澪の淫紋日記 作:白瀬澪
3日目
朝、目覚ましより先に目が覚めた。昨夜は眠りが浅くて、夢の中でも時計の針を見ていた気がする。
洗面所で紋様を確認するのが、もう朝の習慣になりつつあった。濃い紫の花と、左右に伸びる蔓。昨日のメモ帳の絵と見比べる。……蔓の先が、ほんの少し、昨日より伸びている。気のせいだと言い聞かせる声と、違う、と囁く声が、頭の中で喧嘩をした。手帳に今日の形も描いておく。花の大きさは変わらない。蔓だけが、意思を持ったみたいに、ゆっくりと広がっている。
今日は土曜日。補講があって、帰りに図書館へ寄って、夕方からは書店のバイト。いつもどおりの日にする。そう決めて家を出た。
通学路の途中、公園の前を通った。朝の光の中で、ベンチに座って本を読むお年寄りがいた。静かで、穏やかで、私の夜とは無縁の世界に見えた。ああいう朝を、私もまた取り戻せるんだろうか。紋様のない朝を。……考えても答えは出なくて、私は歩幅を少しだけ速めた。夕方にいつも座っている、あのおじさんは、朝はここにいない。それだけのことが、少しだけほっとした。
補講は静かで、出席者も少なかった。芦屋教授の民俗学の講義で、各地の「呪術と印」の話をしたとき、私は思わず姿勢を正した。災いを移す印、守りの印、契約の印。どれも私の紋様とは違ったけれど、「印は、それを刻まれた者の心のありようで効き目が変わる」という一文だけ、ノートに二重線を引いた。私の心の、ありよう。――自分の欲に、嘘をついている。その声がまた聞こえた気がした。
帰りの図書館では、読みかけだった小説の続きを借りた。受付の人と短く言葉を交わして、本を鞄に入れる。何も変わらない日常。そう思えることが、少しだけ救いだった。
家に一度戻って、夕方のバイトまで部屋で過ごした。借りてきた小説は面白くて、しばらくは物語の世界に逃げ込むことができた。主人公が自分の気持ちに嘘をつけなくなって、静かに泣く場面で、私はページをめくる手を止めた。……他人事に思えなかった。栞を挟んで本を閉じて、紅茶をもう一杯淹れる。窓の外では夕方の光がゆるやかに傾いていて、時計の針だけが、静かに22時へ近づいていた。
17時から、書店のバイト。真壁くんと一緒のシフトだった。彼は新刊の平台を作る担当で、重い本の箱を一人で軽々と運んでいく。スポーツで鍛えた身体というのは、ああいうところに出るのだと思った。彼はレジと品出しの合間に時々話しかけてきて、私は当たり障りのない範囲で返す。二人きりのシフトでも、それ以上は近づかない。凪の気持ちを知っているから、私が決めている距離だった。穏やかな夕方。それでも、閉店間際のお客さんの途絶えた時間に、ふと時計を見てしまった。21時。帰れば、22時が待っている。
帰宅は21時半。夕食は簡単に済ませて、お風呂に入った。夜が来るのが、昨日より怖くなかった。それが逆に、自分の変化みたいで怖かった。慣れてしまうこと。疼きのある夜が「日常」になっていくこと。
鏡の前で、もう一度紋様を見た。お湯で上気した肌の上で、濃い紫がやけにはっきり浮かんで見えた。昨日、私はこの紋様をスケッチした。今日の形と比べると、やっぱり蔓が伸びている。……認めたくなかったけれど、認めるしかなかった。この紋様は、育っている。
21時50分。昨日と同じようにベッドに入る。保冷剤とタオルと、水の入ったコップを枕元に用意した。準備をして待つ自分が、なんだか滑稽で、それでいて切実だった。
22時。
ずきん、と来た。昨日より、また少し強い。波が引いては寄せて、そのたびに身体の奥が熱くなる。保冷剤を当てても、熱は奥から湧いてくるみたいで、追いつかない。
22時20分。疼きは昨日より速く強くなっていくみたいだった。頬だけじゃなく、首筋まで熱い。深呼吸を繰り返す。本の活字を追おうとしても、視界の端で文字が揺れた。
22時40分。まだ頂点じゃない。これからもっと強くなるのが分かる。身体は正直で、疼きに合わせて、奥の方が何かを求めるようにうずいた。我慢すればいい、と昨日まで言い聞かせてきた。でも今夜は、その声が弱かった。
――ごまかしきれなくなるくらいに。
占い師の言葉が蘇る。もし、この熱が「私の欲」だというなら。目をそらすから疼くんだとしたら。
23時。疼きが頂点に近いまま、引かない。額に汗が浮かんで、シーツを握る指が震えた。……もう、いいかな、と思った。誰も見ていない。私の部屋で、私一人。自分で自分を慰めることくらい、誰に謝る必要もない。
震える手が、そっと下腹部に伸びた。紋様は触れたわけでもないのに、熱く脈打って、私を急かすみたいだった。それが合図だった。
