ホルンカの村の灯りが近づいても、ダイヤの足取りは重いままだった。隣を歩くキリトは、無理に話しかけてこない。ただ、少し歩くたびにダイヤの様子を確かめるように視線を向けていた。森の中で何度も後ろを振り返っていたのと同じだ。
「……なあ、キリト」
「なんだ?」
「さっきのこと、俺のせいかもしれない」
キリトはすぐには答えなかった。ダイヤも、何をどう説明すればいいのか分からず、言葉を探す。
「俺がもう一体のネペントを誘導してた。あいつがキリトたちの方へ来ないように、こっちへ引きつけるつもりだったんだ。でも、途中で動きが変わって……」
「こっちへ突っ込んできた」
「ああ。あれがなければ、コペルも――」
「ダイヤ」
キリトの声が、静かに遮った。
「お前は、あいつをこっちへ向かわせないようにしていた。あの動きは俺にも読めなかった。あれをお前のせいだとは思わない」
「でも、俺があっちを見てたのは確かだ」
「それは役割分担だ。俺がそう指示した。敵の行動が変わったのは、その後だ」
キリトの言葉は落ち着いていた。それでも、剣を握る手には力がこもっている。彼もコペルの死を受け止めきれているわけではないのだろう。ダイヤはうつむき、握った拳を見た。
「……あのとき、もっと早く気づいてたら」
「そう思うのは分かる。でも、今は村へ戻ろう。森の中で立ち止まっても、何も変わらない」
ダイヤは小さく頷いた。村の門をくぐると、人の声や店の明かりが夜の気配を押し返していた。広場ではプレイヤーたちが食事を取り、露店の前では装備品の値段を交渉している。森で人がひとり消えたことなど、ここにいる誰も知らないのだろう。
「クエストは、明日に回そう」
キリトが言った。
「まだ時間はあるんじゃないか?」
「今日はもう暗い。焦って進めば、さっきみたいに判断が遅れるかもしれない」
「……そうだな」
「コペルのこともある。今日は休んで、頭を冷やそう」
ダイヤは反論しなかった。体力は残っている。HPも十分にある。けれど、気持ちが追いついていなかった。あの場面を見た直後に、また森へ戻って戦えるかと聞かれれば、答えは出なかった。
二人は宿屋へ向かった。キリトが部屋を二つ取ろうとすると、ダイヤは首を横へ振る。
「別に同じ部屋でいいよ。宿代も浮くし」
「……いいのか?」
「何でそんな意外そうなんだよ。戦場じゃないんだし、寝るだけだろ」
「そうだな。じゃあ、二人部屋にする」
キリトは受付のNPCに手続きを済ませ、二人で二階へ上がった。部屋は簡素で、ベッドが二つと小さなテーブルが置かれている。窓からはホルンカの広場が見え、外を行き交うプレイヤーの姿が小さく動いていた。
ダイヤは窓際に立ち、しばらく外を眺めた。頭上に名前とHPバーを浮かべた人々は、みんなこの世界から出られない。誰かのHPがゼロになれば、コペルのように消える。画面越しに見ていた時には知っていたはずのことが、今はひどく現実的な重さを持っていた。
「ダイヤ。食事を取ろう。何か食べた方がいい」
「……ああ」
キリトはテーブルにパンとスープを並べた。食事を始めても、ダイヤはほとんど味を感じなかった。スプーンを動かしているだけで、考えは何度も森へ戻る。キリトは何も言わず、自分の食事を進めた。ときどきダイヤの皿に目をやるが、急かすことはなかった。
「キリトは、怖くないのか?」
「怖いよ」
即答だった。
「でも、怖いからって何もしなければ、次にどうすればいいかも分からない。敵の動きが変わったなら、次はそれを前提に動く。今できるのは、それくらいだ」
「そうだな」
「今日のことは、お前ひとりのせいじゃない。俺が指示を出した。あの攻撃が来るまでは、あれでうまくいってた」
「……分かってる」
「分かってる顔には見えないけどな」
「そりゃ、簡単には納得できないよ」
キリトは少しだけ考え、パンを置いた。
