澪の淫紋日記 作:白瀬澪
2日目
朝、目が覚めて、最初に考えたのは紋様のことだった。
洗面所の鏡の前で、パジャマをそっとまくってみる。下腹部の真ん中、濃い紫の花と蔓。消えていなかった。夢じゃなかったんだ、と当たり前のことを思って、少しだけ気が重くなった。昨日より濃くなった気もしたけれど、気のせいだと思いたかった。指でなぞってみる。やっぱり、ほんの少し温かい。
朝食を作りながら、何度も時計を見た。今日の夜も、22時に疼くんだろうか。昨日はたまたまだった、という可能性に、まだ少しだけすがっていた。トーストを焼いて、紅茶を淹れる。いつもどおりの朝なのに、どこか落ち着かない。
大学に着いて、講義の合間に、親友の凪と少し話した。
「昨日のお茶、来ればよかったのに。新しいカフェ、すごく静かだったんだよ」
「ごめんね。昨日は、どうしても本が読みたくて」
「澪は昔からそうだよね」と凪は笑った。嘘じゃない。本当のことだ。でも、その裏側に、もう誰にも言えない秘密ができてしまったことが、少しだけ胸に引っかかった。笑って話している自分の、すぐ下のお腹に、あの紋様がある。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
講義の間も、頭の片隅にずっとそれがあった。ノートを取りながら、ふと窓の外を見てしまう。教授の声が遠くに聞こえた。
明日は書店のバイトの日だ。シフト表では、真壁くんと一緒の土曜日だった。真壁くんは小学生からの同級生で、真壁くんのことが好きな凪のために、付き合いで三人で遊ぶことが度々あった。でも、凪の気持ちを知っているからこそ、二人きりのときは極力近づかないようにしている。バイト先でも、必要以上は話さない。それが、私なりの線引きだった。……明日のことは、明日の私に任せよう。今は、それどころじゃなかった。
――講義が終わったら、あの裏道に行く。
昨日、寝る前に決めたことだ。占い師がいるなら、聞くことは決まっている。これは何なのか。どうしたら消えるのか。
帰り道、駅前の通りを抜けて、裏道の入口で一度立ち止まった。人がいないのを確認して、深呼吸をしてから入る。薄暗い路地を進むと、奥に、あの布を垂らした小さな場所が見えた。おばあさんは昨日と同じように座っていて、私を見ると、驚いた様子もなくにやりと笑った。
「来ると思ったよ」
「……教えてください。あれは、何ですか。私の身体に、変な紋様が」
「見たのかい。――それが預けものだよ」
「預けもの、って」
「あんたが、ずっと目をそらしてきたものだよ。あんた自身の欲に、形を与えただけさ」
私の欲。そんな言葉を、人前で言われたのは初めてだった。耳が熱くなる。
「消してください。どうすれば消えますか」
「消えないよ」
あっさりと、まるで天気の話みたいに言った。
「それはあんたのものだ。あんたじゃない誰かのものなら、預かり直しもできるけどね。自分のものを、自分で捨てることはできないんだよ」
「そんな……。じゃあ、ずっとこのまま?」
「毎晩、夜の10時に疼くだろう。それが合図だ。あんたが自分の欲に嘘をついている限り、少しずつ強くなる」
「強く……?」
「今夜は昨日より、少しだけね。明日はまた少しだけ。そのうち、あんたがごまかしきれなくなるくらいに」
何か言い返したかったけれど、言葉が出なかった。嘘をついている、と言われると、胸の奥がまたちくりと痛む。
「……あなたは、何者なんですか。普通の占い師じゃ、ないですよね」
聞いてから、しまった、と思った。失礼な言い方だったかもしれない。でもおばあさんは怒らなくて、細い目をさらに細くして笑った。
「ただの占い師だよ。――ああ、そうだ。ひとつ忠告しておくれ。男の人と長く近くでいたり、多く触れ合ったりした時は気をつけな。夜を待たずに、疼きだすからね」
「男の人と、近くで……?」
「それがあんたの欲だろうよ」
私はその場を辞して、路地を出た。心臓が少し速かった。男の人と長く近くでいたり、多く触れ合ったり、なんて。そんな機会、私にはほとんどない。それでも、忠告の言葉だけが、やけに耳に残った。
おばあさんは水晶玉に手を置いて、もう話は終わりだというみたいに目を細めていたのを、最後に振り返って見た。