……思えば、私は本でなら知っていた。部屋の本棚にある恋愛小説。ヒロインが、自分で自分の身体に触れる場面。読んだときは恥ずかしくて、少しページを飛ばした。でも今夜、その断片だけが、不思議なくらい鮮明に蘇った。一番敏感な場所を、指の腹で、円を描くように。強さは、優しく。それが、私の知っている「知識」の全部だった。
手が、ゆっくりと下へ滑る。パジャマと下着の中、熱く濡れた秘部に指先が触れた瞬間、「……んっ」と、喉から小さな声が漏れた。私の声だ。こんな声、私は知らなかった。恥ずかしさで耳が熱くなるのに、手は止まらない。止められなかった、が正しい。
本の知識は、思ったより役に立たなかった。けど一番敏感な、小さく尖った場所はすぐに分かった。触れると「んっ」と声が漏れて、腰が跳ねる場所。でも強さが分からない。強く撫ですぎて、自分で驚いて手が止まった。弱すぎると、疼きが苛立たしく残る。何度も止まって、何度もやり直した。小説のヒロインは、こんなに戸惑ったりしなかったのに。私は布団の中で、自分の不器用さに少しだけ泣きたくなった。
それでも、試行錯誤のうちに、身体は少しずつ答えを教えてくれた。疼きの波に合わせて、そこを円を描くように撫でる。時には強く、時にはそっと。指の腹が濡れた熱さの中を滑るたび、太ももが震えて、「ん、んっ……」と、布団の中で何度も息が漏れた。紋様の熱と、指先の快さが、身体の奥で溶け合っていくみたいだった。こんなの、私じゃない。そう思いながら、それでも私は、自分で自分を慰め続けた。嘘をつくのをやめた手は、正直に、私の欲しいものを知っていた。
もっと、この熱を知りたい。気づけば私は、夢中になって探っていた。どの強さで、どの速さで触れれば、身体がどう答えるか。まるで、自分の体の正解を、指先でまさぐり探すみたいに。恥ずかしさも戸惑いも、どこかへ消えていた。ただ、もっと知りたい、もっと感じたい。その一心で、私の手は正解を重ねていった。
正解を引くたびに、疼きの質が変わっていく。痛いに近い疼きが、甘い痺れにほどけていく。秘部の奥が、指を求めるみたいに疼いて、指先が入り口に触れただけで、「ん、あ……っ」と声が上がって、身体全体が震えた。声もそうだった。堪えるより、少し漏らしたほうが、痺れが深くなる。本の言葉じゃなく、身体の声で分かるようになっていた。私は薄く目を閉じて、自分の乱れた呼吸の音だけを聞いていた。頂きが近づくにつれて、指の動きは速くなる。「ん、んんっ……あ、あっ、あっ」――そして、来た。今まで感じたことのない、身体の芯を貫くみたいな大きな波。初めてだった。私が、私の手で、頂きに達したのは。
波が身体を通り抜けていく。長く、甘く、逃げ場のない波が。内側がぎゅっと締めつけて、震えが何度も押し寄せた。
不思議だったのは、そのあとだった。あれだけ強かった疼きが、頂きと一緒に、すうっと収まっていった。まるで、最初から「これ」が目当てだったみたいに。
誰にも言えない。誰にも見せられない。でも、この部屋でだけは、私は私のままでいていいはずだった。
どれくらい経っただろう。頂きの余韻がほどけていくと、疼きはもう、ほとんど残っていなかった。時計は23時20分。昨日より長い夜だったのに、終わり方は昨日より、ずっと穏やかだった。
そのまま、しばらく天井を見ていた。心臓の音が、少しずついつもの速さに戻っていく。
さっきまでの自分が、遠い人のことみたいに思えた。頬に残った熱を手の甲で確かめて、私は小さく息を吐く。恥ずかしい。でも、不思議と後悔はなかった。むしろ、ずっと握りしめていた何かを、少しだけ手放せたみたいな、変な静けさがあった。
認めたくなかったけれど、事実だけ書いておく。今夜、私は初めて頂きに達して、疼きはそのときに収まった。偶然かもしれない。気のせいかもしれない。でも、占い師の言っていたことと、重なって聞こえる。
「自分の欲に、嘘をついている」
……全部に降参したわけじゃない。ただ、今夜だけは、少しだけ嘘をやめた。それだけのこと。
恥ずかしくて、このページは誰にも見せられない。でも書かないと、明日の私がまたごまかしてしまう気がした。――さっき指先で覚えたことも、全部。強さも、速さも、身体の答えも。漏れてしまった声のことも。声を殺そうとするより、小さく出したほうが、ずっと気持ちよかったということまで。忘れたくないからじゃ、ない。忘れられないから、書くんだと思う。
明日は日曜日。大学は休み。静かに過ごそう。夜のことは、夜になってから考える。
おやすみなさい、私。