※この作品はR-18です。

speed of sound   作:リネン_

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麦秋に笛の音

 舗装道路があちこちに伸び、インフラが整備され、大部分の人間が復活した。病院ができた。食料品店ができた。衣料品店もできた。専門職が建てた頑丈な家に住めるようになった。復興のために皆が心血を注ぎ、さまざまな人間が能力を持ち合い、かつての豊かで、奢侈な、あの暮らしが再現されようとしていた。そして、あの頃のように、平和だけでは腹が膨れないらしい人間によって争いも起きた。どこかでは殺し合いも起きているらしい。まさに、“あの暮らし”が戻ってきつつあった。敵が月面にだけにしか存在しなかった日々はすでに終わり、人類の結託というかぐや姫は地球を振り向くことなく立ち去ったのだった。

 

 プリミティブな暮らしをする以外に選択肢のなかった村での日々も、もはや遠い。急増した人口を収容するため新造された集合住宅の一室を自宅としている女は、あれほど暗かった夜の世界に電気式の街灯が立ち並ぶ様を見下ろしていた。ある種のノスタルジアさえ感じていた。降り注ぐようだった星空も都市の明かりに蹴散らされ、耳が痛くなるほどの静寂も個人が所有するようになりつつある自動車や開通したばかりの鉄道が駆け抜ける音に埋められた。もう、森のざわめきも、海の波音もこの部屋には届かない。だというのに、あの男はやってくるのだった。

 

 編集者の女の仕事の音を聞きながら眠りたがるあの男は、今日も女の部屋を夜間に訪ねてきた。政(まつりごと)の要所を任されている男は、相変わらず何人(なんぴと)も傷つかない理想郷を夢見ては、複雑で残酷な現実との乖離に心を痛めることが少なくないらしい。そして肉体的にも精神的にも疲労がたまれば、女が一人で暮らすソファに身を預け、女が仕事の続きをこなす音や、家事を片付ける音などを聞きながら、時に、女に話をせがんでその声を聞きながら、睡眠をとるのだった。一人暮らし用の小さな部屋に不似合いな少し大きいソファは、この男がこうして眠るために選ばれていた。しかし、それを女は伝えることはせず、男はそれに気づきながらも女の意図に鈍感なフリをしており、つまり、あのランプの明かりだけを頼りに夜を越えた日々となんら代わりのない関係が続いていた。

 

 変わったことといえば、この部屋に女が暮らすようになってから、朝まで共に過ごすことが増えたことだった。二人は朝の挨拶を交わし、同じ朝食をとり、同じ玄関から仕事場に向かう。とはいえ、文字通り、それ以上でも、それ以下でもない。むしろ、悪漢から庇うために恋人関係を装ったり、同じ床で添い寝をしたり、膝枕などの接触を持ったりすることはなくなったといえる。一歩近づけば、一歩離れる。それがこの二人の関係であった。

 

「という関係の我々ですが」

「うん」

 

 最近流通するようになった瓶詰めのビールが今夜の寝酒だった。ブルワリーができ、ガラス製造工場ができ、小売店ができ、そして消費者の元に届くようになったビールだった。まだ流通量が安定しておらず、価格も高価なそれは男が持ち込んだものだった。仕事の縁でもらったものだという。男は貴重なビールを惜しげもなくガラスのコップに注ぐ。女は注がれるビールの泡を見ながら続ける。

 

「もういい加減、お互い良い年齢ですし」

「うん」

 

 シュワシュワと泡が弾ける。繊細で、儚い音だった。その音がだんだんと減衰していく。泡が落ち着いたグラスを二人それぞれ手に取って掲げる。乾杯の掛け声の代わりに女は言った。

 

「今夜が最後ということで」

「え」

 

 男の短い声とともにグラス同士がぶつかる透明な音が狭い部屋に甲高く響いた。間髪入れずに女はグラスをあおる。ゴクリと喉が鳴る。イングリッシュスタイルのブラウンエールはローストされたモルトの香りが芳しかった。ホップの華やかさが鼻を通ってから、苦味がゆっくりと舌を撫でた。複雑な味わいを堪能してから、女はグラスに揺れる赤褐色の酒に目を落とし、そして、男の目を見る。

 

「え、じゃないよ。苦渋の決断だよ、こっちは」

「いや、えっと、じゃ、もう会わないってこと?」

「そうだね、会わないほうがいいかもね」

「えー、そうか、うーん」

 

 一口もビールを飲むことなく、男は俯いたり、天を仰いだりしながら唸った。少し大きいソファに、二人は適度な距離をもって並んで座っている。そのため、男の動きに合わせて女の体に動揺が伝播した。ソファの座面クッションが沈み、浮き、二人の持つグラスの中で酒が波立つ。風が立ち、浪が騒ぎ、無限の前に腕を振る。とでもいうように。

