街を出てすぐ、俺は自分の腰に下げた曲刀を確かめた。
始まりの街で武器を選ぶ時間は、ほとんどかけていない。店に並ぶ武器の性能をざっと見て、手持ちのコルで買える中から一番軽いものを選んだだけだ。刃は短く、柄も飾り気がない。初心者向けの装備としては平凡だが、いま必要なのは見栄えでも希少性でもない。最低限、モンスターと戦える武器があればいい。
曲刀を選んだのは、直剣より軽く感じたからだった。実際に何度か振ってみると、刃先が思ったより外側へ流れる。真っ直ぐ振るつもりでも、反った刃の軌道に引っ張られて手首がぶれる。使いこなすには時間がかかりそうだが、慣れるまで待つ余裕はなかった。
俺には、急がなければならない理由がある。
元の世界で知っていたSAOの物語では、ゲームがデスゲームへ変わった直後、すぐに第一層の次の村へ向かうプレイヤーがいた。村にあるクエストを早く受け、攻略に役立つ装備を手に入れるためだ。俺が覚えている限り、その目的地はホルンカ村。そして、そこで受けられるクエストのひとつが、アニールブレードにつながっている。
俺の武器は曲刀だ。アニールブレードは使わないかもしれない。それでも、強力な序盤装備なら報酬として手に入れる価値はある。売ることも、交換に使うこともできる。何より、クエストの内容や森の地形を知っておけば、この先の行動に役立つ。
迷っている時間はなかった。
背後では、始まりの街の門を出ようか迷うプレイヤーたちが、まだ互いに声を掛け合っている。誰かが「一緒に行こう」と呼びかける声が聞こえたが、俺は足を止めなかった。急いでいるのは俺だけではないはずだ。知識を持つプレイヤーが同じクエストへ向かっているなら、出遅れるほど不利になる。
街道に沿って歩き出す。マップを開き、現在地とホルンカ村の位置を確認する。徒歩で向かえば時間がかかるうえ、途中にはモンスターが出る。安全を優先して街の中に留まっていたら、目的地へ着く前に日が暮れる可能性もあった。
遠くから、金属がぶつかる音が聞こえた。
街道の先で、数人のプレイヤーがモンスターと戦っている。前に立つ者が敵の攻撃を受け流し、後ろの仲間が隙を見て攻撃を加えていた。俺は距離を取り、戦闘を避けながら脇を通り抜ける。彼らの動きには慣れがあった。少なくとも、武器を持ったばかりの俺よりはずっと落ち着いている。
その様子を見て、胸の奥に焦りが生まれた。自分だけが遅れているような気がする。けれど、ここで焦って走り出しても、戦い方まで急に身につくわけじゃない。生き残るためには、急ぐべきところと慎重になるべきところを分けるしかなかった。
街道を進んでしばらくすると、草むらの中から低いうなり声が響いた。俺はすぐに足を止めた。草が大きく揺れ、灰色の影が地面を蹴る。現れたのは、牙をむき出しにした大柄なイノシシだった。
名前が視界に浮かぶ。
フレンジーボア。
第一層の草原に出現するモンスター。外見はただのイノシシに近いが、突進の威力は侮れない。正面から受ければ、体勢を崩されて次の攻撃を許す。ゲームの知識としては知っていた。だが、実物を前にすると、文字で読んだ時よりもずっと大きく見えた。
逃げるべきか。
そう考えた時には、フレンジーボアがすでにこちらへ突進していた。後ろは街道から外れた草むらで、足場が悪い。避けるなら横。俺は身体を右へ投げ出すように動いた。巨大な影がすぐ横を通り過ぎ、風圧が服を揺らす。突進をかわした勢いで、フレンジーボアが少し先まで進む。
反撃するなら、今しかない。
俺は曲刀を握り直し、相手が振り向く前に距離を詰めた。刃を横に振る。だが、狙いが高すぎた。曲刀の刃先は背中をかすめただけで、まともな傷にはならない。フレンジーボアが急停止し、地面を蹴ってこちらへ向き直った。
やばい。
