ホルンカの村へ戻る頃には、森の向こうに傾いた夕日が、木柵や屋根の端を赤く染めていた。森の中で張り詰めていた空気が、村へ入った途端に少し遠のく。けれど、ダイヤの腕にはまだ、あの蔓に絡め取られた感触が残っているようだった。何度か手首を動かし、服の袖を直す。キリトはそんな様子を横目で確かめたが、何も言わずにクエストボードへ向かった。
「まずは森の薬草採取の報告だな。薬師のところへ行こう」
「ああ。報酬もらったら、今日は解散か?」
「そのつもりだったけど……」
キリトは言葉の途中で、視線をクエストボードの端へ移した。そこには、村の薬師が出した別の依頼書が貼られている。紙の端は何度も剥がされかけたように傷んでいたが、依頼そのものはまだ受注可能らしい。キリトは依頼書を読み、少し考えてからダイヤへ向き直った。
「森の秘薬、か」
「さっきの薬草採取とは別のクエスト?」
「ああ。森で花付きのリトルネペントを倒して、胚珠を手に入れる。報酬は武器らしい」
ダイヤは依頼書の文面を確かめた。森の薬草採取と同じように、薬師が必要な材料を求めている。だが、薬草を採集してくるだけの依頼と違い、今度は明確にモンスターを倒す必要があるようだった。
「さっき倒した花付きのリトルネペントが落としたんじゃないのか?」
「森の薬草採取の途中で倒した個体か? あの時はまだクエストを受けてなかった。胚珠はクエストを受けていないと入手できない代物なんだ。俺もベータの時に確認した」
「……つまり、もう一回探しに行くのか」
「そういうことだな」
キリトは依頼書を剥がし、クエストを受注した。ダイヤの視界に、森の秘薬というクエスト名が表示される。目標は花付きのリトルネペントが落とす胚珠。採取場所は、先ほどの森と同じ方角だった。
「薬草採取の報酬をもらってからにしよう。薬師のところへ行く」
二人は村の中央にある小さな薬屋へ向かった。扉を開けると、乾燥した草の匂いが鼻をつく。棚には小瓶や薬草の束が並び、カウンターの向こうでは白髪の薬師が、すり鉢を使って何かを混ぜていた。ダイヤがクエスト完了を告げると、薬師は二人を見比べ、満足げに頷いた。
「おお、森の薬草を集めてきてくれたのか。助かったよ。これで当分は薬に困らずに済みそうだ」
報酬のコルが支払われ、クエスト完了の表示が消える。続けてキリトが森の秘薬について尋ねると、薬師の表情が曇った。
「娘が熱を出してしまってね。薬を作るには、花付きのリトルネペントが持つ胚珠が必要なんだ。森の奥にいる個体を倒せば手に入るはずだが、普通の薬草採りより危険な仕事になる」
「引き受けた。胚珠を持ち帰ればいいんだな」
「俺も探してくるから2人分ね!」
「ああ、頼んだよ。無理はしないでおくれ」
店を出ると、空はまだ明るかった。森へ戻る時間はある。薬屋の前でキリトは装備を確かめ、ダイヤも曲刀の位置を直した。さっきの戦闘で乱れた服はもう整っている。それでも、ダイヤは無意識に腰のあたりを気にしていた。
「行く前にひとつ言っておく」
「なんだよ」
「いいか? 花付きが出ても、一人で行動するな。それと、俺から離れるな」
「いくらなんでも心配しすぎじゃね? 遠足に行く幼稚園じゃあるまいし」
「さっきのことがあったしな。それに、俺はお前のパーティーメンバーだから」
「……さっきのことは忘れろって言っただろ」
「悪い。そうだったな」
キリトはそれ以上何も言わず、先に歩き出した。ダイヤは呆れたように息を吐きながら、その隣へ並ぶ。言い方は大げさに聞こえたが、森での戦闘を思い出せば、キリトが気にするのも無理はない。さっきは自分の不注意で捕まった。今度は同じことを繰り返さない。そう思うと、先ほどの注意も少しだけ受け入れやすかった。
村を出ると、風が草木の匂いを運んできた。森は夕方の色に染まり、木々の間の影が深くなっている。キリトは見覚えのある道を迷わず進み、ダイヤは少し遅れないよう歩調を合わせた。時折、キリトが後ろを振り返る。ダイヤがついてきているのを確認すると、何事もなかったように前を向いた。
「そんな何回も確認しなくても、ちゃんとついていってるって」