「納得しなくていい。次に同じことが起きないよう、覚えておけばいい」
「次、か」
「次は俺が先に気づくかもしれない。お前が気づくかもしれない。そうやって、少しずつ生き残るしかない」
ダイヤは返事をせず、冷めかけたスープを口に運んだ。キリトは無理に励まそうとはしなかった。ただ、自分の食事を終えてからも席を立たず、ダイヤが食べ終わるのを待っていた。
兄がいたら、こんな感じなのだろうか。
ふと、そんな考えが浮かんだ。ダイヤはすぐにスープへ目を戻した。
「明日は、もう一度森へ行くんだな」
「ああ。胚珠を取って、クエストを終わらせる」
「コペルのことがあったのに?」
「だからこそ、焦らずにやる。あいつが死んだからって、俺たちまで無茶をしたら意味がない」
「……そうだな」
その夜、ダイヤはなかなか眠れなかった。横になって目を閉じると、コペルが消えた瞬間の光が浮かぶ。けれど、起き上がる気にもなれず、しばらくベッドの上でじっとしていた。
向かいのベッドでは、キリトが寝息を立てている。剣は手の届くところに置かれていた。いつでも起きられるようにしているのだろう。ダイヤはその姿を見て、少しだけ呼吸を整えた。
翌朝、二人は村を出た。森へ向かう道で、キリトは前日よりも慎重に周囲を確認している。ダイヤも、赤いカーソルだけでなく、地面の根や木々の揺れに注意を払った。二人の間に言葉は少なかったが、歩く速度は自然と揃っていた。
「昨日の場所をもう一度見てから、周辺を広げよう」
「分かった」
「敵が複数いたら、いったん距離を取る。無理に戦わない」
「了解」
「それと、俺から離れるなよ」
「はいはい。遠足の続きか?」
「そう思ってくれていい」
キリトは真面目な顔で答えた。ダイヤは苦笑し、曲刀の柄を確かめた。昨日、キリトの言葉を軽く受け流した自分を思い出す。今は、その過保護さが少し心強かった。
北側の群生地へ近づくと、周辺にモンスターの反応が増えた。昨日の二体はもういなかったが、地面には太い根が這った跡が残っている。キリトはしゃがみ込み、傷のついた土を確かめた。
「昨日、戦った場所だな」
「敵はもういないみたいだ」
「ああ。けど、近くに別の個体がいるかもしれない。気をつけよう」
二人は群生地を大きく迂回し、木々の奥へ進んだ。しばらく歩いたところで、キリトが手を上げる。前方の茂みの間に、赤いカーソルが一つ見えた。近づくと、花弁のような頭部を持つネペントが地面から根を起こしている。花付きのリトルネペントだった。
「見つけたな」
「昨日、あれだけ探したのに」
「だからって油断するな。周りに他のカーソルは?」
ダイヤは視界を巡らせる。今のところ、敵の反応は一体だけだった。さらに距離を置き、背後と左右を確認する。
「近くにはいない。少なくとも、見える範囲では」
「よし。俺が正面から引きつける。ダイヤは右側から攻めてくれ。昨日みたいに、敵の動きが変わったらすぐ下がる」
「分かった」
キリトが剣を抜き、ゆっくりと前へ出た。花付きのネペントが花弁を開き、蔓を伸ばす。キリトは攻撃を受け流し、横へ移動する。ダイヤは合図を待ち、蔓が伸びきった瞬間に右側へ踏み込んだ。
曲刀が茎を斬る。敵のHPバーが減った。ダイヤはすぐに距離を取り、キリトが前へ出る隙を作る。敵の反撃は蔓を振り回すものだったが、昨日のように広範囲を薙ぐ動きも、地面を揺らす跳躍もない。
「今のところ、普通の攻撃だ!」
「分かった。だが、最後まで気を抜くな!」
二人は少しずつ攻撃を重ねた。花付きのHPが残りわずかになる。キリトが正面で敵の注意を引きつけ、ダイヤが最後の一撃を狙う。曲刀を握る手に力を込め、踏み込む。刃が根元を捉え、ネペントは短く震えたあと、光の粒となって消えた。
地面に、小さな光が二つ残っていた。
「胚珠か?」
キリトが確認する。ダイヤが片方を拾うと、クエストの進行表示が更新された。もう片方も回収すると、アイテム欄には胚珠が二つ並ぶ。
