『おっ梅じゃ〜んどうした〜どうした〜もしかして男の僕に発情しちゃった〜』
誰もいない静まり返った生徒会室に、どこか人を食ったような高い声が甲高く響き渡る。
放課後の夕日が、大きな窓から斜めに差し込んでいた。橙色の光が部屋の半分を赤く染め上げ、空気中に漂う微細なホコリをキラキラと光らせている。
普段なら、ここで怒号が飛ぶか、ドタバタとした足音が響いているはずだった。
会長である古都吹寿子(ことぶき ひさこ)のどこかズレた号令や、陸奥こまろ(みちのく こまろ)の理不尽なまでのマイペースなワガママ、そして照井有栖(てるい ありす)のドスの利いた、だが世話焼きなツッコミ。
しかし、今日の生徒会室には、そのどれもない。
「……はぁ。言っとくけどな、尾鳥。お前がどんな格好してようが、俺が発情することなんて万に一つもねぇよ」
デスクの上に積み上がった書類の山から顔を上げ、水の江梅(みずのえ うめ)は心底呆れたような深いため息をついた。
こめかみを指で軽く揉み解しながら、目の前でひらひらと手を振っている中等部3年生——尾鳥たん(おとり たん)を睨みつける。
「なんだよその顔〜! 梅ってば照れ隠しちゃってさ〜。本当は男の僕にドキドキしちゃってるくせに〜!」
尾鳥はニシシと悪戯っぽく八重歯を覗かせると、デスクの端に腰を降ろし、身を乗り出してきた。
そして、いつものことではあるのだが——その装いが、致命的に“おかしい”。
制服のブレザーは羽織っているものの、前ボタンは全て全開。中のシャツに至っては胸元どころか腹部まで大胆にはだけており、華奢で薄い胸板と、その中央に鎮座するふたつのピンク色の突起(乳首)が隠す気もなく丸見えになっていた。
「おい……尾鳥。お前、毎回毎回思うんだが、なんでそんなに胸元開けてんだよ。というか、なんで服を着てるのに乳首だけピンポイントで露出してんだ? どういう構造なんだよその服は」
「え〜? だって僕、可愛いじゃん? 男の娘(の娘)としての魅力があふれ出ちゃってるからさ〜、こうやってサービスしてあげてんの! 梅みたいな冴えない男には刺激が強すぎた〜?」
「サービスじゃなくて公然わいせつだろ……。いいからボタンを閉めろ。目が腐る」
「え〜、減るもんじゃないんだし見なよ〜」と、尾鳥はわざとらしく自分の胸を両手で寄せるような仕草をしてみせる。男なので当然寄せる胸など存在しないのだが、その細い鎖骨と華奢な体つき、そして無駄に整った可愛らしい顔立ちのせいで、視覚的な情報量が極めて混乱を極めていた。
梅は頭を抱えた。
今日という日の不運を、改めて噛み締めざるを得ない。
朝、登校した時点で嫌な予感はしていたのだ。
まず、同じクラスの陸奥こまろが欠席していた。あいつが学校を休むなど、あんパンの新作発売日以外では滅多にない。気になって生徒会室に顔を出すと、照井有栖から連絡が入っており「熱が出た。今日は休む」とのこと。さらに極めつけは、完璧超人のはずの生徒会長・古都吹寿子までもが「季節の変わり目の風邪」でダウンしたという報告だった。
つまり、頼れる(?)先輩方は全員全滅。