 

「別に、結婚とか出産とか、縁がないならないでいいかとも思ってたの。それよりも大事なものがあるって思えるなら、そっちの方が人生として豊かだろうって。それが仕事だったり、あなたと過ごす時間だったりするのかもしれないって。でも、ちょっと、人の結婚式見て、可能性を探りたくなってしまったんです」

「良い式だったもんね」

 

 先日、二人の共通の友人たちが結婚式を挙げた。友人たちは愛を誓い合い、整備されたばかりの民法にのっとり婚姻関係を結び、社会的に配偶者同士として認められるに至った。それを多くの人が寿ぎ、宴が開かれ、そこにこの二人も参列した。フラワーシャワーが降り注ぎ、祝福の言葉が飛び交い、結婚したカップルにもそれを祝福する参列者にもただただ幸福な時間だけがあったそこで、女は、単純に思ったのだ。「いいな」と。大々的に結婚式がしたいわけではない。ただ、誰かの一番愛する人間となれること、自分の幸福で誰かを喜ばせることができることに対する、感情的な、感傷的な「いいな」であった。そして、女は実際的で行動的な人間だったため、この感情を、感傷を見過ごさなかったのであった。

 

「今の状況を、私自身が選んだ道だと断言できない、と思ってしまった。失礼なことを言っているかもしれないけど」

「言いたいことは分かるよ」

 

 噛み締めるように男は返事をした。泡がほとんど消えたビールに口をつける。ビールの苦味にわななく唇をくっと引き結ぶ。ブラウンエールはそこまで苦くないはずだというのに。

 

「あなたのこと、人として尊敬している。そばにいると安心するし、向上心も湧く。感受性が豊かすぎて傷つきやすいあなたを寝かしつける役目ができて光栄だとも思う。私の人生において、あなたとの出会い、あなたとの時間はかけがえのない財産。そして、青春の一ページだった」

 

 二人ともとっくに大人ではあったが、あの日々を形容するならまさに青春時代だっただろう。ロケットを作って月に行く。復興前のストーンワールドは、ただがむしゃらに目標に向かって邁進する、学生時代の部活動のような日々だった。各々のポジションで各々の役目を全うし、勝利を目指す。友情、努力、勝利。少年誌のキャッチコピーそのもののような生活だった。そして、その美しく清らかな青春は過ぎた。少年時代は終わった。がむしゃらさが減速すれば、見える景色も変わる。

 

「次の章が始まるってこと?」

「その通り。青春篇はおしまい」

 

 女は指を二本立て、ハサミをまねる。チョキン、パチン、ストン。男はその指を見ながら問う。

 

「何篇が始まるの?」

「うーん。中年篇?」

「中年って。壮年くらいじゃないの?」

「じゃ、壮年篇。ううん、微妙だな。言葉としてはもう少し練った方がいいね。まぁ、とにかく。そういうことなので、また会う日まで」

 

 これ飲んだら、帰ってね。女はビールを一口飲む。すでにグラスの半分以上が空いた。男のグラスにはほとんど口のつけられていないビールが波打っている。そのグラスをテーブルに置き、男は両膝に両肘をつき背を丸めて大きく俯いた。ため息をつくように言う。

 

「……急だなぁ」

 

 男が動揺している様子を見て、女はもう一口ビールを飲んだ。あと一口分程度しか残っていないグラスをマジマジと見つめながら、芳醇なビールの香りのする息をつくように口を開く。

 

「未練が、残ってしまいそうなので」

 

 首をうなだれさせながら、横目で男は女を見る。そして、もう少しで空になりそうな女のグラスと、まだまだビールが残っている自分のグラスを交互に見た。膝についていた手を伸ばし、最後の一口を飲み干そうとする女の手に重ねた。

 

「次の章にも僕を出してよ」

 

 女の手からグラスを奪いながら、男はキャスティングをせがむ。奪われたグラスを女は目で追う。テーブルの上にグラスが二つ並ぶ。いつも通りの二人の夜の風景がそこにはあった。この“いつも通り”では、もう、いられない、いるべきでない。女はわざと嫌味な言葉を選ぶ。

 

「当て馬として?」

 

 女が重ねられた手を引こうとすれば、男の手はそれを追いかけた。つかんだ。男の手は熱かった。変わらず体温が高いらしい。かつて触れたことのある男の体温が急に思い出された。女の手は冷たかった。ビールの入ったグラスを握っていたからだった。その手に、熱が移動する。高い方から低い方へ。熱い方から冷たい方へ。混ざり合って平衡していく。

 

「いいや、夫として」

「は」

 

 もう一度、女は手を引こうとするが、男はにっこりと微笑むだけで離そうとしない。提案を重ねる。

 

