ホルンカの村は、始まりの街に比べればずっと小さかった。村を囲う木柵も、石畳の道も、行き交うプレイヤーたちの装備も、どこか仮設めいて見える。けれど、村の外へ続く道の先には広い森が広がっていた。あそこへ入れば、もう安全な場所とは言い切れない。そう思うだけで、足取りが少し重くなる。
ダイヤはクエストボードの前に立つキリトを見つけた。黒い服に身を包んだ少年は、掲示板に貼られた依頼書を読み込んでいる。すぐに声をかけようとして、ダイヤは一度だけ周囲を見回した。村にいるプレイヤーは少なくない。ひとりで装備を確かめる者もいれば、商店の前で値段交渉をしている者もいる。ここがゲームの中だと知っているはずなのに、眺めていると、どこか現実の街角にも似ていた。
「あのぉすみません、」
声をかけると、少年は掲示板から目を離し、こちらを振り向いた。
「ん? 俺? どうした……」
「俺はダイヤ。さっき、始まりの街からこっちへ来たところなんだ。クエスト受けるなら、一緒に行かせてもらえないか?」
キリトはわずかに目を細めた。警戒というより、相手の力量を測るような視線だった。装備、剣、足元。ひとつずつ確かめたあと、彼は掲示板の依頼書へ視線を戻した。
「俺はキリトだ、よろしく。このクエストか。森で薬草を採ってくるやつだ。報酬は悪くないけど、森の中にはネペントがいる。始めたばかりなら、無理はしない方がいい」
「だからこそ、経験のある人と行きたいんだ。俺ひとりで突っ込んで死ぬよりはいい」
「なっ! 経験があるなんて一言も言ってないが。……でも、二人なら一人よりは安全か」
「これまで見てたが、依頼書を見てからクエストを受けるまで迷いがなかったろ。ビギナーなら、まず迷う」
「よく見てるな」
キリトは一度だけダイヤを見たあと、依頼書を剥がしてクエストを受注した。ダイヤの視界の端にも、クエスト開始を知らせる表示が浮かぶ。森の秘薬。指定された薬草を採取し、村の薬師へ届ける。説明を読み終えると、キリトは掲示板から離れた。
「行こう。あまり時間をかけると、ほかのプレイヤーに採取場所を取られるかもしれない」
「ああ」
村の出口へ向かいながら、ダイヤは腰の曲刀に触れた。始まりの街で買った、初期装備より少しだけマシな武器だ。片手剣とは違う曲線の刃は、持つたびにまだ馴染まない感覚があった。振り方も、間合いも、身体が覚えていない。現実で剣を振った経験など、もちろんない。だが、武器を選ぶ画面を前にしたとき、なぜかこれを手に取っていた。理由を考えても、答えは出なかった。
「曲刀を使うんだな」
キリトが歩きながら言った。
「店にあった中で、これが一番しっくりきた」
「曲刀は扱いに癖がある。慣れるまでは、剣先の向きを間違えないようにした方がいい」
「キリトは片手剣か」
「まあね。いろいろ試して、結局これが一番使いやすかった」
村を出ると、空気の匂いが変わった。草と土、それから濡れた木の皮の匂い。視界に広がる森は、ゲームの背景だと割り切るにはあまりにも細かかった。葉の重なり、木漏れ日の揺れ、地面に落ちた枝の影。そのどれもが、手を伸ばせば触れられるように見える。風が吹けば、枝葉が音を立てて揺れた。風の強さまで肌に感じる気がして、ダイヤは無意識に手を握る。
ここが作り物の世界だとしても、痛みがあり、空腹があり、恐怖がある。ならば、軽く考えていい場所ではなかった。
「クエストの目的地は、森に入って少し進んだところだ。薬草は木の根元に群生してるらしい」
「ネペントに気をつけながら探すんだな」
「そういうこと。あいつらは植物型のモンスターだ。地面に根を張ってるから、見落とすと近づいた時にいきなり襲ってくる」
「根を張ったまま動かないのか?」
「普通の個体はな。種類によって違うみたいだけど」
