※この作品はR-18です。

speed of sound   作:リネン_

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アクアリストの惑乱

 出張のお土産だよ、男はそう言って恋人のいるダイニングテーブルの上に紙袋を置いた。大きな袋を二袋、小さな袋を一袋。男は袋からものを取り出して説明を加え始める。これは中央アジアで買ったスパイスセットに食器、これは南米で買った手工芸品のバッグとアクセサリー、これはフランソワ手ずからブレンドしたハーブティーを分けてもらったもの。最後に今夜一緒に飲もうと思って近所の商店で買ってきたワイン。ダイニングテーブルは万国博覧会の様相だ。繰り広げられる土産物のランウェイを前にした女は、出張帰りの男に労いの言葉をかけるタイミングを逸し、ただただ呆気に取られていた。

 

「明日、お休みだよね? 僕も休みなんだ。何かしたいことある? 行きたいところとか?」

 

 ランウェイの最後に現れるデザイナーのように両手をもみ、少しはにかみながら男は言った。土産への礼を言いながら、スパイスセットや食器、ハーブティーはキッチンへ、バッグやアクセサリーは自室へと、大量の土産物をさばきはじめた女は、そのもみあわされる男の両手を片手で軽く叩いた。

 

「出張から帰ったばかりで疲れてるでしょ、家でのんびりしてたら? 私は自分の買い物があるからちょっと出かけるけど、すぐ戻るつもりだから」

 

 そう言いながら、分類した土産のうち自室に運ぶものを持って女はダイニングを離れた。自分の目の前から去っていく女の片手を名残惜しそうに目で追い、最近、二人で暮らすために越した2DKのさほど広くない部屋の廊下を進む女の背に男は問いかける。

 

「えー、じゃ、その買い物、ついていってもいい?」

「いいけど、いつもの化粧品買い足すだけだよ?」

 

 廊下を歩きながら女は返事をする。ダイニングテーブルへ戻る。自分のすぐ横に戻ってきた女を片肘をついて男は見上げ、目が合えば微笑んだ。女の手が伸びた先に期待をするが、その手はまたすぐ土産物をつかんでキッチンへ向かう。男は少し考え、女が持ちきれなかった残りの土産物を手に、同じくキッチンへ向かった。女は運ばれてきた土産物をそれぞれ収納する。手の空いた男は買ってきたばかりのワインのコルクを抜くことにした。

 

「ついでに夕食の材料も買おう。何がいい? 僕が作るよ」

 

 男は栓があいたワインの瓶とグラスを手慣れた様子でダイニングテーブルに運ぶ。女は冷蔵庫からチーズとオリーブを手にそれを追いかける。男は女の手からそれを受け取り、ありがとう、と目尻にキスをした。

 

「羽京くんって、釣った魚に餌あげすぎて水濁らすタイプだよね」

「え」

 

 買ったばかりのワインをグラスに注ぐ男の手がびくりとはね、ワインの雫もはねた。それを見た女は立ち上がり、キッチンから台拭きを持ってきた。天板に落ちた赤紫色の斑点を拭う。再び椅子に腰掛け、キャンティグラスの脚に指をかける。持ち上げて乾杯。国産の赤ワインは今年のもので、果実の味が爽やかに香る軽快な味だった。しかし、その早飲みワインを一口含んだ男は、未熟なカベルネ・ソーヴィニヨンのタンニンを噛み締めたような顔をする。ゆっくりと嚥下してから探るような視線で向かいの席に座る女を見た。女は楊枝で刺したオリーブを口に含み、口の中で転がしていた。

 

「会えない期間が長くなりがちだから、会える時は目一杯甘やかしたいと思って」

 

 言い訳めいた音程で男は言った。

 

「それは、私に? これまでの恋人に?」

 

 オリーブの種をティッシュに出し、新たな一粒に楊枝の先を突き刺す女が、短い言葉で問い直した。

 

「……」

「ごめんね、意地悪言った」

「いいや。僕も君に失礼なことを言った」

 

 今回の出張は長かった。まさに世界中を股にかけて飛び回る必要があったのだ。こうした長期にわたる不在は恋人関係になってから数度あるが、毎度、男はたくさんの土産物を持ち帰り、不在期間を穴埋めするように献身的に振る舞った。女はそれを、かつて潜水艦乗りであった男の強迫的な行動であると推定していた。潜水艦での任務は秘匿事項が多く、家族にも恋人にも任務期間を告げることができない。何も言わずに姿を消し、いつ帰るとも分からない男を待つというのは苦しいものであることは確かであり、それを理由に関係が破綻することも少なくないということを女は知っていたのだ。だからこその疑義だった。

 

「私といることであなたが苦しい思いをしないでほしいって言いたかったの。できるだけ早く連絡を返さなきゃ、とか、仕事がない日は一緒にいなくちゃ、とか、そういう義務になってやしないかって」