「結婚生活篇ってのはどう?」

 

 新しい章のタイトル案だ。どうやら、次章で女は結婚生活をするらしい。そして、夫の役はこの男がつとめるらしい。そういう提案だった。女はさすがに困惑する。

 

「えっと、友情婚ってやつ?」

 

 本当は一緒にいることだけが重要で、婚姻や性的な関係を望んでいないが、女が結婚や出産という言葉を用いたから、必要であれば甘受する、ということなのか。女は猜疑的な眼差しを男に向ける。二人の人間が全く同じ気持ちになることは不可能であると理解はしているが、この場合においてはできるだけ関係性の目的に齟齬がないようすり合わせをしておくべきだった。

 

「君がそれを望むならそれでいいけど、僕としては子供も考えたいと思ってる」

 

 男は握った手をソファの座面に置く。一定の距離を保ってきた二人の間に交点が生まれる。

 

「え、いや、だって。え? 私と、その、できるの?」

「許してくれるなら」

 

 男は指をからませる。女の指と指が押し広げられ、その合間に男の指が食い込む。それが許されると、男は確信しているようだった。その傲慢さに、今度は女がうなだれ、ため息をつく番だった。

 

「そうやって判断をこっちに任せているようで自分の意見をどんどん主張するよね、あなた」

「ごめんね。でも、君が僕から離れるなんてダメだよ」

 

 空いている手でグラスを取り、男はビールを飲んだ。酒に強い男はぐいぐいと飲み続け、一度にグラスは空(から)になった。飲み干してしまっても追い出されないと見越しての狼藉だった。

 

「はぁ。結構悩んでこの話したんだけどなぁ」

「分かってる。だから、ごめんね。悩ませて。君から言わせて」

 

 男は絡んだ指を動かして、女の指を撫でる。女は、人が人の指をこんな風に撫でる時、その先にどんな展開があるのか、おおよその予想がついてしまう。それは女自身の人生経験からも、好んで読む文学作品からもすでに学んでいたことだった。しかし、既知だからといって、手慣れているというわけではない。それなりに動揺もする。それなりに恥じらいもある。青春篇はもう終わりそうだが、しかしまだ終わっておらず、まるで青少年のように手を握り合うだけで緊張もすれば、十分な大人として指先同士の前戯に熱を感じもするのだった。

 

「今さらさ、その、イチャつくの? 恥ずかしくない?」

「さんざんイチャついてきたようなものだと思ってたけど」

「いや、その、これからは、キスとか、……セックスとか、するってこと?」

「君の嫌がることはしないよ」

「あー、もう。それやめてよ。楽しんでるでしょ。こんなに待たせたんだから、これくらいはっきり言ってよ」

「ごめんごめん」

 

 ソファの上で体の向きを変える。女の方へ膝を向け、男はもう一方の手も女のそれへ重ねた。

 

「君が好きだよ。結婚しよう。キスもさせてほしい。その先もさせて。いっぱい」

 

 世界がかつての暮らしを取り戻しつつある今、男もまた改めて考えていた。共通の敵が去り、身近な人間同士での争いが目に付くようになっても、人々の安寧を求める気持ちだけでは幸福を享受できなくとも、それでも崇高な理想を掲げずにはいられず、だからこその苦悩に眠りを妨げられても、それでも、眠れぬ夜を共にしてくれる存在があれば生きていける。願わくは、同じ気持ちであれ。

 

 しかし、女の考えは違うようだった。女が自分以外の人間を生涯の伴侶に選ぶ可能性。自分以外の人間と子孫を残す可能性。自分以外の人間が女に触れる可能性。それらを突きつけられ、付かず離れずで数年過ごしてきた二人の関係性の上にあぐらをかいていた自分の甲斐性のなさに向き合わざるを得なくなり、男の中で突然、降って湧いたのだった。自分以外がこの女性と人生を共にするのは許されない。彼女が結婚するならもちろんその相手は自分だし、素肌を見せるのも、手を握らせるのすらも、自分だけであるべきだ。横暴で乱暴な独占欲だった。口が裂けても言えるわけがない。これほど女からの好意を知りながら取り合わずにい続けた罪の意識も手伝っていた。だからこそ懇願する。

 

「いいかな?」

 

 今更、君に触れても。聖人ぶっていたのではない、単に、二人だけの特別な関係というものに酔っていただけだった。青春時代を経験した者なら分かるだろう。厨二病というやつだ。しかしもう、青春篇は終わる。ありきたりなシーンで。男は女の目をのぞきこみながら、自分の幼稚さに苦笑いを送る。女もまた情けなく眉を下げる男の顔に笑んだ。二人の顔が近づいた。

 

「よしとしましょう」

 

 初めてのキスはビールの味だった。次の物語のタイトルは麦秋篇とでもしようか。

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