくていいよ」
軽快に笑う男の息が女の前髪を揺らした。女は額をくすぐる髪先を乱暴にかきあげた。そのまま、手を掲げる。両手のひらを横に並べる。
「じゃあ、絵本を読んであげよう」
「絵本?」
絵本に見立てた手のひらを男の方へ向け、女はニヤリと笑った。”裸の王様”の世にも珍しい衣装のごとく、阿呆には見えない本でもあったのだろうか。男は見えるふりをする。ペンだことインクに彩られた手を見つめる。
「ねないこだれだ。せなけいこ作」
「あ、それ知ってる」
「とけいがなります、ボンボンボン。こんなじかんにおきてるのはだれだ?」
非常に短い絵本であったが、その一冊を読み終わる頃には男は眠りに落ちていた。おばけの世界へ誘われる心配はなくなったようだ。女は安堵して、男のクマへ指を伸ばした。しかし触れる前にその指先をしまう。しばらくその寝息を聞いてから、カンテラの明かりを借り、自分の部屋へ戻ることとした。
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男は度々、編集室を訪れるようになった。それも、夜間、女が一人でいるところを見計らっての訪問だった。それだけ聞けば平安以前の妻問婚に類するものと大差ないが、この二人の間に婚姻に通ずるやりとり、つまり恋愛関係、有体に言えば、肉体関係というものは存在しなかった。まだ。女は、まだ、という言葉を掲げ、そしてそこに疑問符も加える。この度重なる夜間の訪問を恋愛における遠回しすぎる駆け引きの一つだと当初こそ思っていたのだが、男が女に求めているものが恋情や肉欲以外の何ものかではないかという仮定もまた浮かび始めていたのだ。
「なにか、話をしてくれない?」
男は決まって、こう、女にねだった。訪問の度、男は女に物理的な接触ではなく、女のもつ物語を求めた。女は喜んでその要求を受け入れ、求められるものを差し出した。
「いいよ。そうだな、では今夜は詩を一篇」
物の整理ができておらず男一人が横たわるのもやっとだった編集室は、この習慣ができてから随分と片付けられるようになった。よく使うからと出しっぱなしにしていた機材は棚に収納されるようになった。長期保存を理由に銀板写真は空調機能のある貯蔵庫へ移された。床が広くなり、大人二人が横たわっても十分な空間が現れた。その十分な空間に二人は体を預ける。子どもを寝かしつけるように、女は横たわる男の横で半身を起こし自分のメモ束から一篇、作品を選んで読誦する。
「小景異情、室生犀星。ふるさとは、遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの」
女の声を聞きながら、男は眠りにつく。これの繰り返しだ。螺旋状に同じところを通っているようで少しずつ状況が変化している、というわけでもない。土星の輪を散歩するように、同じ場所を堂々巡りしている。赤子を寝かしつけるコツは、毎日同じ時間帯に同じルーティーンで寝かせること、という説があるが、まさにそれだ。男は眠れない夜、女を訪問する。女の気配のする部屋で、女の声を聞き、そして眠りに落ちる。それがルーティンだった。
そして、男が眠れば女は去った。朝まで共寝したことはない。自分の隣で安心して眠り、すっかり回復して目覚める男の姿を見てしまっては、いよいよ、感情の行先が定まってしまいそうだったからだ。そんな心配事をしている時点で、もはや、手遅れであることを、認めることになりそうだったからだ。
その夜も、男は編集室を訪った。女は歓迎する。男は女に歓迎され、はにかむ。試作中だというブランデーとドライフルーツを手土産に持ってきた男は女に差し出す。女が受け取る。手渡す際に少し皮膚が触れ合った。二人の表情は変わらない。物の受け渡し、それ以上の意味が発生しないうちに、女はすっかり男の専用となった酒器を編集室の棚の一角から取り出すため背を向けた。