森の入り口で、キリトは歩みを止めた。木々の向こうに、赤いカーソルがひとつ見える。距離があるため名前までは表示されないが、敵であることは分かった。キリトは腰の剣へ手をかけ、ダイヤにも目配せする。
「まずは一体ずつ。俺が先に近づいて、向こうが反応したら引きつける。ダイヤは横から攻撃してくれ」
「分かった」
「ソードスキルを使うなら、発動後の隙に気をつけて。慣れてないうちは、敵を倒しきれないこともある」
「分かってる。前に一度使ったけど、まだ慣れてない」
「前に? ああ、始まりの街を出る前に戦ったのか」
「イノシシみたいなモンスターが出てきてな。あの時は、ほとんど勢い任せだった」
「なら、今回も無理はするな。通常攻撃で確実に当てる方がいい」
キリトはそう言うと、木々の間へ慎重に足を踏み入れた。ダイヤもその後に続く。地面には落ち葉が厚く積もっていて、足を置くたびに乾いた音がした。見通しは悪い。木々の隙間から先を覗いても、数メートル先で視界が遮られてしまう。敵の姿を見つけるより先に、向こうから襲いかかってくる可能性もあった。
森へ入ってしばらく進んだところで、キリトがふいに歩みを緩めた。前方を確認しながら、隣を歩くダイヤへ視線を向ける。
「なあ、ダイヤ。なんで俺に声をかけたんだ?」
「え?」
「クエストを受けるだけなら、ほかにも人はいた。わざわざ俺を選んだ理由があるんじゃないかと思って」
ダイヤは一瞬だけ言葉に迷い、それからキリトの歩き方へ目を向けた。森に入ってから、キリトは一度も立ち止まって道を確かめていない。敵の位置を見つけると、迷わず距離を測り、危険を避ける方向へ進んでいた。
「キリトって、目的のために迷いなく進もうとするだろ。それに、さっきも依頼書を見てすぐクエストを受けた。一度この辺りを経験してるからじゃないかって思ったんだ」
「……ベータテスターだと思ったのか?」
「違うのか?」
キリトはすぐには答えなかった。森の奥へ目を向けたまま、ほんのわずかに表情を変える。
「いや。合ってるよ」
その返事に、ダイヤは小さくうなずいた。予想が当たったことを喜ぶ様子はない。ただ、キリトが信頼できそうだと思った理由を、ひとつ確かめただけだった。
「ほかの人に聞かれたら、あまり言わない方がいいかもしれないな」
「ベータテスターだってことを?」
「ああ。今は、あまり歓迎されないこともある」
「分かった。俺からは言わないよ」
キリトはダイヤの表情をうかがった。事情を知っていて、なお自然に受け止める。その反応は少し意外だったが、今はそれを深く考える時間もない。
「そろそろ敵がいる。話はあとだ」
キリトが視線を前へ戻す。地面に太い根のようなものが横たわっていた。最初は木の根にしか見えなかったそれが、近づくにつれて不自然にうごめく。根の先端に、赤い光が宿った。
「来るぞ!」
キリトが叫ぶ。根が地面を跳ね、花のような頭部が開いた。ネペントは音もなく身体を持ち上げ、二人へ向けて葉を広げる。キリトが正面へ走り、敵の注意を引いた。花弁の隙間から伸びた蔓が、鞭のようにしなって彼を襲う。キリトは身を低くしてかわし、敵の懐へ踏み込んだ。
「今だ、ダイヤ!」
ダイヤは横へ回り込む。曲刀を握る手に力が入りすぎていた。刃先がぶれる。腕だけで振れば、攻撃を当てることすら難しい。キリトの言葉を思い出し、踏み込む足と腰を一緒に回す。刃がネペントの茎を捉え、甲高い効果音とともに敵のHPバーが少しだけ減った。
反撃の蔓がダイヤへ伸びる。避けきれないと思った瞬間、キリトの剣が割って入った。蔓を弾き、敵の攻撃を横へ流す。
「考えるのはあとだ。まずは動け!」
「分かってる!」
返事と同時に、ダイヤの視界へシステムの光が走った。曲刀を構える腕が淡い色に包まれる。フレンジーボアとの戦いで見たのと同じ、ソードスキルの発動前兆だった。
