―――最近、目に見えて傘木さんの元気がない…ように思える。思い切って本人に聞いてみることにした、朝練の時に。
「傘木さん、何か悩み事ですか?」
「……はい。3年生は練習殆どしてないですよね。コンクールメンバーはどうなるんでしょうか。それに…先輩はいつもひとりですよね…。どうしてですか?」
「前者に関しては人間の屑共だと思ってるのでどうしようもないですね。副顧問にあの屑共どうにかしろって苦情は何度か伝えましたがそのまま放置です。コンクールメンバーはあの屑共から優先的に選ばれるでしょう。その点はもう諦めてます。後者に関してはそんな屑共にビビって合奏練習もしない度胸ゼロの根性無しの臆病者共と一緒にいると頭に来るので俺ひとりで練習してます。」
「そんな…⁉ こんなに練習して上手な先輩がコンクールに出られないんですか…⁉ 間違ってますよ…⁉」
「副顧問がいるからには正顧問がいるはずなんですけど、1度も見たことないですよ。年功序列、それが正顧問、副顧問の方針なら従うしかないんじゃないでしょうか。殺意は湧きますが。後、俺に余り関わらない方がいいですよ。おふたりとも孤立してしまいます。お邪魔でしたら別の所で練習しますよ。」
「邪魔なんかじゃありません⁉ 先輩と一緒に吹くのは楽しいです…⁉ そんなこと言わないでください…⁉ 先輩がいなくなったら私、どうすればいいのかわかりません…⁉」
「お気持ちは嬉しいですが将来のことも考えてください。いずれおふたりが部を導く立場になるんですよ。そんな時に部がバラバラになってしまったら申し訳が立ちません。」
「先輩…⁉ 御自分の心配してください…⁉ 部活でもずっとひとりで…昼休みもそうですよね…⁉ 部活が終わった後も…独りぼっちで…寂しくないんですか…⁉」
傘木さんは涙を流している。何て先輩想いの後輩を持てて幸せなんだろうと感激したいところだがそうはいかなかった。
「人間の屑共に媚びて度胸ゼロの根性無しの臆病者共と馴れ合うくらいなら死んだ方がマシです。」
「そんなこと…言わないで…ください…⁉ 先輩が死んだら…私…悲しいです…⁉」
「傘木さんが俺をどう思っているのかわかりませんが、本来ならとっくに辞めてるはずのこの部に在籍し続けているのはあいつらにビビって辞めたと思われたくないためです。そんなくだらないプライドのためにしがみついてるだけのくだらない男ですよ俺は。上級生も同級生も疫病神くらいに俺の事思ってるんじゃないですか?」
「……。」
「さあ、涙を拭いてください。傘木さんには似合いません。」
バッグからタオルを取り出し涙を拭う。
「先輩は…優しいですね…⁉ どうして…皆さんは…分かって…くれないんでしょうか…⁉」
「それは俺が暴力くらいしか取り柄のない人間だからです。」
傘木さんは何か言いたそうだったが俺から話すことはこれ以上何もなかった。会話は途切れてホームルームの時間が迫っていたので黙々と帰り支度をした。形式的な挨拶をして音楽室の鍵を閉めて走って職員室へ入り松本先生の机へ鍵を放り投げて教室へ戻った。
6月に入った。いつも通りひとりで部活の準備をしていると傘木さんと鎧塚さんが現れ、ミーティングが行われるというので手を引かれるまま音楽室に入った。視線が俺に集中するが片っ端から睨み返した。全員目を逸らした。相変わらずくだらねえ連中だなと思いながらミーティングが始まるのを待った。やがて正顧問を名乗る女教師が現れた。コンクールメンバーは例年通り上級生から順に選ばれると伝えた。予想通りの展開だったが何故か不明だが黙っていられなかった。
「おい…こいつらに何が出来んだよ。今すぐ2年生と1年生で編成し直せ。」
「貴方たちには来年があるじゃない。私はみんなに楽しい思い出を作ってほしいの。それじゃ、後はよろしくね。」
部長らしき女に言い残して早々に立ち去って行った。天井を見上げる。深呼吸した、何度も。頭に昇る血を何とか抑えようとしたが無駄だった。視界が狭まる。眩暈がする。視界に何かを決意したような傘木さんを先頭に1年生数人が音楽室を出ていった。嫌な予感がした。気づかれないように後を追いかけた。どこかの教室に入った。僅かに扉を開けて様子を窺う。
「お願いします⁉ コンクールメンバーの座を2年生に譲ってあげてください⁉」
傘木さんが部長らしき女に頭を下げた。
「あのね、うちの部活はもともと上を目指してないの。それなのに練習しろとかコンクールメンバー譲れとかうるさく言って、あたしらじゃなくてアンタらが部内の秩序を乱してんのがどうしてわからないかなぁ? 空気読んでよ、みんな迷惑に思ってるよ。」
