路地から移動した先は、廃屋だった。
崩れかけた土壁に囲まれた、どこかの蔵か納屋のような場所。
愛火童子が俺を背負い、ここまで運んでくれたらしい。
俺は壁に寄りかかり、ようやく呼吸が整い始めていた。
血と嘔吐物の匂いはまだ口の中に残っている。
「失礼いたしました。改めて」
愛火童子が俺の前に正座した。
白無垢の装束は月光に青白く浮かび上がっている。
先程、人を斬った刃は腰元に納められ、その手には何も握られていない
両手を膝につき背筋を伸ばして座るその姿は、礼儀正しいという他なかった。
「我が名は愛火童子。百鬼の長たる者です」
声は静かで、鈴の音のように澄んでいた
先程まで人を斬っていたとは、とても思えない。
まるで別人のようだった。
「あなた様の鏡を通じ、この現世に蘇ることができました。深く感謝申し上げます」
少女は——いや、鬼は、深く頭を下げた。
白髪がさらりと揺れる。
角が月光に照らされて、青白く光っていた。
「……鬼、なのか」
俺は掠れた声で問い返した。
「はい。鬼です」
迷いのない答えだった。
「太古の時代、我々はこの地に在りました」
愛火童子は静かに語り始めた。
「力は強う、魔力も人より優れておりました。されど、それ故に人に恐れられ、迫害されました」
その声音に感情の起伏はない
事実を淡々と述べているだけだ
けれどその言葉の裏に、どれほどの悲しみが沈んでいるのか俺には計り知れなかった。
「狩られ、殺され、ついには全滅いたしました。我が一族は」
「全滅…」
「はい。肉体を失い、魂のみの存在となりました。長き時を、ただ漂うのみでした」
愛火童子は目を閉じた。
長い白い睫毛が、微かに震える。
「されど、あなた様の鏡が、我らに道を開きました。鏡は魂の器。鏡を通じ、我らは再びこの世に蘇ることができるのです」
俺は自分の右手を見た。
あの鏡を掴んだ手だ
鉛のように重かったあの鏡が、今はどこにもない。
「鏡に我が姿を映した時、あなた様の魂が鏡に触れた。それが契約となりました。あなた様は我が主。我はあなた様の剣、あなた様の盾となります」
愛火童子は目を開き、紅い瞳でまっすぐに俺を見た。
「主よ。どうかこれから、よろしくお願いいたします」
再び、深く頭が下げられる。
俺は何と答えていいのか分からなかった。
さっきまで日常だった世界が一瞬で崩れ去り、代わりに鬼がいて、死体がいて、血の匂いが漂っている。
頭の中がまだ整理できていない。
「……分からないことだらけだ」
正直に言った。
「分からなくて当然です」
愛火童子は静かに微笑んだ。
「何があっても、私がお守りいたしますゆえ」
その言葉は嘘偽りのない、静かな誓いだった。
愛火童子は俺の言葉を聞くと、静かに立ち上がった。
「分からなくて当然です。何があっても私がお守りいたしますゆえ」
そう言って、微笑んだ。
その微笑みは先程まで人を斬っていた者のものとは思えないほど穏やかだった。
けれど俺の胸の奥にはまだ疑念が残っている。
本当に信用していいのか。
鬼だと言った。
人を殺した。
それが嘘ではない限り、簡単に心を開くことなどできない。
愛火童子は俺の視線に気づいたようだった。
「信用がおけませんよね」
小さく呟くと、愛火童子は自分の懐から何かを取り出した。
小さな布袋だ。
中から、丸い粒がいくつか出てくる。
「こちら、滋養に効く薬草です。干し柿と似た甘みがありますので、召し上がりやすいかと」
愛火童子はそれを俺の前に差し出した。
俺は思わず眉をひそめる。
薬草?
さっきまで人を殺していた奴が薬草?