今度は驚かなかった。ダイヤは踏み込む勢いに身を任せ、曲刀を突き出した。
曲刀の剣技、《リーバー》。
刃がネペントの胴を捉え、敵のHPが大きく削れる。けれど、スキルの勢いが止まったあと、ダイヤの体勢は崩れていた。曲刀を引き戻すより早く、ネペントが蔓を振り上げる。
「ダイヤ、下がれ!」
キリトの声に、ダイヤは後ろへ跳んだ。蔓が目の前を薙ぎ、葉を散らす。地面に転がりかけたが、なんとか片膝をついて踏みとどまった。
キリトはその隙を逃さなかった。敵の横へ回り、連続して斬りつける。ネペントのHPが赤い線まで減り、最後の一撃でその姿が光の粒へ変わった。静けさが森へ戻る。遅れて、ダイヤの耳に自分の呼吸が聞こえてきた。
「……今ので、二回目か」
「曲刀の《リーバー》だな。発動のタイミングは悪くなかった。でも、スキルの後に隙ができるのはさっきと同じだ」
「敵を倒しきれなかったら、今みたいに危ないってことか」
「そう。発動する前に、相手のHPと距離を見た方がいい。使えば勝てるって技じゃないからな」
「気をつける」
ダイヤは剣を見下ろした。前の戦いでは、ほとんど無我夢中で技を出した。今は発動の感覚を覚えていたぶん、少しだけ自分の意思で動けた気もする。それでも、身体がどこまで自分のもので、どこからがシステムの補助なのかは、まだよく分からなかった。
キリトが、ダイヤの顔を見た。
「大丈夫だったか?」
「大丈夫だったが? どした?」
「……いや、なんでもない」
キリトは曖昧に言葉を濁し、森の奥へ視線を向けた。ダイヤはまだ腑に落ちない顔をしていたが、問い詰めるほどのことでもないと思ったのか、それ以上は聞かなかった。
キリトは、ダイヤの戦い方を思い返していた。初めて組んだ相手にしては、敵の動きへの反応が早い。ソードスキルも一度経験していたらしく、二度目の発動では慌てずに踏み込んでいた。戦闘の最中は真剣そのもので、敵の動きも、剣の扱いも、ひとつひとつ確かめるように見ている。
(男の子なのに、ずいぶんゲームにのめり込むんだな……。いや、俺が言えたことじゃないか)
自分だって、ゲームの中で生きるような毎日を送っている。そう思い直して、キリトは小さく息を吐いた。
「先へ進もう。薬草の採取場所は、もう少し奥だ」
「ああ。分かった」
そこから先は、敵を見つけるたびに慎重に距離を測った。ネペントは草むらや倒木の陰に隠れていることがあり、目を離せばすぐに見失ってしまう。キリトは慣れた足取りで先行し、危険な場所を避ける。ダイヤはその後ろを歩きながら、地面の起伏や木々の配置を覚えようとした。道を見失わないよう、折れた枝や大きな岩を目印にする。こういう小さなことが、迷ったときに役立つのだろう。
途中、根元に青白い草が群生している場所を見つけた。ダイヤが近づこうとすると、キリトが手で制した。
「待って。草の裏にカーソルが見える」
葉の陰に、小さなネペントが潜んでいた。二人は目を合わせる。今度はキリトが正面から注意を引き、ダイヤが回り込む。先ほどの戦いを思い出し、スキルを使うタイミングを見極めた。敵の蔓がキリトへ伸びきった瞬間、ダイヤは踏み込む。だが、相手のHPはまだ十分に残っている。スキルを使えば、発動後の隙を突かれるかもしれない。
ダイヤは曲刀を振り、まず通常攻撃を当てた。敵の茎がわずかに傾く。キリトの剣が続き、二人の攻撃でネペントのHPが削れていった。敵が蔓を振り回す。ダイヤは後ろへ下がって距離を取り、キリトが懐へ入った。最後はキリトの一撃が決まり、ネペントは光の粒となって消える。
「今のは、スキルを使わなかったな」
「使えば倒せるかもしれないけど、倒しきれなかったら反撃されると思った」
「その判断でいい。使わないのも選択肢だからな」