「怖がりなさんな。悪いものじゃない。――あんたが、あんたを好きになるためのものだよ」
帰り道、駅前の人混みの中で、何度もその言葉を反芻した。好きになるためのもの。そんなふうに言われても、私はまだ、この紋様が怖かった。
駅から家までの途中、公園の前を通った。小さい頃から知っているおじさんが、いつものベンチに座っていた。子どもの頃は「こんにちは」と挨拶するだけの近所の人だったのに、最近は、目が合うと、視線が長く残る。今日も、通り過ぎる私を目で追っているのが、見なくても分かった。なぜか足が速くなった。……あの視線のことを、思い出すだけで少し落ち着かないのは、なぜだろう。
帰宅して、夕食を作って、お風呂に入った。湯船の中で、そっと下腹部に触れてみる。温かい。鏡で見た紋様は、朝と変わらなかった。……いや。蔓の先が、ほんの少しだけ、伸びたように見えた。見間違いだ、と思いたかった。昨日、初めて見たときの形を、私は正確に覚えているわけじゃない。それでも、背筋が少し冷えた。
写真に撮って、昨日の形と比べれば分かるのかもしれない。でも、場所が場所だから、やっぱりためらってやめた。その代わり、メモ帳に今日の形を小さく描いてみた。花がひとつ、蔓が左右に。明日また描けば、比べられる。
夕食のあと、ノートパソコンを開いて、ためしに検索してみた。「身体に浮かぶ 紋様」「夜だけ疼く 痣」――出てくるのは、オカルト好きの掲示板と、怪しい除霊の広告ばかりだった。医学的な情報は、ひとつもない。当たり前だと思う。こんなもの、あるはずがないんだから。
本も何冊かめくってみた。民俗学の本に「呪いの印」の話はあったけれど、私の紋様とは形が違う。司書の資格を取る勉強をしていたときの資料にも、当然、載っていない。
結局、確かなことは何も分からなかった。分かるのは、今夜も22時が来るということだけ。
22時が近づくにつれて、落ち着かなくなった。時計を何度も見る。21時50分。昨日、疼きが始まったのと同じ時刻にベッドに入って、文庫を開く。同じことをすれば、昨日との違いが分かる気がした。
21時55分。本を読んでも、文字が頭に入らない。
そして、22時。
ずきん、と下腹部が疼いた。昨日より、ほんの少しだけ強い。波が来るたびに、身体の奥が熱を持って、頬が火照る。強い一波が来ると、「は、……っ」と、堪えた息が少しだけ漏れた。心臓の音が、耳のすぐそばで聞こえるみたいだった。
分かっていたはずなのに、やっぱり怖い。占い師の言ったとおりだ、と思ったときの心細さは、昨日の比じゃなかった。ごまかしきれなくなるくらいに強くなる。その言葉が、火照った頭の中で何度も回る。
水を飲んで、深呼吸をして、窓を開けた。冷たい空気が頬に触れて、少しだけ楽になる。冷蔵庫から保冷剤を出してタオルで巻き、そっと下腹部に当ててみた。ひんやりして、熱が少しだけ遠のく。でも、疼きそのものは残った。身体の表面じゃなくて、奥の方がうずいているから。
身体の奥が、何かを求めるみたいにうずいているのは、分かっていた。……正直に言えば、何となく分かってしまう。この熱が何を意味して、何を求めているのかを。触れてしまえば、慰めてしまえば、楽になるのかもしれない、ということも。それでも、それはしたくなかった。そんなことをする自分を、認めたくなかった。だから私は保冷剤を握りしめたまま、ただ、波が過ぎ去るのを待った。
23時を過ぎても、まだ完全には引かなかった。布団の中で小さく丸くなって、指先でシーツをぎゅっと握る。波が強まるたび、「は、……あ、……っ」と熱い息が唇から漏れて、その音が自分のものとは思えなくて、私は枕に顔を押しつけた。誰かに助けてほしい、なんて、また思ってしまった。助けてほしいのは、この熱からなのか、それとも――。そこまで考えて、首を振った。
23時15分頃。ようやく、潮が引くみたいに熱が収まっていった。昨日より、15分長い。
汗ばんだ額を拭いながら、私は天井を見た。
少しずつ強くなる。明日は、また少しだけ強い。
……それでも、書いておく。逃げたら、もっと分からなくなりそうだから。
明日もいつもどおりに過ごす。講義を受けて、本を読んで、バイトに行って、ごはんを作る。いつもどおりに過ごして、それでも夜が来たら、また考える。それしか、今はできない。
おやすみなさい、私。