「分かってる。癖みたいなものだ」
「過保護だなあ」
「そうかもな」
軽く返したキリトの声には、照れも冗談もなかった。ダイヤは少しだけ意外に思い、彼の横顔を見た。年齢は近いはずなのに、森を歩く背中はずっと頼もしく見える。ゲームを知っているからというだけではない。危険を見つけたときの判断や、仲間の位置を気にする余裕が、キリトにはあった。
ダイヤはその背中を追えばいい。少なくとも今は、それが一番安全な選択に思えた。
「ベータの時は、花付きの個体をすぐ見つけられたのか?」
「いや。クエストの対象だからって、都合よく目の前に現れるわけじゃない。森の奥を探し回ったよ」
「今回はどれくらいかかるか分からないってことか」
「そういうことだな。花付きが出る場所はある程度絞れるけど、いつでもいるわけじゃない」
森の中へ入ると、二人は周囲を確かめながら進んだ。青白い薬草を見つけても、今度は採取しない。目的の個体が潜んでいそうな場所を探し、赤いカーソルがないか確かめては、道を変える。木々の間隔が狭まり、地面の根が増えていく。普通のネペントは何度か見つかったが、花付きの姿はなかった。
敵が出るたび、キリトが先に動いた。ダイヤはその右側を維持し、キリトが敵の攻撃を受け流した隙に曲刀で斬り込む。前の戦いで覚えた距離感を思い出し、無理にソードスキルを使わず、通常攻撃を重ねる。キリトが一体を引きつけている間、ダイヤはもう一体の位置を見失わないようにした。
「右後ろ!」
ダイヤの声に、キリトが振り向く。草むらから伸びてきた根を、彼は剣で弾いた。ネペントが地面を跳ねるように身体を起こし、花弁を広げる。キリトが正面から攻め、ダイヤが横から斬りつける。二人の攻撃が続き、敵のHPバーが減っていく。最後はキリトの一撃が入り、ネペントは光の粒になって消えた。
「今のいい動きだ。助かった」
「そっちこそスキル!でも、俺が根に気づかなかったら危なかったぞ」
「そうだな。よく見てる」
キリトの言葉に、ダイヤは少しだけ胸を張る。すぐにキリトは視線を森の奥へ向けた。
「休憩するか?」
「まだ大丈夫だ。けど、思ったより時間かかりそうだな」
「焦る必要はない。暗くなる前に見つからなければ、いったん戻ろう」
「分かった」
歩きながら、ダイヤは何度も森の景色を見渡した。花付きのネペントが出現する場所は、記憶の中ではもっと簡単に見つかった気がする。だが、実際に歩いてみると、木々の間に似たような景色がいくつも続いているだけだった。森の薬草採取の時に現れたのは、たまたま繁殖行動のために姿を見せていた個体だったのかもしれない。クエストのために探す今は、何の気配もない。
どれくらい歩いたのか。視界の端に表示される時刻は、村を出てから一時間近く経っていた。
「いないな」
「いないな」
キリトとダイヤの声が重なった。二人は一度足を止め、周囲の地形を確認する。花付きどころか、普通のネペントも見当たらない。森の奥へ進みすぎたのか、まだ探索の範囲が狭いのかも分からなかった。
「ベータの時も、こんな感じだったのか?」
「こんなに探した記憶はないけど、出現するまで待ったことはある。クエストを受けたらすぐ見つかる、なんて仕組みじゃない」
「結局、運か」
「運と、探し方だな。出現地点を回ってみよう」
キリトは少し疲れたように肩を回し、再び歩き出した。ダイヤもその後ろへ続く。時間が経つにつれ、森の中は静けさを増していった。風が葉を揺らす音と、二人の足音だけが続く。敵の姿を探すことにも慣れてきた頃、ダイヤはふと、木の陰に人影があるのに気づいた。
「誰かいる」
キリトがすぐに剣の柄へ手をかける。木の陰から現れたのは、黒髪の少年だった。軽装で、腰には短めの片手剣を提げている。こちらに気づくと、少年は警戒を解くように片手を上げた。
「驚かせてごめん。俺はコペル。森の秘薬クエストを受けたんだけど、花付きが見つからなくてね」
ダイヤは、その名前を聞いた瞬間に彼を思い出した。
コペル。原作で見た。アニメでも何度も見直した。キリトとパーティーを組み、クエストの途中で――。
