※この作品はR-18です。

変わりすぎた世界で   作:案院運

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第5話『1ヶ月の歩み』

 

 ホルンカの村の灯りが近づいても、ダイヤの足取りは重いままだった。隣を歩くキリトは、無理に話しかけてこない。ただ、少し歩くたびにダイヤの様子を確かめるように視線を向けていた。森の中で何度も後ろを振り返っていたのと同じだ。

 

「……なあ、キリト」

 

「なんだ?」

 

「さっきのこと、俺のせいかもしれない」

 

 キリトはすぐには答えなかった。ダイヤも、何をどう説明すればいいのか分からず、言葉を探す。

 

「俺がもう一体のネペントを誘導してた。あいつがキリトたちの方へ来ないように、こっちへ引きつけるつもりだったんだ。でも、途中で動きが変わって……」

 

「こっちへ突っ込んできた」

 

「ああ。あれがなければ、コペルも――」

 

「ダイヤ」

 

 キリトの声が、静かに遮った。

 

「お前は、あいつをこっちへ向かわせないようにしていた。あの動きは俺にも読めなかった。あれをお前のせいだとは思わない」

 

「でも、俺があっちを見てたのは確かだ」

 

「それは役割分担だ。俺がそう指示した。敵の行動が変わったのは、その後だ」

 

 キリトの言葉は落ち着いていた。それでも、剣を握る手には力がこもっている。彼もコペルの死を受け止めきれているわけではないのだろう。ダイヤはうつむき、握った拳を見た。

 

「……あのとき、もっと早く気づいてたら」

 

「そう思うのは分かる。でも、今は村へ戻ろう。森の中で立ち止まっても、何も変わらない」

 

 ダイヤは小さく頷いた。村の門をくぐると、人の声や店の明かりが夜の気配を押し返していた。広場ではプレイヤーたちが食事を取り、露店の前では装備品の値段を交渉している。森で人がひとり消えたことなど、ここにいる誰も知らないのだろう。

 

「クエストは、明日に回そう」

 

 キリトが言った。

 

「まだ時間はあるんじゃないか?」

 

「今日はもう暗い。焦って進めば、さっきみたいに判断が遅れるかもしれない」

 

「……そうだな」

 

「コペルのこともある。今日は休んで、頭を冷やそう」

 

 ダイヤは反論しなかった。体力は残っている。HPも十分にある。けれど、気持ちが追いついていなかった。あの場面を見た直後に、また森へ戻って戦えるかと聞かれれば、答えは出なかった。

 

 二人は宿屋へ向かった。キリトが部屋を二つ取ろうとすると、ダイヤは首を横へ振る。

 

「別に同じ部屋でいいよ。宿代も浮くし」

 

「……いいのか?」

 

「何でそんな意外そうなんだよ。戦場じゃないんだし、寝るだけだろ」

 

「そうだな。じゃあ、二人部屋にする」

 

 キリトは受付のNPCに手続きを済ませ、二人で二階へ上がった。部屋は簡素で、ベッドが二つと小さなテーブルが置かれている。窓からはホルンカの広場が見え、外を行き交うプレイヤーの姿が小さく動いていた。

 

 ダイヤは窓際に立ち、しばらく外を眺めた。頭上に名前とHPバーを浮かべた人々は、みんなこの世界から出られない。誰かのHPがゼロになれば、コペルのように消える。画面越しに見ていた時には知っていたはずのことが、今はひどく現実的な重さを持っていた。

 

「ダイヤ。食事を取ろう。何か食べた方がいい」

 

「……ああ」

 

 キリトはテーブルにパンとスープを並べた。食事を始めても、ダイヤはほとんど味を感じなかった。スプーンを動かしているだけで、考えは何度も森へ戻る。キリトは何も言わず、自分の食事を進めた。ときどきダイヤの皿に目をやるが、急かすことはなかった。

 

「キリトは、怖くないのか?」

 

「怖いよ」

 

 即答だった。

 

「でも、怖いからって何もしなければ、次にどうすればいいかも分からない。敵の動きが変わったなら、次はそれを前提に動く。今できるのは、それくらいだ」

 

「そうだな」

 

「今日のことは、お前ひとりのせいじゃない。俺が指示を出した。あの攻撃が来るまでは、あれでうまくいってた」

 

「……分かってる」

 

「分かってる顔には見えないけどな」

 

「そりゃ、簡単には納得できないよ」

 