敵が再び突進の姿勢を取る。今度は避ける方向を決めるのが遅れた。視界に表示されたソードスキルのアイコンが、使える状態になっている。曲刀の基本技。ゲーム知識の中に、その名前があった。
《リーバー》。
前方へ踏み込みながら、刃を突き出す突進技。大きな威力を出せる反面、タイミングを間違えれば相手の攻撃へ自分から飛び込むことになる。
フレンジーボアが地面を蹴る。
俺は逃げなかった。怖くないわけじゃない。むしろ、怖くて足がすくみそうだった。それでも、突進をかわしてから攻撃する余裕はない。敵の動きに合わせ、曲刀を構えて前へ出る。
システムの光が武器を包んだ。
身体が、俺の意思より先に動く。右足を踏み込み、腰をひねり、反った刃を前方へ突き出す。フレンジーボアの牙がすぐ目の前に迫る。俺は刃の軌道を最後まで崩さなかった。
曲刀が敵の胴へ突き刺さる。
衝撃が腕を通じて肩まで響き、フレンジーボアの突進が止まった。赤いHPバーが大きく減る。俺の身体も勢いに押され、足元が滑った。スキルの硬直が解けると同時に、敵が体勢を立て直そうとする。
考えるより先に、俺は刃を引いた。
次の突進が来る前に距離を取る。フレンジーボアは俺を追おうとしたが、動きが先ほどより鈍くなっていた。俺は呼吸を整え、相手の頭の向きと足の動きを見る。突進の前兆は分かりやすい。地面を蹴る前に頭を下げ、身体を沈める。その一瞬を見逃さなければ、避けることはできる。
敵が地面を蹴った。
今度は、ぎりぎりまで引きつけてから横へ動いた。牙が服をかすめる。すれ違いざま、曲刀を振り抜く。深くは入らなかったが、フレンジーボアのHPを削ることはできた。敵が向き直る前に一歩退く。相手の勢いを正面から受けないよう、街道の端を使いながら動き続けた。
戦闘は長引いた。
曲刀の間合いを測りかねて、攻撃を何度か外す。ソードスキルを使った後は、身体がすぐに動かず、敵の反撃を避けるのに苦労した。HPバーも少しずつ減っていく。逃げるなら今だ、と何度も思った。そのたびに、ホルンカへ向かう目的を思い出し、あと一度だけ攻撃を試みた。
フレンジーボアが再び突進の構えを取る。
俺は今度、相手の正面を避ける方向へ先に移動した。牙をかわした直後に踏み込み、《リーバー》を発動する。ソードスキルの光が刃を包み、曲刀が短い軌跡を描いて敵の胴へ突き刺さった。
フレンジーボアのHPがゼロになる。
大きな身体が光の粒へ変わり、草原の風に溶けていった。
俺は剣を下ろせないまま、しばらくその場に立ち尽くした。胸が激しく上下している。HPはまだ残っていたが、半分近くまで減っていた。回復アイテムを使えば戻せる。それでも、使い慣れていない曲刀でこの戦いを続けるのは、想像以上に危険だった。
「……これが、フレンジーボアか」
戦闘が終わった後も、腕には重みが残っていた。スキル名を知っていたからといって、使いこなせるわけではない。《リーバー》の動きはシステムが補助してくれる。それでも、発動のタイミングを選ぶのは自分だ。外せば、敵の懐へ飛び込んだまま反撃を受けることになる。
俺は回復アイテムを使い、減ったHPを戻した。残りの数を確かめる。思っていた以上に消耗している。先を急ぐ必要はあるが、無茶をすれば本末転倒だ。街道を外れず、敵を見つけた時は数と位置を確認してから動く。戦闘は避けられるなら避ける。ホルンカに着くまでは、それを徹底することにした。
道中では、何度かプレイヤーたちとすれ違った。誰もが急いでいるように見えた。街から出てきたばかりの者もいれば、すでに何度か戦闘を終えたらしい者もいる。ひとりで進む人間は少なく、ほとんどが誰かと組んでいた。俺は声をかけることも、かけられることもなく、ただ目的地へ歩き続けた。
途中、街道脇で立ち止まっている一団が目に入った。彼らは地図を囲み、何かを相談していた。先頭に立つ人物が手で方向を示し、残りの者はその言葉に従って装備を整えている。どこかで見たような光景だと思ったが、すぐにその考えは消えた。今の俺には、他人の行動を気にしている余裕はない。
