澪の淫紋日記 作:白瀬澪
1日目
書き出す前に言っておくと、その日は本当に、特別な日じゃなかった。
朝はいつもどおりに起きて、いつもどおりに講義を受けて、図書館で少しだけ本を読んだ。こんな日記を書くことになるなんて、夜になるまで思ってもいなかった。
大学の講義が終わって、帰り道。
最後の講義は少し退屈で、ノートの隅に小さな落書きをしてしまった。帰り際、同じ講義の子に「このあと皆でお茶しない?」と誘われたけれど、私は笑って断った。人と話すのが嫌いなわけじゃない。ただ今日は、静かな部屋で本の続きを読む方が、どうしても恋しかった。
駅前の通りはいつもどおり人が多くて、私はまず本屋に寄った。新刊の文庫を一冊買って、紙袋を腕に抱える。今日の夜はこれを読むんだ、と思うと、それだけで帰り道の足が少し軽くなった。書店を出て、少し静かな裏道に入ったところで、声がした。
「そこのお嬢さん。あんた、今夜から少しだけ、眠れなくなるよ」
大通りの喧騒が、急に遠くなったみたいだった。裏道は昼間でも少し薄暗くて、通る人もいない。なんで私は、こんな場所に入ってしまったんだろう。
足が止まった。振り返ると、裏道の奥、小さなテントみたいな布を垂らした店――というより、折りたたみの机に布をかけただけの場所に、おばあさんが座っていた。机の上には、くすんだ水晶玉と、使い込まれたカードの束。細いお香みたいな、甘いような苦いような匂いが漂っていた。占い師、なのだと思う。深いしわの顔で、目だけがやけに澄んでいて、私を見てにやりと笑った。
「手相もタロットも、いらない。あんたの顔に、もう書いてある」
「……何が、ですか」
「欲しいものを、欲しいと言えない顔だよ。自分の欲に嘘をつくのが上手な子だ」
「そんなこと……ありません」
言い返した声は、自分でも驚くくらい小さかった。おばあさんは、ふふ、と肩を揺らした。
「欲がないんじゃないよ、あんたは。隠すのが上手いだけだ。――本当は、触れられたいくせに、自分からは絶対に言わない。違うかい?」
何も言えなかった。違う、と言いたかったのに、胸の奥のどこかが、ちくりと痛んだ。
図星を突かれたみたいで、耳が熱くなった。否定する言葉が出てこなくて、私は小さく視線を落とす。おばあさんは満足そうにうなずいて、私の手を取った。
「代金はいらないよ。その代わり――ほんの少しだけ、あんたに預けものをしてあげる」
手のひらに、指先が触れた。驚くほど冷たい手だった。その瞬間、ちり、と小さな熱が身体の奥を走った気がした。冷たいのに、熱い。変な感覚だったけれど、一瞬のことだったから、気のせいだと思った。
「預けものはね、あんたがずっと目をそらしてきたものだよ」
おばあさんはもう手を離して、「今夜、よく自分の身体を見てごらん」とだけ言った。あれこれ聞く前に店の布が風で揺れて、私はなんとなく居心地が悪くなって、その場を離れた。
裏道を抜ける前に、一度だけ振り返った。おばあさんはもう私を見ていなくて、水晶玉を布でゆっくり磨いていた。その姿が、やけに日常の光景みたいに見えたのが、かえって妙だった。
帰宅して、夕食を軽く済ませて、お風呂に入ったのは夜になってから。
白い壁と本棚だけの、私の静かな部屋。買ってきた文庫を本棚の空いた場所に挿して、簡単な夕食を作って、お茶を淹れた。占い師の言葉が少しだけ引っかかっていたけれど、温かいお茶を飲んだら薄れた。今日は早くお風呂に入って、あとは本を読んで眠るだけ。そんなはずだった。
湯船にゆっくり浸かって、ふう、と息をついた。肩までお湯に沈むと、講義の疲れが溶けていくみたいだった。今日はいい日だった、とそのときは思っていた。
身体を洗おうと立ち上がり、湯気の中で手を動かしているとき、気づいた。下腹部の真ん中、おへその少し下に、見覚えのない紋様が浮かんでいた。最初は、どこかでぶつけた痣かと思った。でも、違う。小さな花と、蔓みたいな曲線を合わせたような形で、左右がぴたりと対になっている。色は濃い紫。指でこすっても、スポンジで洗っても、消えない。痛くもかゆくもないし、肌が盛り上がっているわけでもないのに、そこだけが確かに「ある」。
そっと指先で触れてみたら、ほんの少しだけ、温かかった。気のせい、だと思いたかった。
タトゥーのインクみたいに、肌に染みついている。
――あのおばあさん? でも、あの人は私の手にしか触れていない。お腹なんて、触られていないのに。
シャワーを止めて、しばらく鏡の前で立っていた。手鏡を持ち出して、もう一度よく見てみる。花の形は五つの花びらみたいにも見えたし、蔓は下腹部の両側へ、少しだけ伸びていた。写真に撮って調べようかと思ったけれど、場所が場所だから、ためらってやめた。こんなもの、人に見せられるわけがない。
寝る前に、もう一度だけ確認しよう。明日も消えていなかったら、病院に行こう。そう決めて、パジャマに着替えた。
パジャマに着替えて、ベッドに入って、買ってきた文庫を開いた。紋様のことは気になったけれど、物語に集中していたら少しずつ眠くなってきて、ページをめくる手もゆっくりになった。時計は21時50分。今日はこのまま眠ってしまおう、と思った。その矢先だった。
異変は、夜の10時に来た。
ベッドで本を読んでいたら、下腹部が、ずきん、と疼いた。時計を見たら、ちょうど22時。疼きは波みたいに強くなったり弱くなったりして、それにつれて身体全体が火照ってきた。頬が熱い。心臓がいつもより速い。熱でも出たのかと思って体温計で測ったけれど、平熱だった。
熱の出どころは、あの紋様だった。そこだけが、小さな心臓みたいに熱を持っている。
大丈夫、まだ我慢できる。疼きは「痛い」というより、身体の奥がざわざわして落ち着かない感じで、私は水を飲んで、深呼吸をして、ベッドの中でじっとやり過ごした。本の続きを読もうとしても、同じ行を何度も目で追ってしまう。22時半を過ぎたころには、窓を開けて冷たい夜の空気を吸った。それでも火照りは、なかなか引いてくれなかった。
「自分の欲に、嘘をついている」
占い師の声が、火照った頭の中で何度も繰り返された。まさか、と思う。まさか、この紋様が、その「預けもの」だなんて。でも他に説明がつかなかった。疼くたびに、身体の奥が何かを求めるみたいにうずいて、それが自分でも分からないことが、一番怖かった。
22時45分。疼きは少しだけ頂点を作って、そこからは同じ高さのまま続いた。あと少し、あと少しだけ、と時計の針を目で追いながら、私は布団の中で小さく丸くなった。誰かに助けてほしい、と一瞬だけ思って、すぐに首を振った。こんなこと、誰に助けてほしいというのだろう。
23時。疼きは潮が引くみたいに、すうっと消えた。火照りも収まって、残ったのは変な疲れだけだった。
何だったんだろう、あれは。占い師の言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。
「自分の欲に、嘘をついている」
……今日のことは、忘れないうちにここに書いておく。明日も同じ時間に疼いたら、そのとき考える。講義が終わったら、もう一度あの裏道に行ってみる。おばあさんがいたら、今度こそ聞く。これは何なのか。どうしたら消えるのか。
誰にも言えないし、誰にも見せられない。だから、ここにだけ書く。
とりあえず、眠る。おやすみなさい、私。