二人は晩酌仲間であり、男はたびたび酔い潰れて眠ってしまう。二人の間柄を表す、言葉にこそしてはいないが互いに共有している、一応の理屈だった。男は今日も夜間作業に勤しむ女への労いという一応の理由を笠に着て、自分が持ち込んだカンテラを、自分の部屋のように勝手知ったる仕草で、カメラ用の三脚にかけた。酒が注がれる音に耳を傾ける。乾杯。釉薬が塗ってあるとはいえまだ出来の荒い陶器の縁に唇の皮を引っ掛ける。揺れる琥珀色のアルコール越しに、酒器を持つ自分の指先越しに、同じ酒をあおる女を見る。片肘を膝につき酒器で口元を隠す形で男は言葉を発した。その出どころを隠したいとでもいうようなポーズだった。
「最近、よくゲンと一緒にいるね」
食道をアルコールの熱が下っていく感覚に酔いしれていた女は、その言葉の出どころも、その言葉を発した男の表情に目配せすることなく返事をする。
「ゲン? ああ、そういえばそうかも。彼の話って面白いからついつい長話しちゃうんだよね」
乾燥されたマルベリーやコケモモを一つ二つ口に放る女は、ここにいない男の話を屈託なく語り始めた。話題の男・ゲンとは演劇等の興行に共同で従事することも少なくなく、会話の機会は多い。また、百物語の採集にあたって折衝役として伴うこともあり、このところ日中の多くを近しい距離で過ごしていた。そのことについての言及だった。そして、女はそれを肯定した。事実であるからだ。そして、その事実以上のことも存在しないからだった。しかし、例え、そこにそれ以上のことがあったとして、この話題を投げかけた男に釈明する必要もなかった。二人は晩酌仲間だからだ。
「アメリカにいたとかであっちの童話とか文学けっこう知っててさ。オズの魔法使いとか、トム・ソーヤの冒険とかは彼から教えてもらったんだよ。ほら」
「……」
女は楽しそうに例の紙束を男に差し出した。女が集めた物語が詰め込まれた紙束だ。示されたページには、最近加わったアメリカ文学が女の文字で封じ込められている。ここにいない男から聞かされ、女が書き留めた物語だ。
「ん?」
紙束を見つめたまま動かない男の様子を不審がって女は男の帽子のつばの下をのぞく。もう眠くなってしまっただろうか。陰の落ちた男の表情はやはり読めず、差し出した紙束の居心地も悪く、女は手を引こうとした。その手を男が掴んだ。
「……ゲンだけ呼び捨てなの?」
「え?」
女は驚いた。腕を掴まれたことにも、投げかけられた質問にも。いつもよりもアルコール度数の高い酒のせいか、元より体温が高いせいか、女の手首をぐるりと覆ってあまりある男の手のひらは熱かった。その熱さにも驚いていた。掴まれた手首が震えた。その振動に、男はハッと手を引く。
「あ、いや」
言葉が出てこない。男は帽子をとって頭をかいた。バツの悪そうな男の様子に、女もまた座りの悪い心地がした。女は、まだ少し震える手でドライフルーツをつまもうと視線を手元に落としながら口を開く。
「あれ、私、今、浅霧くんのことゲンって呼んでた? 西園寺くんがゲンって言ったからうつっちゃったのかな」
女の言葉に、男は安堵と戸惑いが混ざり合う複雑な表情で頷いた。外した帽子を床に置き、空いた手でドライフルーツをつまむ。口に放る。女も手にしていたドライフルーツを口に含む。酸味と甘味、今は地球の裏にある太陽の味を噛み締める。咀嚼のリズムと、未だ残る指先の動揺が重なる。増幅と相殺。振動が徐々にその波紋を広げていくように、しかし徐々に減衰していくように、体の中へ小さな動揺が広がっていた。振動は小さく残り続けるが、態度に出るほどの大きさはなく、異なる波長が体の縁にぶつかり反射して、さらに複雑な模様を描く頃には自分自身の中に溶け込んでいた。