「なるほど」
敵の消えた場所に、採取可能な薬草が残っていた。クエストの指定品らしく、触れると採取の表示が出る。ダイヤが操作を終えると、クエスト画面の進行度が更新された。必要な数にはまだ届かない。二人は周辺を探しながら、少しずつ森の奥へ進んでいった。
森の空気は、奥へ行くほど湿り気を増していく。木々の間隔も狭くなり、空が見える範囲は細くなっていた。ダイヤは何度か後ろを振り返り、来た道を確かめた。目印にした岩や倒木は確認できる。だが、同じような木々が続くせいで、ひとりならすぐ迷ってしまいそうだった。
「そろそろ、採取場所の近くだと思う」
「さっきより敵が多くなってるな」
「クエストの対象になる場所は、だいたいそうだ。報酬がある分、危険もある」
キリトの声が少し低くなる。ダイヤも気を引き締めた。確かに、赤いカーソルを見かける頻度が増えていた。幸い、どれも単体だったため、無理をせずに対処できている。しかし、敵が複数同時に動き出せば、同じようにはいかない。
やがて、キリトが足を止めた。
「止まって」
木々の向こうに、二つの赤いカーソルが見えた。片方は地面に根を張ったまま動かず、花弁のような頭をゆっくり開閉させている。もう片方は、先ほど倒した個体よりも大きかった。根が地表を這い、いくつもの蔓が絡み合っている。頭部には丸い果実のようなものがぶら下がり、熟れた実の表面に似た赤黒い色をしていた。
「花付きと、実付き……」
ダイヤは小さくつぶやいた。名前の表示を確認する。片方はフラワーネペント。もう片方はフルーツネペント。どちらも通常の個体とは違う、強い敵のカーソルだった。
「見た目だけで判断するのは危険だけど、あの実付きは攻撃範囲が広いかもしれない。まず花付きから倒そう」
「分かった。俺が横へ回る」
「いや、花付きは俺が引きつける。ダイヤは実付きの様子を見て、攻撃の隙を探してくれ。こっちに反応したら、無理に近づかずに下がれ」
「キリトひとりで大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃなかったら、二人で逃げる。倒すことより、まず死なないことだ」
その言葉に、ダイヤはうなずいた。森に入ってから何度も考えていたことを、キリトが代わりに口にしたようだった。敵を倒して報酬を得る。そのために、命を賭ける必要はない。けれど、逃げることと無謀に突っ込むことの境目は、実際に戦場へ立てば簡単に見失う。
キリトが剣を抜く。ダイヤも曲刀を構え直した。今度は握り込みすぎないよう、指の力を少し緩める。刃の重みを感じながら、相手の動きだけを見る。
「いくぞ」
キリトが一歩踏み出した。花付きのネペントが地面から根を引き抜き、花弁を大きく広げる。次の瞬間、何本もの蔓が一斉に伸びた。キリトは剣を構え、迫る蔓の軌道を見極める。
その背後で、実付きのネペントもまた、ゆっくりと身体を起こし始めていた。
花付きのネペントが、広げた花弁を震わせた。蔓が地面を擦り、枯れ葉を巻き上げる。キリトは正面から距離を詰め、伸びてくる蔓を剣で受け流した。だが、敵は一体ではない。彼の背後では、実付きのネペントが根をうねらせながら身体を起こしている。
「ダイヤ、実付きが動いたらすぐ知らせろ!」
「分かった!」
キリトの言葉に答え、ダイヤは二体の動きを交互に見た。花付きの攻撃は蔓による連打。対して実付きは、まだ攻撃を仕掛けてこない。赤黒い実が揺れるたび、表面に不穏な光が走っていた。
キリトが花付きの蔓を弾き、懐へ踏み込む。剣が茎を斬り裂き、敵のHPバーがわずかに減った。だが、斬撃を受けた花付きは、すぐさま身をよじって反撃する。二本の蔓が左右から迫り、キリトは片方をかわし、もう片方を剣で受け止めた。
「今だ!」
「せぁぁぁ!」
