※この作品はR-18です。

speed of sound   作:リネン_

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みどりの海の無限の岸に

 性行為はコミュニケーションの一つであり、会話や抱擁などと並列でそこに優劣はない。それに重きを置く人間がいても良いのと同等に、それがなくとも良好な関係を維持することは可能だろう。しかし、コミュニケーションであると同時に種の存続のための生殖行為として行われる行動でもあり、高度な医療をもって行為なしに受精することもできるとはいえ、互いの遺伝子を交配して子を持ちたいと思うほどの間柄であれば、おおよそ原始的な方法を取ることになろう。つまり、回りくどさを一切払って表現すれば、今から夫婦となり、将来的には子を持ちたいと考えているカップルにとって性行為は一つ重要な要素である、というわけだ。

 

「初めて、ではないんだよね」

 

 シャワーを浴びたばかりの湿度と温度のこもった女の指を引きながら、男は聞いた。読みかけていた紙束をソファの前のローテーブルの上に置く。女の編集する原稿だった。人類の石化から復活者の出現、ロケットの制作、本格復興までの道程をルポルタージュ小説風に書いた作品だ。復活した知人の小説家に依頼したものだという。相変わらず自分の信念に則り女は数多くの作品を編集しては世に問うていた。その重要な原稿が、体を洗う際に湯がかかったのだろう女の髪先からしたたる雫に脅かされないよう、テーブルの遠い場所へ押しやる。

 

「石化後は初めてかも。石化でケガが治るななら処女膜も復活してたりして?」

 

 指を引かれるまま、女は男の隣に腰掛ける。手を離し、腕を広げた男の懐に添う。先にシャワーを浴びた男の体より、女の体の方が熱かった。珍しいことに。その熱い体を男の腕が抱き寄せる。二人の体温が混ざり合う。溶け合う。

 

「確かめてあげよう」

「えっち」

「そっちが言い出したんでしょ」

 

 顔を近づけ、下唇を歯で軽く噛みながら不平を漏らす。噛まれた女の唇が笑いながら男の上唇を柔らかく挟む。唇の先に少し力を入れて、男の口を突き離す。少し硬くした唇を男の頬、瞼、こめかみ、耳の下に押し付けていく。女を抱く男の腕が強ばる。もう一本の腕が女の腰に巻きつく。二人は抱き合う。男の首にぶら下がるように女は腕を回し、近づいた耳元に言う。

 

「うん。確かめて。私のこと。全部」

 

 そっと体を離して、男は額を女の額に合わせる。焦点の合わない距離で軽く睨みながら言う。

 

「あんまり煽らないで。僕も石化後に誰かとするのなんて初めてなんだから」

 

 男の腕に支えられながらゆっくりと女の背はソファの座面に近づく。沈む。追いかけて男の体がその上にかぶさる。女がしたように男の唇も女の顔を蹂躙する。頬、瞼、こめかみ、耳の下。そのまま、顎骨、頸動脈、僧帽筋に降りていく。降りていく唇と待ち合わせをしているのか、腰にあった手が腰骨、へそ、肋骨、胸骨と登っていく。男の膝でまくられたパジャマ用のワンピースの裾から女の足が飛び出し、動きやすくなった足は男の内腿を撫でた。

 

「一人ではするの?」

 

 男の内腿に添えられた女の足はもう少し動けばその付け根に触れそうだった。奔放なその足をなだめるのか煽るのか、どちらともとれるような顔つきで男の指が触れる。まだ湯でほてっているその皮膚は男の指を柔らかく受け止めた。女は男の指を腿で挟む。擦り合わせる。閉じ込められて苦しんでいるように男の指がうごめき、そのくすぐったさに女の腿が震えながら開いた。解放された指はその自由を謳歌し、腿の上を闊歩する。腿の側部も、裏も。内側も。ひとしきり撫で回してから自分の体重を支えている腕を交代させるため上体を起こす。女の腰に馬乗りになる。

 

「僕だって男だからね」

「へぇ」

 

 女は男の顔を見上げる。見上げた視線を自分に馬乗りになっている男の腰までゆっくりとおろしていく。そして、もう一度、男の顔を見上げる。女の視線に男は苦笑いを浮かべる。

 

「想像しないでよ。えっち」

「西園寺くんの言う“えっち”、ヤバいね。なんか背徳感マシマシ」

「嫌?」

 

 女も体を起こす。短いキスをぶつける。

 

「最高」

 

