朝の光がカーテンの隙間から差し込んでくる頃、私はいつもより少し早く目
を覚ました。 陸上部の朝練がある日は、自然と体が先に起きてしまう。隣の部屋から聞こえてくるはずの悠貴の寝息は、まだ静かだった。
キッチンに降りて水道の栓を捻る。冷たい水がシンクに落ちる音が、静かな家の中に小さく響いた。冷蔵庫から卵と牛乳を出し、フライパンを火にかける。今朝はシンプルにスクランブルエッグとトーストにしようと思った。悠貴は甘いものが好きだから、ジャムも多めに出しておく。
「悠貴、もう時間だよ」
階段の下から声をかける。返事はない。仕方なく二階に上がり、悠貴の部屋のドアを軽くノックした。
「悠貴。起きて」
「……ん」
低くて眠そうな声が返ってきた。ドアを開けると、布団から半分はみ出した悠貴が、髪をぐしゃぐしゃにしたまま目を細めている。朝日を嫌うように顔を背けて、また布団に潜ろうとする。
「ダメ。今日は朝練でしょ」
私は窓のカーテンを開け放った。一気に部屋が明るくなって、悠貴がうめき声を上げる。
「お姉ちゃん、ひどい……もう五分だけ」
「五分したら遅刻するよ。ほら、起きて」
布団の端を掴んで軽く引っ張る。悠貴は嫌がるように身をよじったあと、仕方なさそうに上半身を起こした。寝癖のついた髪が額に張り付いている。私は自然と手を伸ばして、その髪をかき上げた。指先に熱い体温が伝わる。
「……ありがとう」
悠貴がぼそりと言う。目はまだ半分閉じたままなのに、唇の端が少しだけ緩んでいた。私は手を引っ込めながら、軽く肩を叩く。
「着替えて下に降りてきて。朝ごはん作ってるから」
「うん」
返事はしたものの、悠貴はすぐに動こうとしない。私は一度部屋を出て、自分の身支度を整えることにした。鏡の前で髪をまとめながら、さっき触った悠貴の髪の感触が指に残っている気がした。柔らかいのに、少しだけ汗ばんでいて。思わず指を握りしめてしまう。
——なんでもない。ただの弟だ。
自分にそう言い聞かせて、私は階下に戻った。
スクランブルエッグを皿に盛り、トーストを焼いていると、背後で足音がした。振り向こうとした瞬間、後ろから体を預けられる。
「重たい」
「だって眠いんだもん」
悠貴の額が私の背中に乗っている。朝の熱がそのまま伝わってきて、背筋がくすぐったくなる。私はフライパンを置き、振り返らずに言った。
「顔、洗いなさい。寝癖もついたままよ」
「お姉ちゃんが直してよ」
「自分でやりなさい」
それでも悠貴は離れない。仕方なく私は体を捻って、彼の前髪を指で分けた。悠貴は目を細めて、まるで猫みたいに喉を鳴らす。その仕草が、最近妙に気になって仕方なかった。
「……もういいでしょ。テーブルにつきなさい」
「はーい」
悠貴がようやく離れ、椅子に座る。私はお茶を淹れながら、ちらりと彼の横顔を見た。寝起きの目元が少し赤くて、唇がぼんやりと緩んでいる。同じ屋根の下で何年も見ている顔なのに、最近は視線が自然と止まってしまう。
母が降りてきて「おはよう」と明るく言った。父も少し遅れて現れ、新聞を広げながら「サッカー部、次の試合はいつだったか?」と悠貴に聞く。悠貴は口の中にパンを詰め込みながら「来週の日曜」と答える。いつもの朝だ。特別なことは何もない。
なのに、私の胸の奥が、ほんの少しだけざわついていた。
学校に着いても、そのざわつきは完全には消えなかった。 昼休み、廊下を歩いていると、向こうから悠貴が友達と話しながら歩いてくるのが見えた。目が合った瞬間、悠貴の表情がぱあっと明るくなる。友達に何か言ってから、こちらに走ってきた。
「お姉ちゃん」
周囲に聞こえないように、小さな声で呼ぶ。私は軽く目配せをして、人の少ない通路の方へ移動した。
「どうしたの」
「お昼、何食べた?」
「サンドイッチだけど。……それで?」
「なんとなく。お姉ちゃんの顔見たくなっただけ」
悠貴がにやっと笑う。生意気な笑いに見えて、どこか甘い。私は思わず目を逸らした。
「変なこと言わない。早く戻りなさい」
「はーい。じゃあね、お姉ちゃん」
悠貴が手を振って戻っていく。その背中を見送りながら、私は自分の耳が熱いのに気づいた。学校ではできるだけ「弟」として接するようにしているのに、悠貴の方からこうして近づいてこられると、拒めない。
放課後、陸上部の練習前にグラウンドの端を通ったとき、サッカー部の練習している姿が目に入った。悠貴がボールを追って走っている。汗で髪が額に張り付き、ユニフォームの下から鎖骨が覗いている。私は足を止めそうになって、慌てて視線を戻した。
——見ない。見ちゃいけない。
なのに、まぶたの裏に、さっきの姿が残っていた。
帰宅したのは夕方近くだった。 玄関で靴を脱ぐと、家の中はまだ静かだった。私は先にシャワーを浴びて、キッチンに立つ。夕食の支度を始めていると、玄関が開く音がした。
「ただいまー」
「おかえり。汗だくでしょ。先に着替えて」