 キリトは少しだけ考え、パンを置いた。

 

「納得しなくていい。次に同じことが起きないよう、覚えておけばいい」

 

「次、か」

 

「次は俺が先に気づくかもしれない。お前が気づくかもしれない。そうやって、少しずつ生き残るしかない」

 

 ダイヤは返事をせず、冷めかけたスープを口に運んだ。キリトは無理に励まそうとはしなかった。ただ、自分の食事を終えてからも席を立たず、ダイヤが食べ終わるのを待っていた。

 

 兄がいたら、こんな感じなのだろうか。

 

 ふと、そんな考えが浮かんだ。ダイヤはすぐにスープへ目を戻した。

 

「明日は、もう一度森へ行くんだな」

 

「ああ。胚珠を取って、クエストを終わらせる」

 

「コペルのことがあったのに?」

 

「だからこそ、焦らずにやる。あいつが死んだからって、俺たちまで無茶をしたら意味がない」

 

「……そうだな」

 

 その夜、ダイヤはなかなか眠れなかった。横になって目を閉じると、コペルが消えた瞬間の光が浮かぶ。けれど、起き上がる気にもなれず、しばらくベッドの上でじっとしていた。

 

 向かいのベッドでは、キリトが寝息を立てている。剣は手の届くところに置かれていた。いつでも起きられるようにしているのだろう。ダイヤはその姿を見て、少しだけ呼吸を整えた。

 

 翌朝、二人は村を出た。森へ向かう道で、キリトは前日よりも慎重に周囲を確認している。ダイヤも、赤いカーソルだけでなく、地面の根や木々の揺れに注意を払った。二人の間に言葉は少なかったが、歩く速度は自然と揃っていた。

 

「昨日の場所をもう一度見てから、周辺を広げよう」

 

「分かった」

 

「敵が複数いたら、いったん距離を取る。無理に戦わない」

 

「了解」

 

「それと、俺から離れるなよ」

 

「はいはい。遠足の続きか?」

 

「そう思ってくれていい」

 

 キリトは真面目な顔で答えた。ダイヤは苦笑し、曲刀の柄を確かめた。昨日、キリトの言葉を軽く受け流した自分を思い出す。今は、その過保護さが少し心強かった。

 

 北側の群生地へ近づくと、周辺にモンスターの反応が増えた。昨日の二体はもういなかったが、地面には太い根が這った跡が残っている。キリトはしゃがみ込み、傷のついた土を確かめた。

 

「昨日、戦った場所だな」

 

「敵はもういないみたいだ」

 

「ああ。けど、近くに別の個体がいるかもしれない。気をつけよう」

 

 二人は群生地を大きく迂回し、木々の奥へ進んだ。しばらく歩いたところで、キリトが手を上げる。前方の茂みの間に、赤いカーソルが一つ見えた。近づくと、花弁のような頭部を持つネペントが地面から根を起こしている。花付きのリトルネペントだった。

 

「見つけたな」

 

「昨日、あれだけ探したのに」

 

「だからって油断するな。周りに他のカーソルは?」

 

 ダイヤは視界を巡らせる。今のところ、敵の反応は一体だけだった。さらに距離を置き、背後と左右を確認する。

 

「近くにはいない。少なくとも、見える範囲では」

 

「よし。俺が正面から引きつける。ダイヤは右側から攻めてくれ。昨日みたいに、敵の動きが変わったらすぐ下がる」

 

「分かった」

 

 キリトが剣を抜き、ゆっくりと前へ出た。花付きのネペントが花弁を開き、蔓を伸ばす。キリトは攻撃を受け流し、横へ移動する。ダイヤは合図を待ち、蔓が伸びきった瞬間に右側へ踏み込んだ。

 

 曲刀が茎を斬る。敵のHPバーが減った。ダイヤはすぐに距離を取り、キリトが前へ出る隙を作る。敵の反撃は蔓を振り回すものだったが、昨日のように広範囲を薙ぐ動きも、地面を揺らす跳躍もない。

 

「今のところ、普通の攻撃だ!」

 

「分かった。だが、最後まで気を抜くな!」

 

 二人は少しずつ攻撃を重ねた。花付きのHPが残りわずかになる。キリトが正面で敵の注意を引きつけ、ダイヤが最後の一撃を狙う。曲刀を握る手に力を込め、踏み込む。刃が根元を捉え、ネペントは短く震えたあと、光の粒となって消えた。

 

