※この作品はR-18です。

鬼召喚記   作:ボルメテウスさん

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鬼を呼び出し者

その光景を、俺はただ呆然と見ていた。

 

恐怖よりも先に、理解が追いつかなかった。

 

さっきまでクラスメイトだった少年の胸元から、生々しい音と共に引き抜かれた赤い塊。

 

それは男の手の中で、まだ小刻みに脈動している。

 

「……ふむ、外れか」

 

男は興味を失ったように呟くと、その心臓を路地の闇へと無造作に放り捨てた。

 

ずしり、と重い音が響く。

 

俺の胃袋が、きゅうっと縮んだ。

 

「な、なんだよ、お前らは……」

 

声が震える。足がすくんで動かない。

 

逃げろ、と本能が叫んでいるのに、膝が笑って崩れそうになる。

 

「危機が迫っているのだ。お前達の心の臓に籠められた力を、借り受ける」

 

男は淡々と、まるで天気の話でもするかのように告げた。

 

そして、その視線が俺に向けられる。

 

ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。

 

違う。これは恐怖だ。

 

体の芯が凍りつくような、原始的な恐怖。

 

「ひっ……」

 

声にならない悲鳴が喉から漏れる。

 

逃げようとして後ずさるが、背中に冷たい壁が当たった。

 

行き止まりだ。

 

男の指先が、空間を裂くように動いた。

 

次の瞬間、俺の胸に焼けるような激痛が走った。

 

「がっ……!」

 

視界が白く弾ける。

 

胸の中で何かが、無理やり引きちぎられる感覚。

 

熱い。痛い。熱い。痛い。

 

焼き鏝をねじ込まれたような激痛に、意識が遠のきかけた。

 

同時に、体から力が、命そのものが、ごっそりと抜け落ちていくような感覚。

 

生気が、失われていく。

 

指先が冷たくなる。

 

視界が、少しずつ暗くなっていく。

 

もう、駄目だ――。

 

そう思った瞬間、男の手の中に何かが現れた。

 

俺の胸から奪われたそれは、手の平にすっぽりと収まるほどの、小さな鏡だった。

 

淡い光を放つ、美しい鏡。

 

男はそれを一瞥し、鼻で笑った。

 

「ふん、やはり外れか。大した力も宿っておらん」

 

そして、興味を失ったように、その鏡を地面へと放り投げた。

 

カラン、と乾いた音が響く。

 

鏡は路地の石畳の上で、虚しく転がった。

 

体は動かない。

 

意識は遠のきかけている。

 

けれど、俺の中で何かが、まだ抗っていた。

 

嫌だ。

 

終わりたくない。

 

奪われたままで、終わりたくない。

 

それは、恐怖からくるものなのか、それとも、ただの執着なのか。

 

分からない。

 

けれど、俺は伸びた手を、精一杯の力で動かした。

 

指先が震える。

 

力が入らない。

 

それでも、這いつくばるようにして、俺は地面に転がった鏡に手を伸ばした。

 

あと少し。

 

あと少しで、届く。

 

指先が、冷たい鏡の表面に触れた。

 

その瞬間、指先から電流のような何かが走った。

 

「くっ……!」

 

俺は歯を食いしばり、震える指で鏡を握りしめた。

 

重い。

 

手の平に乗るだけの大きさなのに、鉛のように重い。

 

けれど、それは確かに、俺の中にあった何かだった。

 

俺は、必死にその鏡を握りしめたまま、薄れゆく意識の中で、男を睨みつけた。

 

指先が震える。

鉛のように重い鏡を、俺は渾身の力で握りしめた。

視界が白濁する。

耳鳴りがする。

けれど、俺はただ一つの想いだけを抱いていた。

 

「……ここで、死にたくねぇ!!」

 

掠れた声が、喉から絞り出された。

それは叫びだったのか、呟きだったのか。

自分でも分からない。

ただ、俺はその言葉と共に、握りしめた鏡を見つめた。

 

そこに映っていたのは、俺の顔ではなかった。

 

――桜吹雪。

一面に舞い散る薄紅の花びら。

その中に、佇む一人の少女がいた。

 

白無垢。

それはまるで婚礼の儀に身を包む花嫁のような純白の装束。

腰まで届く長い白髪が、風もないのにふわりと揺れている。

肌は透き通るように白く、瞳は深い紅。

人形のように整った顔立ちに、感情の色はなかった。

 

だが、何よりも俺の目を奪ったのは――

 

角だった。

 

額から生えた、二本の角。

それはまるで、鬼を思わせる禍々しくも美しい突起。

現実離れした光景に、俺の思考は凍りついた。

 

――鬼?