我慢の限界はとっくに来ていたと思っていたが更に怒りが湧いてきた。扉を開けて中に入る。
「傘木さん、頭を上げてください。」
震える両脚をどうにか踏ん張って早歩きで歩み寄る。秒速で土下座した。
「お願いします。コンクールメンバーを辞退してください。」
「……ビックリした! 土下座なんかしちゃって…。好きなの? こいつのこと?」
「……いいえ。」
「じゃあ誰だろうね! あ、わかった! 田中か中世古じゃない? 見てくれはいいもんね!」
「……いいえ。」
「ふーん、じゃあ誰かな? 言ってみなよ。」
「好きな女子なんていません。」
「言えって言ってんだよ。」
「いません。」
「誰だよ。」
「いません。」
「言えっつってんだろ⁉」
後頭部を踏まれる。殴り殺したい衝動に必死に抗い頭を下げ続けた。
「はあ、くっだらねー。お前ホモかよ。さっさと消えろ。」
俯きながら立ち上がる。相変わらず両脚の震えは止まらない。どうにか足を踏みしめて歩いた。傘木さんたちも全員教室から出たのを確認する。
「皆さんにお伝えしたいことがあります。付いて来てください。」
どうにか俺の教室まで辿り着いた。さっきと同じように土下座した。
「部の方針すら変えられない情けない先輩を持たせてしまったことを心よりお詫び申し上げます。誠に申し訳ございません。ですが‼ 皆さんは‼ 既に実力者で‼ 将来有望な1年生です‼どうか‼ 辞めないでください⁉ お願いです⁉ 見捨てないでください⁉ お願いします⁉ 見捨てないでください⁉ お願いします…⁉」
心の底から祈った。どうか…俺の想いが伝わってほしいと祈った。
「……頭を上げてください。」
動けなかった。
「お願いです。頭を上げてください。」
どうにか動けた。頭を上げて正座の姿勢を取る。
「先輩と一緒に朝練して楽しかったです。それに…入学式の日に演奏していた先輩の姿は今でも覚えています。物凄くカッコよかったです。あんなにカッコいい先輩のいる吹奏楽部に入部できると思うと楽しみでしょうがありませんでした。今でもその思いは変わりません。私にとっての先輩は物凄くカッコよくて頼り甲斐があって誰よりも男らしい自慢の先輩です。辞めるつもりなんて全くありません。心配ご無用です。」
「それでは…辞めないでいただけるのですか…⁉」
「はい! 先輩を残して辞められませんよ!」
「ありがとうございます⁉ ありがとうございます…⁉」
また頭を下げた。
「だから…⁉ もう…! 頭を上げてくださいって!」
「申し訳ございません。」
「先輩らしいといえばそうですけど、とにかく心配しないでくださいね!」
「はい! これからもよろしくお願いします!」
どうにか立ち上がる。傘木さんたちの後ろをついて歩く。さっきから体が、いや全身がおかしい。両手足の痙攣が止まらない。息が苦しい。全身の筋肉が硬直する感覚、息が苦しい。眩暈がする。異常に目が疲れる。目を閉じても同じだった。顔面の筋肉が痙攣する。息が苦しい。歩くだけでも異常に疲れる。深呼吸したい、出来なかった。浅い呼吸を繰り返す。息が苦しい。脚を引きずって歩く。次第に傘木さんたちとの距離が離れていく。脳内が渦を巻くように混乱していく。立っているだけでも異常に疲れる。蹲った。まだ疲れる。廊下に寝転がった。息が苦しい。
「先輩⁉ 大丈夫ですか⁉」
傘木さんの声が聞こえる。
「もう…はぁ…へんはい…はぁ…れふ…。」
「救急車呼んでいいですか⁉」
「はぁ…ほまはへ…ひまふ…はぁ…。」
呂律が回らない。もどかしかった。息が苦しい。次々に名前を呼ばれるが答えるのも疲れた。息が苦しい。サイレンの音が聞こえた…気がする。こうして生まれて初めて救急車に運ばれた。
目が覚める、ここは…病院のベッドのようだ。強烈な消毒液の匂いがする。起き上がる。
「起きたか、全く…世話を焼かせる。」
ベッドの傍に松本先生が椅子に座っていた。
「何の用だよ?」
「早速だがこれから診断を受けてもらう。」
「何のだよ?」
「精神科だ。」
「はぁ? 俺がキチガイに見えるってか? 舐めんじゃねえぞ。」
「そうは言っていないだろう。だがお前には重大な疾患の兆候が見える。だから診断してもらう。ほら、先生がいらっしゃったぞ。」
「こんにちは、よろしくお願いします。」
「……お願いします。」
「毎日、何時ごろに眠っていますか?」
「深夜0時前後です。」
「起きる時間はいつですか?」
「朝の5時過ぎです。」
「その…坊主頭と剃った眉毛にはどういった理由がありますか?」