 地面に、小さな光が二つ残っていた。

 

「胚珠か?」

 

 キリトが確認する。ダイヤが片方を拾うと、クエストの進行表示が更新された。もう片方も回収すると、アイテム欄には胚珠が二つ並ぶ。

 

「二人分、取れたな」

 

「ああ。昨日の分も合わせれば、今日はちゃんと必要なものを持ち帰れる」

 

 ダイヤは胚珠をアイテム欄に収めた。胸の奥に残っていた緊張は、完全には消えない。だが、キリトの横で戦い、二人分の目的を果たせた。その事実が、少しだけ足元を確かなものにしてくれた。

 

「戻ろう。薬師に報告だ」

 

「ああ」

 

 村へ戻る道すがら、キリトは昨日よりも頻繁にダイヤを見た。ダイヤはそれに気づいても、もう「過保護だ」とは言わなかった。キリトが歩幅を合わせてくる。その歩調に、ダイヤも合わせる。

 

 薬屋に戻ると、薬師は胚珠を見て、ほっとしたように肩の力を抜いた。

 

「よく持ち帰ってくれた。これで娘の薬が作れる。ありがとう」

 

 クエスト完了の表示が浮かび、報酬として一振りの剣が渡された。細身の刀身に、控えめな装飾が施されている。キリトは剣を受け取り、手の中で重さを確かめた。

 

「アニールブレード、か」

 

「キリトの武器にちょうどよさそうだな」

 

「ああ。使わせてもらうよ」

 

 キリトが装備を切り替えると、剣は彼の腰に収まった。ダイヤは自分の曲刀を見下ろす。店で選んだときには、これが一番しっくりきた。いつかもっと自分に合う武器が見つかるかもしれないが、今はこの剣で進むしかない。

 

 もう一つの胚珠は、クエストの必要分を超えた余剰アイテムとして残った。店で売るか、別のプレイヤーに渡すかは、あとで考えることにした。

 

「今日はこのあとどうする?」

 

 キリトが尋ねた。

 

「少し、装備を整えたい。次はもっと敵の動きを見られるようにする」

 

「分かった。俺もこの剣に慣れておきたい。しばらく一緒に行動するか?」

 

「いいのか?」

 

「お前がよければな」

 

「じゃあ、頼む。キリトについていけば大丈夫そうだし」

 

 言ってから、ダイヤは少しだけ気恥ずかしくなった。キリトは一瞬目を丸くしたあと、わずかに笑う。

 

「過信はするなよ。俺だって間違える」

 

「分かってる。けど、今は頼りにしてる」

 

「……そうか」

 

 それからの日々は、ひとつひとつが似ているようで、少しずつ違っていた。

 

 二人はホルンカを拠点にしながら、近くの村や草原を巡った。キリトは新しく手に入れたアニールブレードを使い込み、ダイヤは曲刀の扱いを覚えていく。キリトは片手剣の基本を教え、ダイヤは自分の曲刀で試した動きを見せた。武器の種類は違っても、敵の攻撃を見てから動くこと、無理にスキルを使わないこと、戦闘後にHPと装備の耐久度を確かめることは共通していた。

 

 森では一度、複数のネペントに囲まれかけた。キリトが退路を作り、ダイヤが追いすがる個体を引きつける。あの時、ダイヤは敵を一体だけ引き離すつもりで動き、別の個体まで反応させてしまった。ネペントの群れが進路を変えた瞬間、身体が強張る。けれど、キリトがすぐに声をかけた。

 

「ダイヤ、前を見ろ! 俺がこっちを止める!」

 

「ああ!」

 

 キリトの指示に合わせて退き、二人は無事に森を抜けた。その後、キリトは失敗を責めず、二人でどこを見落としたのか確かめた。ダイヤも、言い訳をせずに自分の判断を振り返った。少しずつ、コペルの死を思い出して足が止まる時間は短くなっていった。

 

 それでも、敵の動きが予想と違った時には、胸の奥が冷えることがある。キリトはそれに気づいているようだった。戦闘の前には必ず役割を確認し、ダイヤが危険な位置にいれば、すぐに退くよう声をかけた。

 

「お前、俺を見すぎじゃないか?」

 

「そうか?」

 

「戦闘中も、街を歩いてる時も。そんなに心配しなくても逃げないって」

 

「逃げないのが心配なんだよ」

 

「どういう意味だよ」

 

「危ないと思ったら、ちゃんと下がれって意味」

 