「今日は野郎だけつまり僕らしかいないよ〜、あ、陸奥センパ〜イと同じクラスの梅なら察しついてたかな〜?w」
尾鳥がニヤニヤしながら、顔を覗き込んできた。
「……ああ、察してたよ。察してたからこそ、今日の生徒会作業は一人で静かに速攻で終わらせて帰ろうと思ってたんだよ。お前が来なければな」
「ひど〜い! 僕がせっかく、寂しがってる梅のために遊びに来てあげたのに〜!」
「頼んでねぇよ! 大体お前、中等部だろ! 放課後は中等部の校舎にいろよ!」
「だって〜、中等部の部屋にいてもつまんないんだもん。生徒会室に行けば、梅が一人で悲しそうに書類仕事してるかな〜って思ってさ!」
尾鳥は机から飛び降りると、トコトコと梅の椅子の後ろに回り込み、背もたれに顎を乗せて上目遣いで梅を見つめてきた。
(……くっ、腹立つが顔だけは無駄に可愛いな……)
梅は必死に理性を保ちつつ、視線を書類に戻そうとする。だが、背後から漂う甘い石鹸のような香り(中学生男子のくせに無駄にいい匂いがする)と、背中に押し当てられる華奢な体の感触、そして何よりはだけたシャツから覗く乳首の存在感が、視界の端でチラついて集中力を根こそぎ奪っていく。
「ねぇねぇ梅〜、本当は嬉しいんでしょ? 僕と2人っきりになれてさ〜」
「嬉しくない。むしろ胃が痛い」
「嘘だ〜! 心臓の音、早くなってない〜?」
尾鳥は悪ノリを加速させ、梅の首元に手を回してきた。細く柔らかい指先が、梅の首筋をくすぐるように撫で上げる。
「やめろって、尾鳥! 暑苦しい!」
「え〜、冷たいな〜。じゃあさじゃあさ、僕が書類仕事手伝ってあげよっか?」
「お前が手伝うとろくなことにならないからいい」
「失礼な! 僕はこれでも生徒会広報だよ!? 数字の計算くらいできるもん!」
そう言って、尾鳥は梅の手元にあった決算書類の束を勝手に奪い取った。
「あ! こら、返せ!」
「どれどれ〜? 『文化祭における各部活動の予算配分案』……へぇ〜、演劇部ってこんなに予算取ってるんだ〜。ねぇ梅、演劇部にこれだけ出すなら、僕の『尾鳥たんファンクラブ設立費』として10万円くらい回してよ〜」
「回せるかバカ! どんな私物化だ! それにファンクラブなんてねぇだろ!」
「失礼な! 中等部に隠れファンが3人はいるもん!」
「少なっ! 3人のために10万円も出せるか!」
不毛なやり取りを繰り広げながら、梅は書類を取り返そうと手を伸ばす。
しかし、尾鳥は「あははっ、捕まえてみな〜!」と身を軽く翻し、生徒会室の中央へと逃げ出した。
「おい、ふざけるな! その書類は明日までに古都吹先輩に確認取らなきゃいけないんだぞ!」
「じゃあ僕を捕まえて奪い返してごらんよ〜! 男の僕に手を出せるかな〜?」
煽るように腰を振り、スカート……ではなく短パンの裾をひらひらさせる尾鳥。
そして、動き回るたびに、彼の胸元で丸出しになった乳首がゆらゆらと揺れる。
(なんなんだよ本当にその服は!! 物理法則はどうなってんだ!! なんで激しく動いてもシャツが閉じないで乳首だけ露出し続けてんだよ!!)