 

いや、そんなバカな。

 

俺の混乱を他所に、鏡の中の少女がゆっくりと視線を上げた。

そして、まっすぐに俺を見た。

 

「……生きたいですか」

 

声は、鏡越しとは思えないほど澄んでいた。

鈴の音のように、静かで、冷たい声。

 

問われた意味を理解するのに、数秒かかった。

生きたいか、だって?

 

当たり前だろ。

こんな所で、わけも分からず殺されてたまるか。

俺は、震える唇を噛みしめ、首を縦に振った。

 

少女は、その紅い瞳を細めた。

それは微笑みだったのか、それとも嘲笑だったのか。

判別できない微かな表情の変化。

 

「では、契約ですね」

 

静かな宣言だった。

 

「これより、あなたは百鬼を従える為に、私の主になっていただきます」

 

百鬼。

その言葉の意味を咀嚼する間もなく、鏡が眩い光を放った。

視界が真白に染まる。

焼き付くような光の中で、俺はただ目を閉じることしかできなかった。

 

光が収まった時。

 

隣に、気配があった。

 

振り向くと、そこにいた。

 

先程、鏡の中にいた少女が、今は実体となって俺の隣に立っていた。

白無垢の裾が、石畳に触れる。

桜吹雪はどこにもない。

ただ、夜の闇と、血の匂いだけが漂う。

 

少女は、笑顔で俺を見下ろしていた。

 

「契約は完了しました。……主よ」

 

男の目が、見開かれた。

 

あの陰陽師のような和服を纏った男が、初めてその冷静な仮面を崩した。

驚愕。狼狽。そして何より理解できないという表情が、その顔に張り付いている。

 

「馬鹿な!」

 

男の声が上擦った。

 

「なぜっ――鬼が現世に蘇る事が出来たんだっ!」

 

叫び声が路地に反響する。

その声には明確な動揺が滲んでいた。

今まで余裕を見せていた男の姿はどこにもない。

あるのはただ、予想外の事態に直面した者の怯みだけだった。

 

俺の隣に立つ少女は、その叫びを聞いても微塵も揺るがなかった。

むしろその白い唇が、微かに歪んだ。

 

笑みだ。

それは嘲笑に近い、冷たい笑み。

 

「それはそれは」

 

少女の声が、夜気に溶ける。

 

「あなた方が、外れと言った鏡の力ですよ」

 

その言葉を口にした瞬間、少女の衣が翻った。

 

白無垢の裾が、夜風もないのに舞い上がる。

まるで目に見えない風が、彼女を包んでいるかのようだった。

 

そして少女の細い手が、腰元に差していた何かに触れた。

 

抜刀。

 

音すら置き去りにしたような速さで、白刃が夜を裂いた。

 

刀身に月明かりが反射する。

白ではない。青白い光を纏った刃だった。

その刃は、まるで夜そのものを切り出したかのように深く、冷たく、美しかった。

 

少女は刀を構えた。

刃先を男に向けたまま、動かない。

その姿はまるで能の一角を切り出したかのようで、静謐の中に残酷さが滲んでいた。

 

「……っ」

 

男が一歩退がった。

 

俺はその光景を、地面に倒れたまま見上げていた。

いまだ体に力は入らない。

それなのに、心臓だけが早鐘を打っている。

 

何が起きたのか。

何が起きようとしているのか。

 

理解できないことだらけだ。

けれど一つだけ、確かなことがある。

 

男が懐から何かを取り出した。

 

札だ。

 

紙片に赤黒い文字が走り書きされた、見覚えのない札。

男はそれを中空に掲げ、何事かを詠唱し始めた。

 

「浄!」

 

気迫と共に、札が光を放った。

鋭利な光の刃が、少女に向かって飛ぶ。

 

俺の体が勝手に動いた。

警告しようとして、声が出ない。

喉が引きつっている。

 

だが。

 

少女は動かなかった。

 

ただ静かに刀を構えたまま。

飛来する光の刃を一瞥し、息を吸い込む。

 