ダイヤは横から駆け寄り、曲刀を振る。狙いは花付きの根元。刃が深く食い込み、敵のHPが全損し、ポリゴンが弾ける。
「よし!ナイス!」
「あぁ初めてにしては上手く…避けろ!」
足元の根が跳ね上がる。ダイヤは咄嗟に後ろへ身を引いた。根の先が靴をかすめ、HPバーの端がほんの少しだけ減る。
「あっぶな!根元も動くのか……!」
「よく敵を観察するんだ!!本体の蔓だけ見てると危ないぞ!」
キリトが叫ぶ。ダイヤはすぐに立て直し、敵の動きを確かめる。攻撃の前には、根の先がわずかに持ち上がる。次の一撃に備えて間合いを取った、その時だった。
背後で、低く湿った音が響いた。振り向くと、どこからともなく現れた花付きのネペントが大きく根をしならせていた。ダイヤが避けようとするより早く、地面を這っていた蔓が足首に絡みつく。
「うわっ!」
「ダイヤ!」
蔓が一気に引かれ、ダイヤの身体が地面へ倒れ込んだ。曲刀を手放さずに済んだものの、起き上がる間もなく、別の蔓が腕と胸に巻きついてくる。服の上から締め上げられ、上半身を引き寄せられた。
「んぁ♡待て、なんだこれ! 普通に攻撃してくるんじゃないのかよ!」
蔓は腕を押さえ込み、曲刀を振るうための動きを封じていた。さらに一本が腰へ回り、身体をじわじわと引きずっていく。直接肌に触れているわけではない。妙に感じる。服越しに締めつけられる感覚と、思うように動けない焦りに、ダイヤの顔が熱くなる。
「ちょっ/// ぅん♡」
(何!これっ体が変……! いや、落ち着け。モンスターの攻撃だ。変なことを考えてる場合じゃない!)
「ダイヤ!」
キリトがこちらを振り向いた。すぐに助けへ向かおうとするが、花付きの蔓が行く手を遮る。キリトは舌打ちし、迫る攻撃をかわして剣を振るった。蔓を一本斬り落とし、花付きの懐へ踏み込む。
実付きの蔓は、ダイヤをゆっくりと自分の方へ引き寄せていた。腰に巻きついた蔓が服を引っ張り、上着の裾がずれていく。ダイヤはどうにか足を踏ん張ろうとしたが、地面を滑るばかりで抵抗にならない。
「き、きりとぉこいつを ぁん♡先に止めて!」
「分かってる!」
キリトは返事をしながら、花付きの攻撃を受け流した。剣を返して茎を斬り、さらに踏み込む。花弁が大きく開き、何本もの蔓がキリトへ襲いかかった。彼は身を低くしてその下をくぐり、反対側へ抜ける。
その動きを見ながら、キリトは顔を赤くしながら表情が険しくなった。
(こんな攻撃、ベータテストの時にはなかった)
花付きの動きも、花付きが蔓で獲物を捕らえることも、記憶にない。ベータテストで戦った個体とは、明らかに様子が違っていた。モンスターの行動パターンが変わったのか。それとも、自分が知らないだけなのか。考えを巡らせる暇はなかった。
「ダイヤ、少しだけ我慢しろ! 先にこいつを片づける!」
「は、んッ♡早く!」
キリトは花付きの蔓を避け、攻撃の隙を探した。ダイヤへ向かう道を塞ぐように敵が根を広げている。無理に突っ込めば、二人とも攻撃を受ける。ならば、まず花付きを倒すしかない。
キリトの剣が閃いた。花弁の付け根を斬り、敵のHPバーが一気に減る。花付きは残った蔓を振り回したが、キリトは攻撃の軌道を見切って身をひねり、最後の一撃を叩き込んだ。
花付きのネペントが光の粒となって消える。
キリトはすぐにダイヤへ駆け寄った。だが、実付きの蔓はまだ締めつけを緩めない。ダイヤの腕に絡みついた蔓が、曲刀を握る手ごと固定していた。
「動くな。切るぞ」
「お゙っ♡お願い!」
キリトは蔓とダイヤの腕の間へ剣先を差し込み、慎重に刃を走らせた。一本が切れ、腕の拘束が緩む。続けて胴に巻きついた蔓を斬り落とすと、ダイヤはようやく立ち上がった。乱れた服を直す余裕もなく、すぐに曲刀を構え直す。
「大丈夫か?」
「…うん。」