「…毒は?」
俺の問いに、愛火童子は困ったように眉を下げた。
「主に毒を盛るなど、あり得ません。もし毒であれば、私の存在そのものが消滅します」
「なんでだよ」
「契約の誓約です。主を害すれば、我らは消える」
きっぱりと言い切った。
その目に嘘は見えない。
俺はためらいながらも、薬草を一粒口にした。
甘い。
渋みの中に、確かに柿のような甘みがあった。
喉を通り過ぎる感触と共に、体の奥からじんわりと温かさが広がる。
先程まで鉛のように重かった体が少しだけ軽くなった。
「……効く、のか」
「はい。鬼は人より生命力が強いですから、薬草の扱いにも長けています」
愛火童子は嬉しそうに目を細めた。
俺の反応を見て、安心したように。
「それと、もう一つ」
愛火童子は刀を抜き放った。
「っ」
俺の体が思わず強張る。
だが愛火童子は刀の切っ先を自らの手の甲に向けた。
そのまま、無造作に刃を走らせる。
「おい、何を…!」
言い終わる前に、彼女の白い肌に赤い線が走った。
血が滲む。
「この傷を治してみせます。我が力が、主のためになることを証明させてください」
愛火童子は傷口に自分の手をかざした。
すると傷口から淡い光が溢れ出し、皮膚がじわりと再生していく。
血が止まり、傷が塞がり、数秒後には傷跡すら残らなかった。
「…再生能力か」
「はい。鬼の力の一つです。主の傷も、病も、癒すことができます」
愛火童子は刀を納め、再び正座した。
紅い瞳が静かに俺を見上げる。
「私は主の剣であり、主の盾であり、主の癒し手でもあります。だからこそ、信じてください」
その言葉には嘘偽りがない。
少なくとも今の俺にはそう感じられた。
俺は小さく息を吐いた。
信じるかどうかはまだ決められない。
けれど、この鬼が俺のために動いているというのは事実だ。
「…分かった。とりあえず、信じてみる」
「ありがとうございます」
愛火童子は深く頭を下げた。
その顔には、安堵の笑みが浮かんでいた。
俺が薬草の甘みを噛みしめていると、愛火童子が少し躊躇うように視線を逸らした。
「主よ。一つ、申しづらいことがございます」
その声の調子が先程までと違う。
俺は眉をひそめて彼女を見た。
「何だ」
「私がこの現世に留まるためには…ええと、主の精を、頂戴する必要がございます」
「は?」
俺の声が裏返った。
精。
精液のことだ。
目の前の白無垢の少女が真顔でそんなことを言っている。
状況が理解できず、思考が停止した。
「い、いや待て。どういうことだ」
「契約により、私は主の鏡を通して現世に蘇りました。されど肉体を持たぬ魂は、やがて力を失い、再び虚無へと帰ります」
愛火童子は淡々と説明を続ける。
その表情は真剣だ。
「それを防ぐには、主の生命の源である精を取り込み、私の肉体を安定させなければなりません」
「生命の源ってお前…」
俺は顔を赤くしながらも、必死に冷静さを保とうとした。
「他に方法はないのか?」
「ありません。精は人の生命そのもの。それを取り込むことで、私は長く現世に留まることができます」
愛火童子は静かに俺を見つめている。
紅い瞳に迷いはない。
本気だ。
俺は頭を抱えた。
さっきまで人を斬っていた鬼が、今は精液をくださいと言っている。
一体何がどうなっているんだ。
「断れば、私は消えるのみです」
その言葉に、俺の胸がちくりと痛んだ。
助けてもらった命だ。
いきなり消えると言われても困る。
「…分かった」
俺は小さく呟いた。
「ただし、無理矢理はしない。嫌なら嫌だと言ってくれ」
「嫌ではございません。主のために尽くすことが、私の喜びですから」
愛火童子は微笑んだ。
その笑みは純粋で、どこか可憐だった。
俺は深く息を吸い、覚悟を決めた。
これが俺の新しい日常の始まりだということを、まだ知らないままに。