 

 献身的なのは出張帰りだけではない。日々の連絡は非常にこまめで、在宅で仕事をしている女に家事が偏らないよう仕事で遅く帰ってきても掃除や洗濯に時間をさき、休日は恋人との時間を何より優先する。“会えない期間が長くなりがちだから”。二人の生活において、この言葉が全ての前提となっている。女はその前提に疑念を抱いていた。会えない期間が長くなったことで破綻した関係は、かつての恋人とのものであり、現在共に過ごしている自分との関係ではないのにもかかわらず、男は過去の後悔のマリオネットになって、過去の恋人が求めたような動きを、今の恋人である女に向けて演じているのではないか。

 

「好きでやってるつもりだったんだけどな」

「好きでやってる、好きだからそうしている。そう思うべきだ、となっていない?」

 

 恋人に献身的に振る舞うのは当然だ。と、自身に暗示をかけていないか。そうするべきだという誰かの理想をなぞらえているだけではないか。女は男自身が気づいていない男の真意を見たいと、その瞳を凝視する。男は見つめられた双眸でゆるく弧を描く。眉を寄せ、微笑む。

 

「うっとうしい?」

「まさか。でも、もし少しでもそういう気持ちがあるなら健全じゃない」

 

 女の刺そうとしているオリーブは肉が薄いのか、楊枝の先で持ちあげるとすぐにまた皿の上に落ちた。コン、と音を立てて皿の上ではねる。皿の外へ出て転がった。観念して指でつまむ。オリーブの油が指を光らせた。男がティッシュの箱を差し出す。申し訳なさそうに顎をしゃくって女はティッシュを一枚引き抜く。口の中に放ったオリーブは、やはり果肉が薄く、種が歯に当たってガリリと音を立てた。すぐに果肉を剥ぎ取って種を出す。指を拭いたティッシュに出した種をくるみ、ぎゅっと握る。白いティッシュの厚い肉で覆われた種をじっと見る。

 

「ごめん。私は、ほら、話がうまくないから誤解を与えているかもしれないけど。決して不平や不満を言ってるんじゃないの。優しくされてもちろん嬉しいよ。大事にされていると実感する。一方で、その優しさ、丁重さがあなたの生活にとって余分な負荷になっていないか、それに気付かないでいるのではないか、って不安になっちゃったの。あなたと末長く一緒にいたいから、その負荷が積もり積もって、お互いから離れざるを得ないほど大きくなったら困るなって」

 

 今度は女が探るような視線を男に向けた。男は女が見つめていたティッシュの塊を一緒に見ていた視線をあげ、女の目を見る。やはり困ったように微笑んでみせる。

 

「うん」

 

 ティッシュを握り込む手に男の手が重なる。白い果実は転がり落ちて、二人の手だけが重なり合う。女の手が男の指先を握る。女はその指先を見ている。乾燥した地域に行っていたからか、男の指先はささくれ立っていた。それを痛めないように慎重に指を撫でる。

 

「あと、過去の恋人にヤキモチ。他の人にしたような優しさで私を扱わないで」

 

 視線を指先に落としたまま女は言った。指先を撫でる、その動作に集中しているかたわらにした世間話のように、あくまで何事もないように、そう聞こえるように気を遣った、緊張感のある声色だった。男は女の言葉に少なからず驚き、少し目を見開いた。しかし、また細める。自然と目尻が落ちる。女の手に重ねていない方の手で口元を覆う。

 

「……うん。ふふ、うん、そうだね」

 

 笑わないでよ、テーブルの下で女の足が男の脛を蹴る。スリッパ履きのキックは痛くもなんともない。照れ隠しに乱暴を働く女を見ながら、男は優雅にワイングラスを持ち上げ一口含んだ。フレッシュワインの果実味ある爽やかな香りが今度こそ口腔、鼻腔を満たす。

 

「自分で言うのもなんですが、私ってけっこう一人でなんでもできちゃうの。なんならむしろ一人の時間がないと息苦しいタイプだし、“君のため”っていろいろ自己犠牲されても恩着せがましいなって思う程度にはひねくれてるタイプ。恋人ができたらその人のことしか考えられなくなるような可愛げのあるタイプじゃなくて、その、ごめんね」

「ううん、かわいいよ、君は。そうやって予防線をはって勝手にいじけて。そんな君だからうんと甘やかしたくなるんだけどな」

 

 グラス越しに熱のこもった視線を向けられていることに気づき、女は乱暴に男の手を払った。自分もグラスを持ち上げグイッとワインを流し込む。カマンベールチーズに勢いよく楊枝を突き立てる。下部がうまく切れていなかったのか、丸のまま持ち上がるチーズの塊に苦戦していると、伸びてきた男の手が一切れ分になるよう千切った。