一振。

 

それだけだった。

 

少女が刀を一振りしただけだった。

緩やかな動き。

まるで柳の枝が風に揺れるかのような、柔らかで美しい一太刀。

 

その一太刀が光の刃を裂いた。

いや、光の刃だけではない。

空間ごと、切り裂かれた。

 

「なっ」

 

男の声が途切れた。

 

衝撃波が、俺の体を地面に叩きつけた。

耳がキーンと鳴る。

視界が揺れる。

 

そして俺が目を開けた時。

 

陰陽師達の体が宙を舞っていた。

 

吹き飛んでいた。

数メートル先の石畳に叩きつけられ、ごろごろと転がる。

男は四〜五人いた筈だ。

全員が、地面に這いつくばっている。

 

「ぐっ…」

 

呻き声が闇に溶ける。

男達は必死に体を起こそうとしていた。

だが、少女は既に動いていた。

 

白無垢の裾が夜を舞う。

 

一歩、踏み込む。

その一歩で、男達の目の前に現れた。

 

「お、お待ち…!」

 

男の一人が手を挙げ、何かを言おうとした。

言葉は続かなかった。

 

少女は既に刀を、上段に振り上げていた。

 

月明かりに照らされた刀身が、弧を描く。

 

一閃。

 

「ぐっ」

 

首が、飛んだ。

 

斬り飛ばされた首が、夜空に放物線を描く。

血飛沫が、桜の花びらのように舞った。

 

俺はその光景を、ただ見ていた。

 

足が動かない。

逃げられない。

ただ見ているしかできない。

 

少女は刀を振る。

何の躊躇もなく。

何の感情もなく。

 

ただ淡々と、一つ、また一つ。

 

首が落ちていく音が、夜に響く。

濡れた音が石畳を叩く音が、俺の鼓膜を震わせる。

 

全員が、首を斬り飛ばされていた。

 

最後の一人が地面に崩れ落ちる頃には、路地には首のない死体だけが転がっていた。

 

少女は刀を振り、血を払う。

白無垢には、返り血一つ付いていなかった。

 

血の匂いが鼻腔を突き刺した。

 

鉄錆のような、生温かい匂い。

それがあたり一面に充満している。

 

目の前には首のない死体が転がっている。

さっきまでクラスメイトだった少年の心臓を奪い、俺の心臓も奪おうとした男達。

その男達の首が、地面の上に転がっている。

 

切断面から血が滲んでいる。

石畳の溝を、赤黒い液体がゆっくりと流れていく。

 

「うっ…」

 

胃の中のものが喉を突き上げた。

 

俺は四つん這いになり、そのまま嘔吐した。

胃液が石畳にぶちまける音が、静寂の中に響く。

涙目になりながら、何度も何度も吐いた。

もう何も出ない筈なのに、体は吐き続ける。

 

「…?」

 

少女の声が届いた。

 

顔を上げると少女が小首を傾げていた。

紅い瞳が不思議そうに俺を見下ろしている。

まるで理解できないものを見るような目。

 

「助けてもらったけどそのっ」

 

俺は口元を拭い掠れた声を絞り出した。

言葉が続かない。

助けてもらった。命は救われた。

けれど目の前に転がっているのは、間違いなく人の死体だ。

 

少女は瞬きを一つ。

 

「…なるほど」

 

理解したというように、小さく頷いた。

 

「人の死には不慣れという訳ですか」

 

その声音は淡々としていた。

まるで天気の話でもするかのように。

 

不慣れ。

そうだ、不慣れだ。

当たり前だ。

こんな光景、慣れている人間がいる筈がない。

 

少女は刀を納めると、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。

白無垢の裾が血溜まりの上を滑るように進む。

汚れる様子はない。

 

俺の目の前で、少女は膝を折った。

目線が俺と同じ高さになる。

紅い瞳が、静かに俺を見つめている。

 

月明かりが少女の白髪を青白く染めている。

角が影を落とす。

その表情は、微かな笑みを浮かべていた。

 

「愛火童子」

 

少女が口を開いた。

 

「どうかこれからよろしくお願いします」

 

それは、契約の言葉だった。

少女は名を、愛火童子と名乗った。

 

俺は血と嘔吐物にまみれたまま、ただその名前を呆然と見上げていた。

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