「二人分、取れたな」
「ああ。昨日の分も合わせれば、今日はちゃんと必要なものを持ち帰れる」
ダイヤは胚珠をアイテム欄に収めた。胸の奥に残っていた緊張は、完全には消えない。だが、キリトの横で戦い、二人分の目的を果たせた。その事実が、少しだけ足元を確かなものにしてくれた。
「戻ろう。薬師に報告だ」
「ああ」
村へ戻る道すがら、キリトは昨日よりも頻繁にダイヤを見た。ダイヤはそれに気づいても、もう「過保護だ」とは言わなかった。キリトが歩幅を合わせてくる。その歩調に、ダイヤも合わせる。
薬屋に戻ると、薬師は胚珠を見て、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「よく持ち帰ってくれた。これで娘の薬が作れる。ありがとう」
クエスト完了の表示が浮かび、報酬として一振りの剣が渡された。細身の刀身に、控えめな装飾が施されている。キリトは剣を受け取り、手の中で重さを確かめた。
「アニールブレード、か」
「キリトの武器にちょうどよさそうだな」
「ああ。使わせてもらうよ」
キリトが装備を切り替えると、剣は彼の腰に収まった。ダイヤは自分の曲刀を見下ろす。店で選んだときには、これが一番しっくりきた。いつかもっと自分に合う武器が見つかるかもしれないが、今はこの剣で進むしかない。
もう一つの胚珠は、クエストの必要分を超えた余剰アイテムとして残った。店で売るか、別のプレイヤーに渡すかは、あとで考えることにした。
「今日はこのあとどうする?」
キリトが尋ねた。
「少し、装備を整えたい。次はもっと敵の動きを見られるようにする」
「分かった。俺もこの剣に慣れておきたい。しばらく一緒に行動するか?」
「いいのか?」
「お前がよければな」
「じゃあ、頼む。キリトについていけば大丈夫そうだし」
言ってから、ダイヤは少しだけ気恥ずかしくなった。キリトは一瞬目を丸くしたあと、わずかに笑う。
「過信はするなよ。俺だって間違える」
「分かってる。けど、今は頼りにしてる」
「……そうか」
それからの日々は、ひとつひとつが似ているようで、少しずつ違っていた。
二人はホルンカを拠点にしながら、近くの村や草原を巡った。キリトは新しく手に入れたアニールブレードを使い込み、ダイヤは曲刀の扱いを覚えていく。キリトは片手剣の基本を教え、ダイヤは自分の曲刀で試した動きを見せた。武器の種類は違っても、敵の攻撃を見てから動くこと、無理にスキルを使わないこと、戦闘後にHPと装備の耐久度を確かめることは共通していた。
森では一度、複数のネペントに囲まれかけた。キリトが退路を作り、ダイヤが追いすがる個体を引きつける。あの時、ダイヤは敵を一体だけ引き離すつもりで動き、別の個体まで反応させてしまった。ネペントの群れが進路を変えた瞬間、身体が強張る。けれど、キリトがすぐに声をかけた。
「ダイヤ、前を見ろ! 俺がこっちを止める!」
「ああ!」
キリトの指示に合わせて退き、二人は無事に森を抜けた。その後、キリトは失敗を責めず、二人でどこを見落としたのか確かめた。ダイヤも、言い訳をせずに自分の判断を振り返った。少しずつ、コペルの死を思い出して足が止まる時間は短くなっていった。
それでも、敵の動きが予想と違った時には、胸の奥が冷えることがある。キリトはそれに気づいているようだった。戦闘の前には必ず役割を確認し、ダイヤが危険な位置にいれば、すぐに退くよう声をかけた。
「お前、俺を見すぎじゃないか?」
「そうか?」
「戦闘中も、街を歩いてる時も。そんなに心配しなくても逃げないって」
「逃げないのが心配なんだよ」
「どういう意味だよ」
「危ないと思ったら、ちゃんと下がれって意味」
キリトは真面目な顔で言った。ダイヤは返す言葉を探したが、結局、肩をすくめるだけにした。