ホルンカ村へ近づくにつれ、草原の景色は少しずつ変わっていった。遠くに森が見え、街道の両側には背の高い木が増えてくる。マップ上の目的地までの距離が縮まるたび、焦りが強くなった。俺が知っている物語のとおりに誰かが動いているなら、すでに目的のクエストに手をつけている可能性がある。出遅れたくはない。
村の外壁が見えたのは、太陽がまだ高い位置にあるうちだった。ホルンカ村は始まりの街に比べて小さく、門の周囲には簡素な柵が巡らされている。入り口の近くには何人かのプレイヤーが集まっていた。彼らは汗を拭い、装備の傷を確かめながら、村の中へ入る順番を待っている。
俺もその列の後ろへ並んだ。待つ間、曲刀の刃を確かめる。耐久度はまだ残っている。グリップを握る手には疲れがあったが、戦闘を続けられないほどではない。フレンジーボアとの戦いで、自分の実力が足りないことは分かった。それでも、あの一戦で《リーバー》の発動タイミングを少しだけ掴めた気がする。
村に入ると、始まりの街とは違う静けさがあった。NPCたちは普段どおりに仕事をしている。店先では商品が並べられ、道端では村人が立ち話をしていた。プレイヤーが閉じ込められた事実など知らないように見える。その日常らしさが、かえって現実との境目を曖昧にしていた。
俺はまず、掲示板の場所を探した。村の中央に小さな広場があり、その一角に依頼を受け付ける板が置かれている。討伐や採集、配達など、いくつものクエストが表示されていた。報酬の額を見比べ、危険度を考えながら、目的の依頼を探す。
森で薬の材料を集めるクエストがあった。
アニールブレードにつながる依頼だ。表示された条件は、俺の記憶と大きくは変わっていないように見える。受注者が多いのか、掲示板の前には何人かのプレイヤーが集まっていた。すでに森へ向かった者もいるのかもしれない。俺は詳しい説明を読み、目的地と必要なアイテムを確かめる。
悩んでいる暇はなかった。
報酬の片手剣を自分で使うかどうかは、あとで考えればいい。クエストを進めれば、経験値と資金が手に入る。何より、この世界で俺の知識がどこまで正しいのかを確かめられる。俺は受注ボタンを押した。
クエスト名がメニューへ記録され、目的地がマップに表示された。森は村の外れから少し進んだ先にある。日が暮れる前に、少なくとも森の入り口だけは確認しておきたい。俺は掲示板を離れ、道具屋で回復アイテムを必要最低限だけ買い足した。所持金はさらに減ったが、今は命を守る方が大切だ。
村の出口へ向かう途中、プレイヤーの話し声が耳に入った。
「先に森へ行った人がいるらしい。クエストの条件を知ってるのかな」
「分からない。でも、急いだ方がいい。報酬の武器、序盤にしてはかなり強いみたいだ」
俺は足を止めなかった。先に行ったプレイヤーがいる。その事実だけで胸がざわつく。俺より先にクエストの情報を持っている人間がいるのかもしれない。あるいは、俺と同じように物語を知っていて、急いでいるのかもしれなかった。
考えても仕方がない。
俺は曲刀の柄を確かめ、村の出口へ向かった。フレンジーボアとの戦闘で減った回復アイテムは補充した。装備も確認した。あとは森へ入り、クエストを進めるだけだ。
その時、村の門の向こうから、ひとりのプレイヤーが歩いてきた。
黒い服を着た少年だった。手には片手剣。装備は最低限に見えるのに、足取りには迷いがない。彼は村に入るなり、周囲を確かめるように視線を動かし、掲示板のある広場へ向かっていった。
俺は一瞬、声をかけるべきか迷った。
その名前が視界に表示されていたからだ。
キリト。
俺が知っている物語の中にいた人物が、いま目の前を通り過ぎようとしている。俺は自分の曲刀を握り直し、彼の後を追うように一歩を踏み出した。