 

「とにかく、毎晩仕事を邪魔しにきては寝話をねだって、僕の枕がどうとか駄々こねてた頃をちょっとは思い出してごらん」

 

 本来、君はけっこう図々しい男だろう。何におもねっているのか知らないが媚びるような真似はよしていただきたい。不愉快です。千切られたカマンベールチーズの一切れを男の前に突き出しながら、女はわざとらしく怒ってみせる。突き出されたチーズを一口に食べて、男は「はい」と笑った。

 

「人はね、何かをしてもらった人よりも、何かをしてあげた人に愛着を感じるものらしいじゃない? そう考えるとあの時のあなたの行動はまさに私があなたに入れあげるにうってつけのものだったってわけ」

 

 眠れないと弱みを見せて、相手の得意分野に頼って見せて、独占欲を垣間見せて。その度に、女は自分が何かをしてあげなければと責任感を覚え、いつしか自分が相手の特別な人間であるのではないかと、相手を特別視する。これだけ与えているということは、相手を好意的に思っているからに他ならない、と自分の感情に名前をつけようとする。貢ぎ物をしてくれる人でも、時間を使ってくれる人でもなく、世話を焼かせた人に心が惹かれる。そういう構造があるらしいと、心理術に長けた二人の古い友人が言っていたことが思い出された。

 

「だったら。なおさら」

 

 女のグラスに再びワインが満たされる。瓶から液体が流出する独特の音がトットットッと小気味よく響いた。揺れる赤紫色の液体の波が寄せて返す様に女は、かつての薄暗い小屋を思い出す。思い出したどの夜においても、男は女のグラスを満たしてきた。つまみも用意して、適度な話題も提供して。土産物をたくさん持って帰ってくるのは、行く先々で恋人の顔を思い浮かべるから。休みの日に共に過ごそうとするのは平日は忙しくて触れ合いが少ない分たっぷり恋人に触れたいから。甘やかされることに慣れていない恋人を、思う存分甘やかして、甘え上手に育てた暁には、自分だけがその姿を独占したいから。自己犠牲だなんてとんでもない、利己心以外のなにものでもない感情がその裏にあることを女はまだ理解していないようだった。

 

「なおさら、僕にもっと甘やかさせて。もっと夢中にさせてよ」

「うーん。そうくるか」

 

 注がれたワインを持ち上げて口を近づけた女は上目遣いに男を見る。頬が赤いのはワインの色が反射しているから、ということにして。煽ったグラス越しに、赤ワインに濡れて光る男の唇が目に入った。この光が柔らかくたわむのを見るのは何度目だろうか。数え切れないほどであることだけは確かで、アルコールに火照った脳みそでは正確に数えることなど不可能なのだった。

 

「餌なんてたくさんあげる。水が濁ったら取り替えてあげる。太って水槽が狭くなったら大きい水槽を用意してあげる」

 

 男は自分の楊枝でチーズを刺して女の口元に差し出す。女は大人しくその端っこをかじる。苦味のある白カビ部分をかじると、内部のとろりとしたチーズが溢れ出した。男は楊枝を持った指とは違う指で、溢れ出したチーズに濡れる女の下唇をなで、すくう。女の歯がそれをしごき取る。なめらかなチーズ、硬いエナメル質が指を駆ける感触に、男は楽しげに笑った。

 

「太るのは嫌だなあ」

「僕のあげた餌で太った君は、さぞ可愛いんだろうな」

「その前に病気で死ぬぜ」

 

 楊枝に残る歯形のついたチーズを一口に頬張った女が苦い顔をしてみせた。チーズの香りが残る口にまたワインを流し込む。空いたグラスに男がワインを注ぐ。ほろ酔い気分の女が少し口が悪くなったり、態度が横柄になるのを見るのが男は好きだった。酔うと、他所行きの“うふふ”でなく、大口を開けて“あはは”と笑うのも、男の好きな姿だった。だから、男は女の酒器に酒を注ぎ続ける。下心だ。知られたら軽蔑されるだろうか。女は「えぇ」と嫌な顔はするかもしれないが、軽蔑や嫌悪はしないだろう。男には自信があった。この人は自分のどんな姿を見ても軽蔑や失望などしない、そう思える人間と共にあること、それは幸福なことだった。

 

「病気にならないように散歩に連れてってあげるよ」

「魚を?」

「僕、海に潜るのは得意だからね」

 

 海といえば。男は立ち上がる。お風呂ためてくるね。一緒に入ろうね。女の酒で温まった頬にキスをしてからバスルームに向かおうとした男の手が引かれる。飲んですぐ入るのは危ないから、女は常識的なことを言いながら、いたずらな笑みを浮かべ、引いた手を手繰り寄せ、お返しと言わんばかりに男の頬に唇を押し付けた。

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