悠貴が鞄を放り出すように置いて、こちらの方へ歩いてくる。額に汗が光っている。私はタオルを取って、無意識に彼の頭に押し付けた。
「自分で拭きなさい」
「お姉ちゃんが拭いてよ。疲れるんだもん」
「練習で疲れたのはわかるけど……」
言いながらも、私はタオルで悠貴の髪を軽く押さえる。甘い汗の匂いが鼻先を過った。指先に伝わる熱が、朝よりずっと濃い。悠貴が目を細めて、身を預けてくる。
「……もういいでしょ」
私はタオルを彼の手に押しつけて、キッチンに戻った。後ろで悠貴が「冷たいな」と小さく呟く声が聞こえた。
夕食の準備をしている間、悠貴は隣で野菜を洗ったり、食器を並べたりしてくれる。肩が触れ合うたび、私は小さく息を詰めた。悠貴は気づいているのかいないのか、時々わざと体を寄せてくる。
「お姉ちゃん、今日の練習どうだった?」
「普通。悠貴は?」
「まあまあ。パスがうまく繋がらなくてさ」
会話はいつものままだ。なのに、空気の密度が違う気がした。フライパンの音や、水道の水音が、やけに大きく聞こえる。
食後、両親がリビングでニュースを見ている間、私たちはソファの端に並んで座った。悠貴が私の肩に頭を預けてくる。重みと体温が、ゆっくりと染み込んでくる。
「重い」
「ちょっとだけ。……お姉ちゃんの肩、好きなんだ」
「また変なこと言って」
私は軽く肘で突いたが、悠貴は動かない。両親の視界に入らない角度で、彼の指が私の服の裾を小さく摘まんでいるのに気づいた。拒むべきなのに、体が動かない。悠貴の吐息が首筋にかかり、背中がぞくりとした。
——ただの甘えだ。いつも通りの。
そう思おうとしても、胸の奥が熱い。悠貴の髪の匂い、肌の温度、近くで聞こえる呼吸。全部が、最近になって急に生々しく感じられるようになっていた。
両親が先に二階へ上がったあと、リビングには私たちだけが残った。テレビの音が小さく流れる中、悠貴が身を起こして私の顔を覗き込む。
「お姉ちゃん、最近ちょっと優しい?」
「……何が」
「なんとなく。前より、触ってくれる気がする」
私は言葉に詰まった。否定しようとして、うまく声が出ない。悠貴がにやっと笑って、今度は私の手を軽く握ってきた。
「いいよ。俺、お姉ちゃんに触れられるの好きだから」
その言葉が、胸に小さく刺さった。私は手を引っ込め、立ち上がる。
「もう夜遅いから。お風呂入って、早く寝なさい」
「はーい」
悠貴が素直に従うように立ち上がる。その後ろ姿を見ながら、私は自分の掌がまだ熱いのに気づいた。
夜も更けた頃、私は自分の部屋で部活の記録をつけていた。 ペンを走らせながらも、集中できない。昼間からのざわつきが、体の奥に残っている。喉が渇いたので、水を飲みに廊下へ出た。
二階の廊下は暗い。悠貴の部屋のドアの下から、薄い光が漏れていた。まだ起きているのか、と思いながら近づいたとき、耳に小さな音が引っかかった。
——何かが、擦れるような音。
そして、抑えきれない吐息。
私は足を止めた。心臓が、急に大きく鳴り始める。ドアに耳を寄せるでもなく、ただ立ち尽くしたまま、音に意識を奪われる。
「……ん……」
低くて、甘い吐息。 そして、はっきりと聞こえた。
「……お姉ちゃん……」
私の名前だった。 悠貴の声で、私の名前が呼ばれた。
頭の中が真っ白になる。足が動かない。ドアの向こうで、悠貴が何をしているのか。考えただけで、耳まで熱くなった。吐息は続き、時々「お姉ちゃん」と、か細い声で私を呼ぶ。まるで、誰かに縋るような、熱を帯びた声。
——知ってはいけない。
そう思いながらも、体が離れない。下腹部に、じわりと熱が広がっていく。自分でも驚くほどの速さで、欲情が涌き上がってくる。清楚に振る舞っている自分とは別人みたいに、胸が上下し、指先が微かに震えた。
悠貴が、私を想って、ああしている。 その事実が、頭の中で何度も反芻される。朝、触った髪の感触。夕方、拭いてあげた汗の匂い。ソファで預けられた体温。全部が、今この瞬間の音と結びついて、私を内側から溶かしていく。
どれくらいそこに立っていたのかわからない。 ふと我に返ったとき、私は慌ててその場を離れた。自分の部屋に戻り、ドアを閉めて、壁に背中を預ける。心臓の音がうるさい。太ももをそっと擦り合わせると、熱がさらに強くなった。
ベッドに倒れ込むように横になる。天井を見つめたまま、先ほどの声を何度も思い出す。
「……悠貴」
小さく名前を呼んでしまう。返事はない。当たり前だ。 なのに、その名前を口にしただけで、体の奥がきゅっと縮んだ。
ただの弟だ。 血の繋がった、大事な弟だ。 こんな感情を抱いてはいけない。
頭ではわかっている。なのに、身体は正直に熱を持ったままだった。悠貴の吐息が耳に残っていて、目を閉じると、ドアの向こうの気配がまざまざと蘇る。
私は布団を頭から被り、膝を抱えた。 何も起きていない。ただ、聞こえてしまっただけだ。 なのに、明日の朝、悠貴の顔を見るのが、少しだけ怖かった。
そして同時に、 どうしようもなく、楽しみでもあった。