記憶ははっきりしていた。彼はキリトをモンスターの群れへ置き去りにしようとした。ハイディングで自分だけ逃げるつもりが、モンスターの攻撃を受けて死ぬ。そういう結末を知っている。
ダイヤの視線は、コペルの顔から離れなかった。彼は目の前の二人に、少し申し訳なさそうな笑顔を向けている。
「俺たちも同じクエストだ。俺はキリト。こっちはダイヤ」
「よろしく。ひとりで探してたのか?」
「うん。花付きが出る場所を探してるんだけど、なかなか見つからないんだ。よかったら僕も協力するよ。同じクエストなら、三人で探した方が早いだろうし」
「助かる。俺たちも、もう一時間近く探してるところだ」
コペルはそう言って、ダイヤの方へ視線を向けた。
「ダイヤは大丈夫? さっきから少し疲れてるように見えるけど」
「あ、いや。大丈夫」
「無理しない方がいいよ。森の中で焦っても仕方ないし。少し休んでからにしよう」
あまりに自然な気遣いだった。コペルは自分の持っていた水を差し出し、ダイヤが受け取るまで待つ。キリトも何も疑う様子はなく、周辺を確認しながら短い休憩を取ることにした。
ダイヤは水を受け取らず、コペルの表情を見た。
知っている。彼がこの先で何をするのかも、結末も。
けれど、目の前のコペルは記憶の中の人物と同じには見えなかった。やさしく、気を使い、仲間として自然に接してくる。ダイヤを心配する様子に、芝居がかったところもない。
別人なのかもしれない。自分の知っている話とは、少し違うのかもしれない。
そう思いたくなる自分がいた。
「どうした?」
キリトの声に、ダイヤは我に返った。
「いや、なんでもない」
「顔色が悪い。休んだ方がいい」
「大丈夫だって」
「ダイヤ、無理はするなよ」
キリトまで気遣ってくる。二人の視線を受け、ダイヤは曖昧に笑った。
「分かった。少し休む」
コペルは水をダイヤへ渡し、自分は少し離れた場所に立って森を見張った。彼の背中を見ながら、ダイヤは自分の記憶を疑い始めていた。自分が知っているのは、物語としてのコペルだ。けれど、現実にいるコペルが同じ選択をするとは限らない。そう考えるのは、当たり前のことのはずだった。
休憩を終え、三人は再び森の奥へ進んだ。コペルは出現地点に詳しく、何度か別の道を提案した。キリトもその意見を聞き、三人で安全な範囲を広げていく。コペルがいることで探索は効率よく進んだが、花付きの姿は見つからなかった。
「やっぱり、今日中に見つかるとは限らないな」
キリトが立ち止まり、空を見上げた。木々の間から見える空は、夕方から夜へ移ろうとしている。
「もう少しだけ探して、見つからなかったら戻ろう」
コペルが提案した。
「そうだな。最後に、北側の群生地を確認しよう」
キリトが頷き、三人は進路を変えた。ダイヤはコペルの横顔を盗み見る。彼は笑顔を崩さず、時折ダイヤに話を振ってくる。始まりの街から来たばかりだと聞けば、道中のことを尋ねた。戦闘の後には、曲刀に慣れているのかと聞いた。どれも自然な会話だった。
この人が、キリトを陥れるのか。
何度も見た物語の記憶が、頭の中に浮かぶ。だが、目の前の姿と結びつけることができない。ダイヤは警戒を解かないまま、しかし疑っていることを悟られないように、短く返事をした。
北側の群生地に着くと、赤いカーソルが複数表示された。普通のネペントではない。太い根を地面に張り、黒ずんだ果実をぶら下げた個体が二体。少し奥には、花弁を閉じたネペントが見えた。花付きかどうかは、距離がありすぎて分からない。
「実付きが二体か。花付きもいるかもしれない」
キリトが剣を抜く。
「まずは一体ずつ引き離そう。三人なら、慎重にやればいける」
「待って」
ダイヤは、コペルが腰の短剣に手を伸ばすのを見て、強く声をかけた。
「ハイディングは使うな」
コペルの動きが止まる。キリトもダイヤを振り返った。
「ダイヤ、どうしてそのスキルを?」
「いや……こういう敵には効かない。少なくとも、使わない方がいい」
「どうして分かるんだ?」
キリトの疑問に、ダイヤは答えられなかった。理由を言えば、自分が物語を知っていると打ち明けることになる。そんなことをすれば、今までの関係が変わってしまう気がした。