「気が散るからです。」
「全身の体毛も剃っていますか?」
「はい。」
「……わかりました。鬱病と不眠症、強迫症の傾向が見られますね。抗鬱剤と睡眠導入剤を処方しますので用法用量をきちんと守って睡眠時間を最低でも7時間は取れるようにしてください。副作用は眠気、倦怠感です。28日分用意しますので来月、診療時間は基本午前までとなっていますので12時ごろでよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします。」
松本先生が答えた。その後、会計を済ませ薬を受け取って病院を出た。松本先生の運転する車に乗るよう促された。
「何んんんだあのヤブ医者⁉」
「失礼なことを言うな。現実を受け入れろ。先生が言っていただろう。鬱病と不眠症、強迫症と。」
「いきなりそんなこと言われて納得できるか⁉」
「落ち着け、1年生の頃からお前の様子は見ていたが問題はそれ以前にあるようだな。中学生の時何があった?」
「てめえに言う必要はねえって前に言わなかったか?」
「そうか、ならば担任の先生でも保険医の先生でも同級生でもお前を慕っている1年生でも誰でもいい。話してもらおうか。今日の診療結果を全員に話さないといけないな。」
「ふざけんじゃねえぞ。」
「じゃあ今話せ。病人扱いされたくなければな。」
「話すことなんぞ何もねえよ。」
「お前の全身傷だらけの姿を見なければその言葉を信じていただろうがな。今はそうも言ってられん。話してもらうぞ。」
「前にも言ったけどな、俺に構ってる暇があったら吹奏楽部どうにかしろよ。このままじゃ俺の3年間無駄になるぞ。『早く辞めときゃ良かった』ってな。上級生は揃いも揃って屑だらけでどうなってんだよ。何で態々コンクールに出てまで恥さらしに行くんだ? 脳ミソきちんと働いてるか?」
松本先生のこめかみをノックする。手を振り払われる。
「俺の事情が知りたきゃ俺から信頼されるように行動しろよ。話したくもねえ話を何の努力もしねえで話してもらえると思うんじゃねえ。」
「その言葉、覚えておく。」
「その前に俺が卒業してえんだけどな。早くこんなくだらねえ学校からはおサラバしてえよ。」
「そんな思いはさせない。」
「もう遅ぇんだよ。入学して1年半も経ってねえけどウンザリなんだよ。本当にくだらねえ。」
「……悪かったな。」
「遅ぇっつってんだろ。人の話聞いてるか?」
それっきり会話は途絶えた。俺の住むボロアパート付近まで車で連れていかれて降りた。礼を言う気にもならなかった。学校での生き地獄のような苦痛はなくなっていたので着替えて外に出て運動しまくって汗を流しまくった。 後始末諸々を終えて紙袋から薬を取り出す。『食後用』と『寝る前用』と書かれていたがもう夜0時になろうとしていたので纏めて飲んで布団に寝転がった。中々寝つけなかったのでネットを眺めている内に頭がボーっとしてきた。これが薬の効果なのだろうか。素早くノートPCの電源を切って目を瞑った。何も考えたくなかった。
目が覚める、起き上がろうとするが体に力が入らない。うつ伏せになって背筋に力を入れてどうにか膝立ちになってから立ち上がる。両脚が震える。屈伸運動する。震えは止まった。それから例の如く支度を済ませて走って学校へ向かった。どこからか楽器の音が聞こえる。直接音楽室へ向かった。扉を開ける。
「先輩⁉ 体調は大丈夫ですか⁉」
「はい、ご覧の通りピンピンしています。」
「良かった…⁉ 病院の先生は何て言ってたんですか⁉」
「特に何も…話聞いてませんでしたし。」
「もう…⁉ 先輩御自身のことなんですからしっかりしてください⁉」
「善処します。」
こうしていつも通りに朝練をこなした。今日は鎧塚さんたちが1番乗りだったらしく鍵は彼女たちが返しに行ってくれた。俺は教室へ向かった。しかめっ面をしたあすかさんが待っていた。
「松本先生から聞いたわよ。鬱病と不眠症と強迫症を患ってるんだってね。」
「あんな無能の言うこと信じたのか? 単純な脳ミソしてんなお前。」
「そんなに私たちの事頼りにならない?」
「当たりめえだ。上級生にビビってロクに合奏練習もしねえ度胸ゼロの根性無しの臆病者共なんぞ誰が信じるか。くだらねえこと聞くなよ。度胸ゼロの根性無しの臆病者さん。」
「悪かったわよ…。でも誰もがあんたみたいに強く生きられないの。それは分かって。」
「んなこと言われて信用できるか。邪魔だ失せろ。」
もうウンザリだった。朝っぱらから不快な気分にさせられて無性に帰りたくなるのを必死に我慢した。何も考えたくなかった。