その光景を、俺はただ呆然と見ていた。
恐怖よりも先に、理解が追いつかなかった。
さっきまでクラスメイトだった少年の胸元から、生々しい音と共に引き抜かれた赤い塊。
それは男の手の中で、まだ小刻みに脈動している。
「……ふむ、外れか」
男は興味を失ったように呟くと、その心臓を路地の闇へと無造作に放り捨てた。
ずしり、と重い音が響く。
俺の胃袋が、きゅうっと縮んだ。
「な、なんだよ、お前らは……」
声が震える。足がすくんで動かない。
逃げろ、と本能が叫んでいるのに、膝が笑って崩れそうになる。
「危機が迫っているのだ。お前達の心の臓に籠められた力を、借り受ける」
男は淡々と、まるで天気の話でもするかのように告げた。
そして、その視線が俺に向けられる。
ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。
違う。これは恐怖だ。
体の芯が凍りつくような、原始的な恐怖。
「ひっ……」
声にならない悲鳴が喉から漏れる。
逃げようとして後ずさるが、背中に冷たい壁が当たった。
行き止まりだ。
男の指先が、空間を裂くように動いた。
次の瞬間、俺の胸に焼けるような激痛が走った。
「がっ……!」
視界が白く弾ける。
胸の中で何かが、無理やり引きちぎられる感覚。
熱い。痛い。熱い。痛い。
焼き鏝をねじ込まれたような激痛に、意識が遠のきかけた。
同時に、体から力が、命そのものが、ごっそりと抜け落ちていくような感覚。
生気が、失われていく。
指先が冷たくなる。
視界が、少しずつ暗くなっていく。
もう、駄目だ――。
そう思った瞬間、男の手の中に何かが現れた。
俺の胸から奪われたそれは、手の平にすっぽりと収まるほどの、小さな鏡だった。
淡い光を放つ、美しい鏡。
男はそれを一瞥し、鼻で笑った。
「ふん、やはり外れか。大した力も宿っておらん」
そして、興味を失ったように、その鏡を地面へと放り投げた。
カラン、と乾いた音が響く。
鏡は路地の石畳の上で、虚しく転がった。
体は動かない。
意識は遠のきかけている。
けれど、俺の中で何かが、まだ抗っていた。
嫌だ。
終わりたくない。
奪われたままで、終わりたくない。
それは、恐怖からくるものなのか、それとも、ただの執着なのか。
分からない。
けれど、俺は伸びた手を、精一杯の力で動かした。
指先が震える。
力が入らない。
それでも、這いつくばるようにして、俺は地面に転がった鏡に手を伸ばした。
あと少し。
あと少しで、届く。
指先が、冷たい鏡の表面に触れた。
その瞬間、指先から電流のような何かが走った。
「くっ……!」
俺は歯を食いしばり、震える指で鏡を握りしめた。
重い。
手の平に乗るだけの大きさなのに、鉛のように重い。
けれど、それは確かに、俺の中にあった何かだった。
俺は、必死にその鏡を握りしめたまま、薄れゆく意識の中で、男を睨みつけた。
指先が震える。
鉛のように重い鏡を、俺は渾身の力で握りしめた。
視界が白濁する。
耳鳴りがする。
けれど、俺はただ一つの想いだけを抱いていた。
「……ここで、死にたくねぇ!!」
掠れた声が、喉から絞り出された。
それは叫びだったのか、呟きだったのか。
自分でも分からない。
ただ、俺はその言葉と共に、握りしめた鏡を見つめた。
そこに映っていたのは、俺の顔ではなかった。
――桜吹雪。
一面に舞い散る薄紅の花びら。
その中に、佇む一人の少女がいた。
白無垢。
それはまるで婚礼の儀に身を包む花嫁のような純白の装束。
腰まで届く長い白髪が、風もないのにふわりと揺れている。
肌は透き通るように白く、瞳は深い紅。
人形のように整った顔立ちに、感情の色はなかった。
だが、何よりも俺の目を奪ったのは――
角だった。
額から生えた、二本の角。
それはまるで、鬼を思わせる禍々しくも美しい突起。
現実離れした光景に、俺の思考は凍りついた。
――鬼?