試作品のブランデーは少なく、すぐに酒はなくなった。男は手洗いに立ち、数分で戻り、そして編集室の床に転がった。今日は手洗いに立ったまま、この小屋へ戻らないのではないかという、不安と期待が女の中に同時に浮上していたが、どちらをも一蹴するほどあっけらかんとした顔で男は、今夜は星がよく見える、や、風が少し出てきた、などと外の空気の感想を述べながら、編集室の床にその身を横たえるのだった。そして、いつものようにこう言うのだった。
「なにか、話をしてくれない?」
何事もない顔をしやがって。思えば、ここを訪ねてきたのも、恋仲の演技を思いついたのも、入眠の読み聞かせの習慣も、他の男の名を聞いて動揺を見せたのも、手を掴んだのも、全てこの男の方からだった。にも関わらず、なぜ自分ばかりが落ち着かない気持ちにさせられているのだろうか。なぜ、せっかく見ぬフリをしていた感情の火種に、息を吹きかけるようなことをするのか。この距離を適切としていたいのは男の方ではないのか。だとして、なぜそれを覆すような言動ばかりをするのか。女は、不満と忿懣を覚える。少し意地の悪いことをしたくなる。
「ごめん。今日はまとめたい資料があって」
断られるとは思っていなかったらしく、男は一瞬、驚いたような顔をする。しかし、すぐに新たな提案をした。じゃあ、君が仕事をする音を聞いていてもいいかな。少し申し訳なさそうに眉を動かして発された、この提案のいじらしさに、母性のような庇護欲と、劣情のような嗜虐心が女の中に同時に湧いて出た。女は、さらに別の提案を卓上へ上げる。
「代わりになるか分からないけど、膝枕とか、どうですか」
「え」
再び驚く男の顔を見て、女はいくらか満たされた。そして緊張感も走った。距離の調整に入る。男がよくやるように。近づいて、退いて。決定的な言動は極めて慎み、しかし、相手がどこまで受け入れるかをはかり。いうなれば”ズルい”、あのやり方だ。
「足痺れたら落っことすかもだけど」
女はそれが色気のある行為ではないとレッテルをはりながらも、どこまで男が受け入れるか、どこまで男が自分へ踏み込もうとするのかを確かめようとしていた。そして、男はその女の意図を知ってか知らずか、軽く笑い、そして、こともなげに答えた。
「落っことすなら優しくしてよね」
男の頭部が女の腿の上にのった。ずっしりとした重みが腿の肉を押す。男の髪が重力に呼ばれ、少し広がる。いつもは帽子に、厚い前髪に、覆われている額が顔を出す。女はその額の滑らかさに一瞥をくれ、そしてペンを取る。”今日はまとめたい資料があって”という言葉は事実であった。明日までにあげたいニュース記事があるのだ。村の漫画家に書いてもらった挿絵をレイアウトしながら内容を書き連ねていく。見出しはどうしようか、ペンの尻を顎にあて目線を下げると、男の額が目に入った。
「腸が動いてる音が聞こえる」
「お昼に食べたサンドイッチかな」
「大腿動脈の拍動も聞こえる……」
「そこでしゃべるのくすぐったいな」
相手が気のあるそぶりを見せた。自分も相手のことは悪くないと思っている。だんだんと互いに距離を詰めあって、そしてお付き合いの口約束をしたり、その前に関係を持ったりする。これまでの恋人とはそうしてきた。それほど大きな恋情がなくとも、恋人というものが自己受容の一端として機能する限り、道端で袖触れ合う人間と仲を深めることは多々あった。今回もその一つなのだと。相手が気のあるそぶりを見せた。自分も相手のことは悪くないと思っている。男が女の手を掴んだ。一歩近づく。女からも一歩近づこうとした。男は女の一歩を受諾し、その頭を膝にのせた。今までにないほど長い間、触れ合っている。女は、思わず何かを言いかける。
「西園寺くん、あの、さ」
「……」
「寝ちゃったか」
本当に寝ているかどうか、確かめるほど、女は器用でも不器用でもなく、男が眠ったことにしたいのであればそれを承諾した旨を独り言として発する程度には、成熟していて未熟なままの人間だった。