 今度は女が男の指を引く。ベッドに行こうと誘う。一人暮らしにしては大きいとはいえソファはいささか手狭である。男は何度も通う女の部屋の、一度も触れたことのないベッドに乗り上げる。女がこの寝具で安らかに眠る様と、ここで今から行おうとしている行為が重ね合わされば、感動のような後ろめたさのような、落ちかない気分が喉を圧迫した。女はベッドに上がることに躊躇をみせる男の表情を見て、少し眉を寄せて微笑んでいる。男の見せたためらいが、やはり女との関係性へのためらいなのかという不安がよぎっていたのだった。互いに神聖化しすぎていた。ここまできて、ためらっていた。しかし、ほてる体も、はやる欲も、そこにはあった。おずおずと手を伸ばし合う。よそよそしく微笑みあって、先ほどまでの痴態の続きを渇望し合う。

 

「西園寺くんじゃなくて、名前で呼んでよ」

 

 ベッドに沈みながら男は女のワンピースの裾に手を入れる。初めて触れる女の素肌。めくりあげた衣服の下のそれに唇を寄せる。少し舌を這わせる。遠慮気味に差し出された舌先の感触に女の皮膚が振動する。男の優れた聴覚は漏れた息遣いを聞き逃さなかった。顔をあげて女と目を合わせる。言って。その乱れた呼吸の隙間に、僕の名前を。男は視線でそれを請う。

 

「羽京くん」

「はい」

 

 今度は女が請う。胸でなくて唇に。両腕を差し出して、男の顔を引き寄せる。熱を帯びた息を男の口に注ぐ。急くように口づけをせがむ女の様子に気を良くして男は笑う。口の端から空気を漏らしながら、何度も角度を変えて口づけてやる。つけたままのリビングスペースの間接照明に二人の唇が光る。かつてワインの赤に光ったその唇を、今度は互いの唾液で染めている。その様子を見る間も惜しいと男は女の口を何度も塞ぐ。続く口づけの隙間に女が上ごとのように繰り返す。

 

「羽京くん」

「なに?」

 

 繰り返される己が名に満足そうに微笑みながら、男は女の体から服を剥ぐ。下着姿となった女は指先で男の着るTシャツの裾を引っ張る。あなたも脱いで。メッセージを受け取って男は自分の手でTシャツを脱ぎ捨て、ベッドの足元に落としながら、その流れであらわになった女の肌に再び吸い付く。細い腰を抱くように腕を潜り込ませ、下着の金具をはずし、解放され重力に従って体側へしたたる胸の脂肪に手を添える。下着の跡がつくアンダーバストからワキの方へ唇を滑らせる。時折歯を立てる。唇の感触もだが男の髪が肌を撫でるのがくすぐったく、女はその前髪をおさえるようにかき分けた。暴かれた額に口を寄せる。生え際は少し汗ばんでいた。恥ずかしそうに男が微笑む。ウブな微笑みとは裏腹に、手は女の下腹部へ迷いなく進んだ。下着の上をそっと撫でる。生理的な反応なのか少し女の体が強ばるのを見て、やはり微笑みながら緩慢なキスをする。落ち着かせる意図か、女の反応を間近で見るためか、そのどちらもか、男はキスを続けながらじっと女の顔を見つめ、それでいて手の動きも止めない。

 

「羽京くん」

「うん」

 

 終わらない口付けにも、下着の中に侵入した指にも翻弄され続ける女が漏らすのは、もう一つの言葉しかなくなっていた。女は震える両手で男の頭に手を添える。その両耳を覆うように汗ばんだ手のひらを添える。

 

「う、きょう、くん」

「うん」

 

 男の口の中で女が男の名を呼ぶ。耳が塞がれているせいか、それは男の頭蓋の中でひどく反響した。直接吹き込まれる女の熱い息、直接注がれる途切れ途切れの自分の名前が響く。石像を砕く音も、絶えず騒ぐ森のざわめきも、押し寄せる波の音も、駆け抜ける自動車のエンジン音も聞こえない。今夜も、女の音が男の耳を塞ぐ。そして今夜は別の音も加わる。自分の心臓が騒ぐ音。血が送り出されている。どんどんと。女の秘部に添えた指にも、悶える姿を見つめる眼球にも、久しぶりの行為に早くも怒張する性器にも。血液の巡る速度が尋常でないことを冷静に分析する理性と、男にしがみつきながら与えられる性感に歯を食いしばる女をさらに乱さずにはいられない衝動が同居している。自分の余裕のなさを誤魔化すように男は女の目尻にそっと舌を這わせる。強く目をつむり過ぎて涙が滲んでいた。その涙が男の唇にすくわれるのを女は薄く目を開いて見た。目が合う。互いの情欲に濡れた瞳に互いの顔が写っているのが見える。