 キリトは真面目な顔で言った。ダイヤは返す言葉を探したが、結局、肩をすくめるだけにした。

 

「分かったよ。気をつける」

 

「頼む」

 

 キリトは短く答え、前を向いた。その横顔には、同じ年頃の仲間という以上に、どこか年上の兄のような雰囲気があった。本人は自覚していないのかもしれない。ダイヤも、それをわざわざ言葉にする気はなかった。

 

 ある日、二人が装備を見に村の露店を回っていると、通りすがりのプレイヤーがダイヤを何度も振り返った。視線に気づいたダイヤが怪訝そうにすると、キリトがそっと近づいてくる。

 

「ダイヤ。これから人が多い場所では、せめてフードを被った方がいい」

 

「なんでだよ。そんなに変な格好してるか?」

 

「服装の話じゃない。顔を隠せってことだ」

 

「顔を? 何で?」

 

 キリトは答えに迷うように、少しだけ視線を逸らした。

 

「目立つし、何かあってからじゃ遅い。ここでは、知らない相手に不用意に目をつけられない方がいい」

 

「それは分かるけど……」

 

「頼む。少なくとも、街の外へ出る時と、人が多い場所ではそうしてくれ」

 

 キリトの口調は、いつもより強かった。ダイヤは理由が分からないまま、自分の服の襟元を見下ろす。別に肌が見えているわけでもない。装備も、始まりの街で買った普通のものだ。自分が気づいていないだけで、何かおかしいのだろうか。

 

「分かったよ。そこまで言うなら、被る」

 

「ありがとう」

 

 キリトはそれ以上説明しなかった。ダイヤは首を傾げながら、店で簡素なフード付きの外套を買った。被ってみると視界が少し狭くなったが、歩くのに困るほどではない。キリトはそれを確認し、ようやく安心したように息をついた。

 

「そんなに気になるか?」

 

「……弟がいたら、こんな感じなのかもな」

 

「は?」

 

「いや。何でもない」

 

 キリトは誤魔化すように歩き出した。ダイヤは聞き返しかけて、結局やめた。彼の背中を追いながら、フードの端を指でつまむ。理由はよく分からない。それでも、キリトが自分のことを気にかけてくれているのは伝わっていた。

 

 その一ヶ月のあいだに、始まりの街や各地の村では、第一層の攻略に関する情報が少しずつ集まっていった。迷宮区の構造、ボス部屋までの道、途中に出現するモンスター。プレイヤーたちは少しずつ力をつけ、攻略に参加する者も増えていく。安全な場所で暮らすプレイヤーと、危険を承知で先へ進むプレイヤー。その差は、日が経つごとに大きくなっていた。

 

 そして、第一層のボス部屋が発見されたという情報が広まった。

 

 会議が開かれると聞き、キリトとダイヤは主街区トールバーナへ向かった。ホルンカからの道中、キリトは何度か足を止めて周囲を確かめた。ダイヤはフードを被り、キリトの横を歩いている。前なら「そこまでしなくてもいい」と笑っていただろう。今は、その注意を受け入れていた。

 

「ここが会議の場所か」

 

 トールバーナの広場には、すでに大勢のプレイヤーが集まっていた。装備も年齢もばらばらな人々が、広場の中央を囲むように立っている。表情には期待と緊張が混ざっていた。これまでのクエストとは違う。第一層のボスを倒すための、命懸けの話し合いだ。

 

「人が多いな」

 

「それだけ、みんな先へ進みたいんだろ」

 

 キリトは広場の中央へ目を向けた。装備の質も、表情もさまざまなプレイヤーの中に、見覚えのある顔がいくつかある。ダイヤの胸がかすかにざわついた。アニメで見た光景が、現実の風景として目の前に広がっている。

 

 広場の端には、フードを深く被った細身のプレイヤーがいた。顔は見えない。それでも、その立ち姿にダイヤは妙な既視感を覚えた。

 

 キリトもまた、そちらへ視線を向ける。

 

「知り合いか?」

 

「いや。たぶん、違う」

 

 ダイヤはそう答えた。フードのプレイヤーは、こちらを見ているようにも見えたが、すぐに人の流れに紛れてしまう。

 

「そろそろ始まるみたいだ」

 

 キリトの声に、ダイヤは前を向いた。広場の中央で、ひとりのプレイヤーが壇上へ上がろうとしている。第一層の攻略会議が、始まろうとしていた。

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