ふと男は顔の向きを変えた。卓上に置かれたランプを眩しがるように目元に手の甲を乗せる。動かなくなる。やはり男は眠っていると判断し、仕事に戻った女の動かすペンの音だけが部屋に響く。しかし、男が目元を手で覆ったままゆっくりと口を開くのが見え、女のペンの音が止まる。
「……この世界で過ごす時間が長くなって思ったんだ」
慎重に言葉を選んでいるのか、つかえつかえに男は話し出した。女は手をとめたまま、かといって顔を見られたくないのか目元を手で覆ったままの男を見下ろすわけにもいかず、ランプによってくる羽虫の動きに眼球を預けていた。
「僕の乗っていた潜水艦は結局、他者の命を奪う道具だったんだって。司のところで人殺しを容認した僕は、いざという時、人の命を諦めることができる人間だった。もしあのまま潜水艦に乗っていたとして、その時になれば自分達を守るという名目で魚雷を打っていたのかもしれないって。そう考えると、あれほど好きだったはずの波の音がなにか恐ろしいもののように聞こえてしまうんだよ」
この村は海のそばにある。森もそばにある。小屋の立地上、風にそよぐ木々の音は聞こえるが、波の音はあまり聞こえない。しかし、耳の良い男には常に波の音が聞こえているのだろう。人々が寝静まる夜間にはいっそう、よく、聞こえるのだろう。その音が、男にクマを刻んでいたのだろう。女は、ランプの明かりと机の影で二色刷りされた男の顔をチラリと見る。男は手を少しずらし、その向こうから女を見た。目が合う。男は自分の心情の吐露が気恥ずかしいのか、他者と目が合うと自動的にそうするのか、少し眉を寄せ穏やかに微笑んだ。
「君の仕事が、君の信念が眩しいほど、自分が醜く思えて仕方がないよ」
男は起き上がった。そしてそのまま女に背を向けて座っている。男の正面には棚があった。これまでのニュース記事の原稿。百物語の取材記録。子どもたちのために作った教材。集めた物語が集積された紙束が収納されている。男は、ジャーナリズムやフィクション、エスノグラフィの力で世界の連帯を目指す女の信念に賛同と敬意を示す。同時に、この部屋で女と寄り添って眠るように、潜水艦の中で寄り添って寝ていた魚雷との夜を思い出す。そして、その肌のひんやりとしているのを思い出す。少し、震える。遠くから波の音が聞こえる。
震える男の背に手を伸ばしたくも、女の手にはペンが握られていた。握られていなくとも、その背に触れる権利も勇気もなかった。男の背と自分の手を交互に見つめ、女はインクで汚れた指に力を入れ、そして力を抜いて、先ほどの男のように時間をかけながら、慎重に話をし始める。
「ペンもかつての世界大戦で、それは多くの人間を戦地に送り、それは多くの人間の命を奪った。新聞も、詩も、歌も、人々をおだて、脅し、争わせた。雨雨ふれふれ母さんが。これは北原白秋の童謡。この白秋も戦争詩を書いた。斎藤茂吉も、高村光太郎も。才能ある文学者が戦争を翼賛する作品を作った。戦争だけじゃない、差別や分断、排斥はペンが、言葉が生む」
女は新聞社に勤めていた。さまざまな思惑で記事が書かれたり書かれなかったり、発行されたりされなかったりするのを見た。そのうちに女は新聞社を辞めた。一人で出版を始めた。ひとり出版社、極小出版社、マイクロパブリッシング、当時はまだ呼び名さえ定まっていなかったが、同様の生業を志す人間もチラホラ現れていた。オールドメディアの限界、もはや日常の一部となったSNSの猛威、言葉はいつだって無力で強力な武器であることを、文字通り肌で感じていた女は、ペンという凶器の使い方を考え直そうとしていた。
「だからこそ、会話を、対話を継続するために言葉を使うべき。あなたの乗っていた潜水艦も、誰かと争わないために海に潜っていたんでしょう。大きな弾薬も誰かに向けて打つためじゃない。話し合いの席に相手を座らせるためのカードだった」
男は背を向けたまま黙って頷いた。何度か、噛み締めるようにゆっくりと、深く、頷いた。
「あなたは他者の残酷さを共有したことで、自分の中の残酷さに気付いた。自分というものを拡張した」