「分かったよ。気をつける」
「頼む」
キリトは短く答え、前を向いた。その横顔には、同じ年頃の仲間という以上に、どこか年上の兄のような雰囲気があった。本人は自覚していないのかもしれない。ダイヤも、それをわざわざ言葉にする気はなかった。
ある日、二人が装備を見に村の露店を回っていると、通りすがりのプレイヤーがダイヤを何度も振り返った。視線に気づいたダイヤが怪訝そうにすると、キリトがそっと近づいてくる。
「ダイヤ。これから人が多い場所では、せめてフードを被った方がいい」
「なんでだよ。そんなに変な格好してるか?」
「服装の話じゃない。顔を隠せってことだ」
「顔を? 何で?」
キリトは答えに迷うように、少しだけ視線を逸らした。
「目立つし、何かあってからじゃ遅い。ここでは、知らない相手に不用意に目をつけられない方がいい」
「それは分かるけど……」
「頼む。少なくとも、街の外へ出る時と、人が多い場所ではそうしてくれ」
キリトの口調は、いつもより強かった。ダイヤは理由が分からないまま、自分の服の襟元を見下ろす。別に肌が見えているわけでもない。装備も、始まりの街で買った普通のものだ。自分が気づいていないだけで、何かおかしいのだろうか。
「分かったよ。そこまで言うなら、被る」
「ありがとう」
キリトはそれ以上説明しなかった。ダイヤは首を傾げながら、店で簡素なフード付きの外套を買った。被ってみると視界が少し狭くなったが、歩くのに困るほどではない。キリトはそれを確認し、ようやく安心したように息をついた。
「そんなに気になるか?」
「……弟がいたら、こんな感じなのかもな」
「は?」
「いや。何でもない」
キリトは誤魔化すように歩き出した。ダイヤは聞き返しかけて、結局やめた。彼の背中を追いながら、フードの端を指でつまむ。理由はよく分からない。それでも、キリトが自分のことを気にかけてくれているのは伝わっていた。
その一ヶ月のあいだに、始まりの街や各地の村では、第一層の攻略に関する情報が少しずつ集まっていった。迷宮区の構造、ボス部屋までの道、途中に出現するモンスター。プレイヤーたちは少しずつ力をつけ、攻略に参加する者も増えていく。安全な場所で暮らすプレイヤーと、危険を承知で先へ進むプレイヤー。その差は、日が経つごとに大きくなっていた。
そして、第一層のボス部屋が発見されたという情報が広まった。
会議が開かれると聞き、キリトとダイヤは主街区トールバーナへ向かった。ホルンカからの道中、キリトは何度か足を止めて周囲を確かめた。ダイヤはフードを被り、キリトの横を歩いている。前なら「そこまでしなくてもいい」と笑っていただろう。今は、その注意を受け入れていた。
「ここが会議の場所か」
トールバーナの広場には、すでに大勢のプレイヤーが集まっていた。装備も年齢もばらばらな人々が、広場の中央を囲むように立っている。表情には期待と緊張が混ざっていた。これまでのクエストとは違う。第一層のボスを倒すための、命懸けの話し合いだ。
「人が多いな」
「それだけ、みんな先へ進みたいんだろ」
キリトは広場の中央へ目を向けた。装備の質も、表情もさまざまなプレイヤーの中に、見覚えのある顔がいくつかある。ダイヤの胸がかすかにざわついた。アニメで見た光景が、現実の風景として目の前に広がっている。
広場の端には、フードを深く被った細身のプレイヤーがいた。顔は見えない。それでも、その立ち姿にダイヤは妙な既視感を覚えた。
キリトもまた、そちらへ視線を向ける。
「知り合いか?」
「いや。たぶん、違う」
ダイヤはそう答えた。フードのプレイヤーは、こちらを見ているようにも見えたが、すぐに人の流れに紛れてしまう。
「そろそろ始まるみたいだ」
キリトの声に、ダイヤは前を向いた。広場の中央で、ひとりのプレイヤーが壇上へ上がろうとしている。第一層の攻略会議が、始まろうとしていた。