いや、そんなバカな。
俺の混乱を他所に、鏡の中の少女がゆっくりと視線を上げた。
そして、まっすぐに俺を見た。
「……生きたいですか」
声は、鏡越しとは思えないほど澄んでいた。
鈴の音のように、静かで、冷たい声。
問われた意味を理解するのに、数秒かかった。
生きたいか、だって?
当たり前だろ。
こんな所で、わけも分からず殺されてたまるか。
俺は、震える唇を噛みしめ、首を縦に振った。
少女は、その紅い瞳を細めた。
それは微笑みだったのか、それとも嘲笑だったのか。
判別できない微かな表情の変化。
「では、契約ですね」
静かな宣言だった。
「これより、あなたは百鬼を従える為に、私の主になっていただきます」
百鬼。
その言葉の意味を咀嚼する間もなく、鏡が眩い光を放った。
視界が真白に染まる。
焼き付くような光の中で、俺はただ目を閉じることしかできなかった。
光が収まった時。
隣に、気配があった。
振り向くと、そこにいた。
先程、鏡の中にいた少女が、今は実体となって俺の隣に立っていた。
白無垢の裾が、石畳に触れる。
桜吹雪はどこにもない。
ただ、夜の闇と、血の匂いだけが漂う。
少女は、笑顔で俺を見下ろしていた。
「契約は完了しました。……主よ」
男の目が、見開かれた。
あの陰陽師のような和服を纏った男が、初めてその冷静な仮面を崩した。
驚愕。狼狽。そして何より理解できないという表情が、その顔に張り付いている。
「馬鹿な!」
男の声が上擦った。
「なぜっ――鬼が現世に蘇る事が出来たんだっ!」
叫び声が路地に反響する。
その声には明確な動揺が滲んでいた。
今まで余裕を見せていた男の姿はどこにもない。
あるのはただ、予想外の事態に直面した者の怯みだけだった。
俺の隣に立つ少女は、その叫びを聞いても微塵も揺るがなかった。
むしろその白い唇が、微かに歪んだ。
笑みだ。
それは嘲笑に近い、冷たい笑み。
「それはそれは」
少女の声が、夜気に溶ける。
「あなた方が、外れと言った鏡の力ですよ」
その言葉を口にした瞬間、少女の衣が翻った。
白無垢の裾が、夜風もないのに舞い上がる。
まるで目に見えない風が、彼女を包んでいるかのようだった。
そして少女の細い手が、腰元に差していた何かに触れた。
抜刀。
音すら置き去りにしたような速さで、白刃が夜を裂いた。
刀身に月明かりが反射する。
白ではない。青白い光を纏った刃だった。
その刃は、まるで夜そのものを切り出したかのように深く、冷たく、美しかった。
少女は刀を構えた。
刃先を男に向けたまま、動かない。
その姿はまるで能の一角を切り出したかのようで、静謐の中に残酷さが滲んでいた。
「……っ」
男が一歩退がった。
俺はその光景を、地面に倒れたまま見上げていた。
いまだ体に力は入らない。
それなのに、心臓だけが早鐘を打っている。
何が起きたのか。
何が起きようとしているのか。
理解できないことだらけだ。
けれど一つだけ、確かなことがある。
男が懐から何かを取り出した。
札だ。
紙片に赤黒い文字が走り書きされた、見覚えのない札。
男はそれを中空に掲げ、何事かを詠唱し始めた。
「浄!」
気迫と共に、札が光を放った。
鋭利な光の刃が、少女に向かって飛ぶ。
俺の体が勝手に動いた。
警告しようとして、声が出ない。
喉が引きつっている。
だが。
少女は動かなかった。
ただ静かに刀を構えたまま。
飛来する光の刃を一瞥し、息を吸い込む。
一振。
それだけだった。
少女が刀を一振りしただけだった。
緩やかな動き。
まるで柳の枝が風に揺れるかのような、柔らかで美しい一太刀。