梅の頭の中で、ツッコミのボルテージが最高潮に達する。
「……もういい。力ずくで奪う」
梅は椅子から立ち上がり、長い脚を生かして一気に尾鳥との距離を詰めた。
「うわっ、本気だ〜!?」
尾鳥は焦って後ろに下がろうとしたが、足元にあったコード(古都吹が昨日設置したまま放置していた足ふきマッサージ器のコード)に足を引っかけた。
「きゃっ!?」
「あっ、危ない!」
反射的に、梅は手を伸ばした。
ぐらりと倒れ込む尾鳥の腰を抱き止め、倒れ込むのを防ぐ——はずだった。
しかし、勢いが強すぎた。
「うわあぁぁぁ!?」
「どわぁっ!?」
2人はもつれ合うようにして、生徒会室のふかふかなソファの上に倒れ込んだ。
ドサッ、という重い音とともに、沈み込むクッション。
「……いってぇ……」
梅は頭を振って目を開けた。
自分の体の上に、すっぽりと収まるような形で尾鳥が重なっている。
そして、梅の目の前——わずか数センチの距離に。
尾鳥の、ピンク色の乳首が迫っていた。
「〜〜〜〜っ!?」
梅の顔が、一瞬で爆発したように赤くなった。
「お、お前……! 離れろ!!」
「……あ、あはは……梅……顔、真っ赤……」
いつもなら即座に「発情した〜?」と煽ってくるはずの尾鳥だったが、さすがに今の体勢は意図していなかったらしく、少し頬を染めて目を丸くしている。
ドクン、ドクン、と。
胸が重なり合っているせいで、お互いの心臓の鼓動がダイレクトに伝わってきた。
「……ねぇ、梅」
尾鳥が、小さな声で呟く。
距離が近すぎて、彼の吐息が梅の首筋にかかる。
「……なんだよ」
「……僕の心臓の音、聞こえる……?」
「……聞こえるよ。うるさいくらいにな」
「……これね、梅が重いからだからね! 勘違いしないでよね!」
「誰も何も言ってねぇだろ!!」
限界を迎えた梅は、尾鳥の身体を押し返し、ソファの上で跳ね起きるように距離を取った。
息を荒くしながら、乱れた制服を整える。
尾鳥もソファの上にちょこんと座り直し、少し気まずそうに自分の胸元を見下ろした。
……が、やはりシャツのボタンは弾け飛んでおり、乳首は丸出しのままである。
「……まったく。怪我はなかったか?」
「うん……梅が庇ってくれたから……」
「ならいい。……ほら、書類返せ」
梅が差し出した手に、尾鳥はおとなしく書類の束を戻した。
部屋の中に、気まずい沈黙が流れる。
斜陽はさらに深まり、生徒会室全体が深い茜色に包み込まれていた。
「……あのさ、梅」
「なんだよ」
梅がデスクに戻ろうとすると、尾鳥がポツリと言った。
「……古都吹センパイたち、明日には治るかな」
「さあな。風邪だし、2〜3日は休むんじゃないか? 特にあいつら、極端だからな……」
「そっか……」
尾鳥は膝を抱え、少し寂しそうな顔をした。
「……僕さ、本当はちょっと退屈だったんだよね」
「え?」
「古都吹センパイの変な妄想も、陸奥センパイの理不尽なワガマックスも、照井センパイの厳しいツッコミもないとさ……生徒会室って、こんなに広いんだな〜って」
珍しく素直な吐息を漏らす尾鳥。
いつもは「僕が一番カワイイ!」と叫び、煽り散らかしている彼が見せた、年相応の小さな背中。
梅はふっと息を漏らし、頭を掻いた。
「……まあ、確かに静かすぎるな。うるさいのがいないと、調子が狂うのはわかる」
「でしょ〜? だからね!」
尾鳥はパッと顔を上げると、いつものニシシという不敵な笑みに戻った。
「明日も僕が遊びに来てあげるから、感謝してよね! 梅一人だと寂しくて死んじゃうでしょ!?」
「言っとくが、俺は一人の方が作業が進んで大歓迎なんだよ!」
「嘘だ〜! 絶対僕のこと待ってるくせに〜! あ、それとも何? 明日はもっと凄いサービス期待しちゃってる〜? 男の僕の身体に〜!」
「期待してねぇよ!! 服を着ろ服を!! ボタンを閉めろ!!」
「キャー! 梅のスケベ〜!」と叫びながら生徒会室を走り回る尾鳥たんと、それを書類の筒で叩こうと追いかける水の江梅。
先輩たちが不在の生徒会室に、いつものような、けれどどこか少しだけ特別な、2人だけの賑やかな声がいつまでも響き渡っていた。
『ねぇねぇ?良いんだよ?男の僕を野獣の如く襲っても!まぁ梅はチキン野郎だし?そんな度胸無いか〜それに梅はあっちの方もどうせざぁ〜こ♡何だろうし』
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