だから大丈夫。女は断定的に言った。男は肩越しに女を見る。そして言った。
「ありがとう。やっぱり、君がいてくれて良かった」
礼を言う声は少し震えていた。背中の震えはおさまっていた。女はホッと胸を撫で下ろす。いくらか、男に伝えられたことがあり、その伝わったものが男の背を、ペンを握って寄り添えない女の手の代わりに、さすってやれたようで、それを喜ばしく思っていた。
「邪魔してごめん。仕事続けて」
男は目の前の棚から紙束を手に取った。「読んでいいかい?」。物語を収集した一冊だった。女は微笑んで頷く。「もちろん」。再び、二人の静かな夜が訪れた。女のペンの走る音と、男が紙をめくる音が小屋の中を満たす。そのうちに、男はまた小屋の床に眠った。
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「これは私の友人の話なんだけど」
「あんた、私以外に友達いないでしょうが」
編集者の女と、ジャーナリストの女、かつての同僚二人は、新世界での再会後、信頼できる仕事仲間として親しくしていた。そして、気の置けない友人としても親しくしていた。今日はその友人同士として村の食堂で夕餉を共にしながら語らっている。今宵の肴は珍しくも人間関係、つまるところ”恋バナ”であった。
「本当に寝るだけなの。睡眠」
「添い寝フレンド、いわゆるソフレってやつ?」
「添い寝というか寝かしつけ?」
とても近く、互いに親しく思っているように感じるが、恋愛として踏み込むことを今一歩許されていない気がする。添い寝はする、膝枕もした、かといって決定的な言葉はなく、言わせてくれるのでもない。自分自身の感情ですらまだ恋情と定まったわけではないというのに、それらしい仕草を見せられるばかりで、好きになっていいのかさえ分からない。いっそ、体だけの関係にもつれこむのであればそれはそれでいくらも理解しやすいというのに。女は、試作を終えてメニューに並ぶようになったブランデーを使ったカクテルを傾けながら頭を抱える。
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君……」
柔肌ねぇ。細い指が頬の肉に沈む。頬を刺された女がその指をつかんで噛む真似をすると、指の持ち主は大きな口を開けて笑った。
「彼、真面目だから、感染症とか、もし妊娠したらとか考えて手出さないんじゃない」
ストーンワールドでは旧世界のように手近な避妊具は生産・流通していない。恋仲になったとして、その先に性行為があったとして、その行いによって妊娠する可能性は大いにある。妊娠して、出産を決めたとしても、それこそ医療が整っていないこの環境では旧世界での妊娠・出産よりも母体となる女の命が危険に晒される可能性ははるかに高い。そうだとすれば、近づかない方が良い。そういったことを、かの男であれば考えなくもないだろう。聡明で、善良だからだ。
「結局さ、誰かさんの言うように恋愛ってのは非合理的だってことなのかな」
「まぁ、こんな状況だからねぇ。いいじゃないの、推しってことにしといたら?」
「南にとっての獅子王くんみたいな?」
「そうそう」
「会えるアイドルどころじゃなく、自分の名前を呼んでくれて、なんなら二人きりの時間もあって、一番近くで寝顔を見せてくれる推しっていろんな意味でキツくない?」
「あはは、キツイね」
恋人の契約があれば、婚姻の法的根拠があれば、安心なのか。色欲を向けられれば愛されているということなのか。互いになくてはならない存在であるということを確かめ合って、そこに安寧を求めるのは、種の繁栄という生物としての大義による洗脳ではないのか。抱きしめてほしい、愛を囁いてほしいという感情は、生殖行動の一部ではないのか。繁殖に適した時期に恋愛という麻薬で脳をだまして、子孫を残さんとするのは、もはや合理的なのではないか。結局、この懊悩はどこからやってくるのか。