「……そうか。」
キリトは曖昧に言葉を濁し、実付きのネペントへ目を向けた。
「俺もベータテストで、こんな攻撃を見た覚えはない。油断するな。まだ動くぞ」
実付きのネペントが、二人へ向き直った。赤黒い実が強く光る。ダイヤはキリトの隣に立ち、今度は蔓が伸びてくる前に距離を取った。
「正面から近づくのは危ない。種を飛ばす攻撃もあるはずだ」
「なら、撃たせてから隙を狙う。俺が注意を引く。ダイヤは横へ回れ」
「分かった」
キリトが剣を構え、実付きのネペントへ走った。敵の根が地面を滑り、赤黒い実がキリトを向く。光が強くなった瞬間、キリトは横へ跳んだ。種がいくつも飛び出し、木の幹や地面に突き刺さる。
ダイヤはその射線を避けながら側面へ回った。敵の攻撃が止まった直後、曲刀を構えて踏み込む。視界に淡い光が走った。敵のHPはまだ残っている。前に出すぎれば、再び蔓に捕まるかもしれない。
ダイヤは一度だけ息を整え、敵の根が動くのを待った。ネペントの蔓が地面を這い、こちらへ伸びてくる。攻撃の直前、先端がわずかに持ち上がった。
「今だ!」
キリトの声を合図に、ダイヤは横へ踏み込んだ。蔓をかわし、敵の懐へ飛び込む。曲刀を突き出すと、《リーバー》の光が刃を包んだ。鋭い一撃が根元を捉え、ネペントのHPバーが大きく削れる。
スキルの勢いが止まるより早く、キリトの剣が反対側から敵を斬った。実付きの巨体が大きく震え、赤黒い実に亀裂が走る。次の瞬間、ネペントは光の粒となって崩れていった。
森に静けさが戻る。ダイヤは剣を下ろし、絡みついていた蔓の感触を振り払うように腕を動かした。キリトは敵が消えた場所を確かめてから、ダイヤへ視線を向ける。
「えーと…本当に平気か?」
「…お願い、忘れて」
「わかった。……けど、さっきの攻撃はおかしい。ベータテストの時と違いすぎる」
キリトは森の奥を見つめた。表情から戸惑いは消えていない。ダイヤも、さっきまで自分を捕らえていた蔓を思い出して、眉を寄せた。
「この世界、知ってるゲームと同じようで、違うところもあるのかもな」
「そうかもしれない。これからは、知ってるつもりで動かない方がよさそうだ」
キリトの言葉に、ダイヤはうなずいた。森の中では、少しの思い込みが命取りになる。ベータテストで経験したことがあっても、それだけを頼りにするわけにはいかない。ましてや、自分はこの世界を知っているつもりでいるだけなのだ。
二人は周囲を確かめながら、クエストの採取場所を探した。木々の根元には青白い薬草が群生していた。必要な数を採り終えると、クエスト画面が更新される。森の秘薬――達成。
「これで依頼は終わりだな」
「村へ戻って報告しよう」
来た道をたどりながら、ダイヤは何度か後ろを振り返った。敵がいた場所は、もう何事もなかったように静まり返っている。けれど、腕や腰にはまだ蔓に絡め取られた感触が残っている気がした。
「さっきのこと、ほかの人には言わないでくれ」
「モンスターに捕まったことか?」
「それも。あと、なんか……説明しづらい」
「分かった。俺からは言わない」
キリトはそれ以上からかうことなく、前を向いた。ダイヤは少しだけ気まずさが残るのを感じながら、乱れた上着を直す。戦いの後にこんなことを気にする余裕があるのは、無事に切り抜けられたからだろう。
村の木柵が見えてきた頃、夕方の光が森の向こうから差し込んでいた。ホルンカへ戻ればクエストの報酬が受け取れる。次に何をするのかは、まだ決めていない。けれど、キリトと別れたあとも、この世界で生きていくためには動き続けなければならない。
ダイヤは腰の曲刀に手を添えた。初めての一撃より、少しだけ扱い方が分かった気がする。次に戦うときには、もう少し無駄のない動きができるだろうか。
答えは、実際に剣を振るまで分からない。