「勘だよ。さっきのネペントも、ベータと違う動きをしたんだろ。こいつらにも何があるか分からない」
コペルはダイヤを見つめていた。先ほどまでの柔らかい表情が、ほんの少しだけ薄れる。
「ありがとう。でも、ハイディングなら大丈夫だよ。モンスターの視線を切るには有効だし、俺はスキル熟練度も上げてる」
「だから駄目だって。特にあの実付きには――」
「ダイヤ、コペルも自信があるんだ。本人が大丈夫だと言うなら、無理に止めるのも違うだろ」
キリトがそう言った。彼はコペルを信じているというより、仲間の判断を尊重しようとしているようだった。ダイヤは唇を噛む。もっとはっきり説明できれば、止められるかもしれない。けれど、何も知らないふりをしていた自分が、いまさら根拠のない警告を繰り返しても、説得力はない。
「……せめて、俺たちから離れるな」
「分かった。危なくなったら戻るよ」
コペルは穏やかに答えた。キリトは短く指示を出し、果付きの一体を誘い出すため、三人で少しずつ位置を変えた。ネペントの根が動き、黒い実が鈍く光る。敵がこちらを認識した瞬間、太い蔓が地面を這って伸びてきた。
「来るぞ!」
キリトが前へ出る。剣で蔓を受け止め、軌道を横へ逸らす。ダイヤは右側から回り込んで通常攻撃を当てた。コペルも反対側から短剣を振るい、敵の根元を狙う。三人の連携は悪くなかった。実付きのHPバーが少しずつ削れていく。
だが、奥にいたもう一体も動き出した。黒い実が光り、種を射出する構えに入る。
「下がれ!」
キリトの声に、ダイヤとコペルは同時に距離を取った。種が木々の間を飛び、地面へ突き刺さる。ダイヤはキリトの位置を確かめ、彼が無事なのを見て息を吐いた。コペルは、少し離れた茂みの向こうに立っていた。
「コペル、こっちだ!」
「了解!」
すぐに駆け出す。無策で行けるほどこの世界は甘くないことを俺は自覚していた。どうしたものかと考えているとキリトが話し出す。
「まずは一体を確実に対処した方がいい。俺とコペルで討伐。ダイヤは別の一体を監視、こちらに近づけさせないでくれ」
「…うん。了解」
「わかったよ。でも僕が見張りの方がいいんじゃないか?即席パーティよりも君たちの方が連携できるだろ。」
「最もな意見だが、コペルお前もベータテスターだろ?」
「…まぁね、」
「ならニュービーを守るのが俺たちの役目だ」
「そう言われちゃ仕方ないね」
この時俺は黙ってその流れを見ていた。やっぱり俺が見ていたアニメのコペルと今ここにいるコペルは別なのだろう。切り替えて集中しなければと思い目を瞑る。
「準備はいいか?」
「ああ、何時でも」
「僕も行けるよ。」
「なら討伐開始だ!」
キリトが駆け出した。コペルも敵の正面から注意を引きつけようとしたが、実付きの蔓が広く地面を薙ぐ。
俺はもう一体の実付きがキリトたちの方にちょっかいをかけないように誘導していく。
「こっちだこの野郎!」
「コペル、スイッチ!…ダイヤ!あまり無理をするなよ!」
「わかってるって!」
順調だった。ただこの世界は甘くはなかった。
いきなり行動パターンが変化したのである。体の触手をムチのようにしならせた範囲攻撃に加え、なんとジャンプ攻撃で地面を揺らし体勢を崩させるという悪辣な行動に出た。
「なっ!」
「おい!コペル大丈夫か!?」
「コペルさん!しまった!」
コペルはすぐに起き上がろうとした。しかし間に合わない。スっと体が透明になっていく。ハイディングでヘイトをやり過ごそうとしたのであろう。コペルとしても咄嗟の判断であった。しかし、もう一体のネペントがハイディングに反応し、太い蔓を彼へ伸ばした。
「ぐぁっ!」
「コペル!」
キリトが間に割って入り、蔓を剣で弾く。ダイヤも駆け寄り、コペルの腕を掴んだ。
「走れ! ここから離れるんだ!」
「ごめん、俺が――」
「謝るのは後だ!」
三人は森の外側へ走った。キリトが最後尾で敵の攻撃を防ぎ、ダイヤはコペルを引っ張る。だが、コペルのHPバーはすでに大きく減っていた。さっきの攻撃で転倒した時に、回復アイテムを使う余裕を失っていたらしい。
実付きの実が、再び光る。
「まだ来る!」