「って友達が」
「その設定まだ生きてたのね」
「いい歳して、”恋とはどんなものかしら”なんてしたくなかったんだよ」
今自分が彼に抱いている感情は恋と名がつくものかどうか。確かめたら最後だという自覚だけはあるのだった。女は、がっくりと項垂れる。その様子を見た友人が再び大きな口を開けて笑った。
「なんにせよ。人の悩みが一番のエンタメよね」
すいません、お酒おかわり。と手をあげる北東西の肩に頭突きが入る。
-
再び夜がやってくる。男はカンテラを掲げ、何度も行き来した道を歩いている。編集室の扉がノックされる。明かりがついているのに返事がなかった。遠慮がちに扉を開いてみる。小屋の中にはいつもの女の姿があった。片隅に置かれた机に向かう背中もいつも通りだ。返事がなかったのはなぜだろうか。男は不審に思いながら、声をかける。「こんばんは」。女は振り返る。ペンを握っているはずの指が口元に当てられる。「しー」。
「あれ、スイカ?」
女の膝には少女が眠っていた。女の腹の方へ顔を向け、抱きつくようにして転がっている。静かに、と仕草をする手と反対側の手で、女は少女の髪を撫でながら言った。
「今寝たところなの」
若いながら科学者チームの一員として日夜、努力と研鑽を怠らない少女は、今夜は過去のニュース記事や、女が書き留めている化学クラフトの記録を閲覧しに編集室へやってきたそうだった。毎日根を詰めて研究に没頭している少女を見かねた女は、急ぎの仕事でないことを確かめた上、少女を休ませることにした。人を寝かしつけることに関しては腕に自信があった。少女は疲れていたのだろう、すぐに眠った。女は早くに家族と死別した少女の母の代わりに、少女の努力をねぎらいながらその入眠を祝福した。そこに、男が訪ねてきたのだった。
男は足音を忍ばせながら近づき、持ってきたワインのビンを女に見せる。女は軽く頷く。いつもの酒器を男が運び、ワインを注ぐ。少女の美しい寝顔を肴に、二人は乾杯した。しばらく無言でワインを飲み、少女が十分熟睡したと判断してから、二人は小さな声で話をはじめる。今日、村であったこと。ロケット制作の進捗。今している仕事。業務連絡のように一通り語り合う。そのうちに夜は深まり、少し肌寒い風が隙間から吹いた。女は男にブランケットを取るように頼む。男がここで眠る時に使っているものだ。それを少女にかけろというのだ。男は快く、自分の毛布で少女の体を覆った。覆いながらポツリとこぼした。
「僕の枕なのに」
こぼしてすぐ、しまった、と男は手で口を覆った。ごまかすように、女に笑いかける。女もぎこちなく笑い返す。乾いた笑いがおこり、すぐに止む。ペンの音も、紙をくる音も、物語を語る声も、詩を唱える声も、この部屋にはなく、少女の規則正しい寝息だけが静かに響いている。静けさに包まれ、先ほどこぼれた言葉だけが男の中で反響する。男の発した言葉に懐疑的な表情を浮かべながらも、それでも頬が染まるのを拒めない女を見て、反響する言葉は散乱する。回折する。男はその波が漏れてしまわないように口を結ぶ。
恋愛関係になりたいわけではない。けれど君が誰かとそういう関係になるのは嫌だ。君を独占したい。君にも僕を独占したいと思って欲しい。互いにとって唯一無二の存在になりたい。二人だけしか知らない話題で盛り上がりたい。二人だけしか分からない仕草で合図したい。二人だけしか知らない夜を何度でも過ごしたい。二人でいられるなら君の恋心をも利用して君を繋ぎ止めておきたい。僕だけに物語を唱えて。僕だけに頼って。誰かが眠れないと泣いていても、誰もその膝にのせないで。
男の中に封じ込められたものが溢れそうになる。少し漏れる。故意に漏らす。
「僕の枕なのに、ね」
二人は微笑みあい、夜は更け、枕を取られた男は、女にせがむ。
「なにか、話をしてくれない?」
<終>
♪ showmore - circus