 

「いい?」

「うん、きて」

 

 苦しそうに歪む女の顔を見て、男は腰を引こうとする。しかし女がその男のうなじをぐっと抱き寄せる。頭突きをするように男の額に自分の額をぶつける。ひよってんじゃねぇ、と文句を言う代わりに。セックス中の恋人同士とは思えない勢いでぶつかった二つの額からゴツンと音がした。あまりにも無骨な音で、額もそれなりに痛み、二人は思わず吹き出す。女が笑うと内部が動くため、男はお預けを食らっている状況がより苦しく感じられたが、いくらかリラックスした女の様子に安堵もしていた。平静を装ってぶつかった額にキスを落とす。額から鼻筋を通って唇にも。舌を絡めながら、腰骨同士を近づける。処女膜の復活の有無こそ分からなかったが、挿入を伴う性行為をしたのは随分と昔であることを証明するような窮屈さだった。

 

「ごめん、あんまもたない、かも」

「きもちい?」

「ふふ。うん。すごく」

「うれしい」

 

 いじらしい言葉に情欲でない感情で喉が詰まった。自分は挿入でそこまで快感を得られていないだろうに。これほど苦しそうにしているのに。女のことを愛おしく思う気持ちが泉のように湧いて出てくる。泉どころではない。間欠泉のようだ。しかし、それとは別にはやる気持ちも抑えられない。鈍い痺れが腰を、背筋を、奥歯を駆け抜けては震わせる。できるだけ自身を落ち着かせ、ゆっくりと動く。

 

「好きだよ」

「ベッドの中だけでしか“好き”って言わない男はダメだってどっかで読んだことある」

「さっき言ったじゃないか」

「足りないってこと」

「欲しがりだね」

 

 すぐにでも果ててしまいそうな気配を感じ、律動をゆるめ、男は女に覆いかぶさる。女の肩口に顔を埋め、汗ばむ首に鼻をこすり、まつげで耳たぶをくすぐる。女の荒れた呼吸が男のこめかみに当たる。もみあげあたりの髪を揺らす。体重をかけまいと遠慮気味だった男の体を女の気怠い腕が強く抱き寄せる。二人はきつく抱き合う。一分の隙もないほどに。女の中に男がより深く入り込む。これ以上ないほどに繋がる。痛みはない。圧迫感はある。それ以上に多幸感がある。汗を共有し、粘膜を重ね、体温を溶け合わせ。今、この世で誰よりも近くに互いを感じている幸福。

 

「好きだよ」

「ん」

「言ってくれないの」

「うふふ。好き。好きだよ。大愛してる」

「あは。うれしいけど、誰かさんの顔が浮かんでちょっと複雑だな」

「ごめんごめん。ちょっと照れちゃった」

「かわいいね」

 

 男は上体を持ち上げ、“照れちゃった”らしい女の顔をじっと見下ろす。視線の意図に気づいた女が逸らそうとする顔を口づけですくう。口を重ねながら男の指が女の腰を撫でる。くすぐったいだけでない感覚が女の体の芯を駆け抜ける。指は結合部に近づく。繋がっている部分を少しなぞり、その上にある突起に指の腹をあてた。ゆっくり腰を動かす。鋭く息を吸う音が重ねた口同士の隙間でヒュウっと鳴った。

 

「あ、それ」

「きもちい?」

「う、ん。すごく」

「うれしい」

 

 ただの生殖行為。しかし、人間という生き物はこれをコミュニケーションの一つとして行う。相手の言う「ダメ」が「もっと」なのか、荒い息は苦痛のためか快楽のためか、何をして欲しく何をして欲しくないのか、自分にもたらされる性的刺激にかすむ脳漿を必死に動かして、考えて、考えることができないほど夢中になって、求め合って、与え合って、伝え合う。

 

「終わるのがもったいないくらいだ」

「また、しよう、ね」

 

 出会った頃にはなかったスプリングマットの上で二人横たわる。それぞれ後処理を済ませ、水分補給をして、脱ぎ散らかした衣服を身につけ、再びベッドの上で寄り添っている。行為後の熱が冷めやらぬ倦怠を乱れたシーツが吸っている。疲れたのか、女はすぐに眠った。男は女の寝顔を見るのは実は初めてであった。半開きになっている口に一つキスをして、指でその開いた唇を閉じてやってから、間近に聞こえる寝息を子守唄に自分も目を閉じることとした。

 

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*タイトルは若山牧水『海の声』収録の歌

「手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に」

より引用

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