その一太刀が光の刃を裂いた。
いや、光の刃だけではない。
空間ごと、切り裂かれた。
「なっ」
男の声が途切れた。
衝撃波が、俺の体を地面に叩きつけた。
耳がキーンと鳴る。
視界が揺れる。
そして俺が目を開けた時。
陰陽師達の体が宙を舞っていた。
吹き飛んでいた。
数メートル先の石畳に叩きつけられ、ごろごろと転がる。
男は四〜五人いた筈だ。
全員が、地面に這いつくばっている。
「ぐっ…」
呻き声が闇に溶ける。
男達は必死に体を起こそうとしていた。
だが、少女は既に動いていた。
白無垢の裾が夜を舞う。
一歩、踏み込む。
その一歩で、男達の目の前に現れた。
「お、お待ち…!」
男の一人が手を挙げ、何かを言おうとした。
言葉は続かなかった。
少女は既に刀を、上段に振り上げていた。
月明かりに照らされた刀身が、弧を描く。
一閃。
「ぐっ」
首が、飛んだ。
斬り飛ばされた首が、夜空に放物線を描く。
血飛沫が、桜の花びらのように舞った。
俺はその光景を、ただ見ていた。
足が動かない。
逃げられない。
ただ見ているしかできない。
少女は刀を振る。
何の躊躇もなく。
何の感情もなく。
ただ淡々と、一つ、また一つ。
首が落ちていく音が、夜に響く。
濡れた音が石畳を叩く音が、俺の鼓膜を震わせる。
全員が、首を斬り飛ばされていた。
最後の一人が地面に崩れ落ちる頃には、路地には首のない死体だけが転がっていた。
少女は刀を振り、血を払う。
白無垢には、返り血一つ付いていなかった。
血の匂いが鼻腔を突き刺した。
鉄錆のような、生温かい匂い。
それがあたり一面に充満している。
目の前には首のない死体が転がっている。
さっきまでクラスメイトだった少年の心臓を奪い、俺の心臓も奪おうとした男達。
その男達の首が、地面の上に転がっている。
切断面から血が滲んでいる。
石畳の溝を、赤黒い液体がゆっくりと流れていく。
「うっ…」
胃の中のものが喉を突き上げた。
俺は四つん這いになり、そのまま嘔吐した。
胃液が石畳にぶちまける音が、静寂の中に響く。
涙目になりながら、何度も何度も吐いた。
もう何も出ない筈なのに、体は吐き続ける。
「…?」
少女の声が届いた。
顔を上げると少女が小首を傾げていた。
紅い瞳が不思議そうに俺を見下ろしている。
まるで理解できないものを見るような目。
「助けてもらったけどそのっ」
俺は口元を拭い掠れた声を絞り出した。
言葉が続かない。
助けてもらった。命は救われた。
けれど目の前に転がっているのは、間違いなく人の死体だ。
少女は瞬きを一つ。
「…なるほど」
理解したというように、小さく頷いた。
「人の死には不慣れという訳ですか」
その声音は淡々としていた。
まるで天気の話でもするかのように。
不慣れ。
そうだ、不慣れだ。
当たり前だ。
こんな光景、慣れている人間がいる筈がない。
少女は刀を納めると、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。
白無垢の裾が血溜まりの上を滑るように進む。
汚れる様子はない。
俺の目の前で、少女は膝を折った。
目線が俺と同じ高さになる。
紅い瞳が、静かに俺を見つめている。
月明かりが少女の白髪を青白く染めている。
角が影を落とす。
その表情は、微かな笑みを浮かべていた。
「愛火童子」
少女が口を開いた。
「どうかこれからよろしくお願いします」
それは、契約の言葉だった。
少女は名を、愛火童子と名乗った。
俺は血と嘔吐物にまみれたまま、ただその名前を呆然と見上げていた。