ダイヤが叫んだ。キリトが振り返り、コペルをかばうように剣を構える。種が一斉に飛び出した。キリトは二本を弾いたが、一本が地面で跳ね、コペルの脇腹をかすめた。
HPバーが、危険域を示す赤に変わる。
「コペルさん!」
「大丈夫……まだ動ける」
声は震えていた。それでも彼は立ち上がり、短剣を握り直す。逃げれば助かる可能性はある。だが、彼の足は震え、次の一歩が出ない。ダイヤは手を伸ばした。
「こっちだ! キリトの後ろへ!」
コペルはダイヤを見た。申し訳なさそうな顔だった。あの優しい表情が、またそこにあった。
「ごめん、ダイヤ。君はちゃんと止めてくれたのに」
「いいから、早く!」
「……そうだね」
コペルは一歩踏み出した。その足元へ、地中から根が伸びる。彼は反応できなかった。太い蔓が腰に絡み、身体を引き倒す。キリトが駆け寄ろうとするが、実付きの攻撃が間に入った。ダイヤも走った。近づけば届く。その距離に見えた。
しかし、根はコペルを地面へ打ちつけた。HPバーが一気に消える。
「コペルさん!」
ダイヤの声とほぼ同時に、少年の身体が光の破片へ変わった。
音はなかった。
さっきまでそこにいた人間が、細かなポリゴン片となって散り、森の空気へ消えていく。短剣も、装備も、何も残らなかった。そこにはただ、踏み荒らされた草と、敵の赤いカーソルだけが残っている。
ダイヤは足を止めた。手を伸ばしたまま、何も掴めずにいる。頭の中には、何度も見た場面の記憶があった。知っていた展開。知っていたはずの結末。けれど、画面越しに見た時とは何もかもが違った。
自分が止めた。コペルが聞かなかった。だから死んだ。
それだけのことなのに、胸の奥が冷たくなる。彼が親切に渡してくれた水のことや、疲れていないかと尋ねた声が、遅れて頭に浮かんできた。
「ダイヤ!」
キリトが呼ぶ。敵の蔓がこちらへ向かっていた。ダイヤは動かなかった。キリトが彼の腕を掴み、強く引き寄せる。蔓が目の前を薙ぎ、木の幹にぶつかった。
「今は下がるぞ!」
その声で、ようやくダイヤは我に返った。キリトに引かれるまま森の奥から離れ、敵の追跡が止まる場所まで退いた。キリトは何度も後ろを確認し、ダイヤがついてきているか確かめた。ダイヤは返事をせず、ただ彼の背中を追った。
やがて二人は、ネペントの反応が消える場所まで戻った。キリトは剣を下ろし、ダイヤの顔を覗き込む。
「怪我は?」
「……ない」
「本当に?」
「HPは減ってない」
「そうか」
キリトはそれ以上問い詰めなかった。ダイヤは森の方を振り返る。コペルが消えた場所は、木々に隠れて見えない。
大好きだったSAOの世界に、自分が入れた。そう思って、どこか浮かれていたのかもしれない。原作を何度も見て、物語の流れを知っている。登場人物の行動も、クエストの仕組みも、ある程度は分かっている。だから、自分ならうまく動ける。そう考えていたのかもしれない。
けれど、コペルは画面の中のキャラクターではなかった。
さっきまで目の前で話し、気遣い、笑っていた人間だった。警告を聞かなかったのも、間違えたのも、そして死んだのも、物語の都合ではない。
ここは現実だ。
「……キリト」
「なんだ?」
「……何でもない」
言葉にできなかった。キリトは少しだけ眉を寄せたが、無理に話そうとはしなかった。
「今は戻ろう。ここにいても、何もできない」
「でも、クエストが」
「今日は一度戻る。コペルのこともある。ここで焦って動いたら、次は俺たちが危ない」
キリトの声は落ち着いていた。けれど、剣を握る手には力がこもっている。ダイヤは頷き、彼の隣へ並んだ。
森を出るまで、キリトは何度もダイヤの位置を確かめた。ダイヤはそれに気づいていたが、今度は何も言わなかった。キリトが歩調を緩めるたび、自然と隣に並ぶ。彼の背中が、今はひどく頼もしく見えた。
村の灯りが見えた頃、ダイヤはようやく曲刀の柄から手を離した。森の中で握りしめていた手のひらは、汗ばんでいるような気がした。ここが仮想世界で、身体はシステムに守られている。そう理解しているつもりだった。
それでも、コペルが消えた瞬間の光景は、記憶から消えそうになかった。