澪の淫紋日記 作:白瀬澪
4日目
日曜日。大学は休みのはずだった。
朝の確認では、紋様の蔓は昨日とほぼ同じ。少し安心して、朝食をゆっくり取った。昨夜のことを思い出すと、頬が熱くなった。でも身体は軽かった。よく眠れたせいだと思う。
洗い物をしながら、昨夜のことを静かに振り返った。私が自分でしたこと。後悔はしていない。そう言い聞かせても、指先が少し震えたのは、恥ずかしさだけじゃなかったと思う。――もし今夜も同じことが起きたら、私はまた同じことをするんだろうか。答えは、たぶん出ていた。それが少し怖くて、少しだけ、ほっとするようなことだった。
昼前に、ゼミの友達から連絡が来た。午後に大学近くのカフェで、芦屋教授のレポート課題の勉強会をするという。任意参加。行くつもりはなかったけれど、家に一人でいると夜のことばかり考えてしまう。気分転換になるかもしれない、と返事をした。
カフェにはゼミの仲間が4人と、先輩が1人いた。派手なシャツのゼミの男子が冗談ばかり飛ばして、場を笑わせていた。先輩は大学院生で、私のレポートの参考文献の探し方を、前にも教えてくれたことがある。穏やかで、話しやすい人だ。
勉強会は和やかに始まった。誰かの頼んだケーキを分けてもらって、レポートの締め切りへの文句を言い合って、笑った。私も普通に笑えた。紋様のことなんて、誰も知らない。私も少しだけ忘れかけていた。
私の隣に座った先輩が、レポートの草稿を覗き込んだ。
「ここの論の進め方、惜しいね。こう直すと、もっと伝わるよ」
そう言って、先輩は椅子をぐっと寄せた。肩越しに草稿を覗き込む体勢で、先輩の腕が私の肩のすぐ後ろにあって、上着越しに体温が伝わってくる。近かった。顔を上げれば、先輩の横顔がすぐそこにある距離だった。
説明は丁寧で、長かった。引用の扱い、注の付け方、構成の組み替え。行を指さすたび、先輩の指先が私の手の甲にふわりと触れて、すぐに離れる。触れる、離れる。そのたびに、私の心臓が小さく跳ねた。悪気なんてない。教えるための、ただの近さだ。それなのに私は、草稿の文字よりも、先輩の体温と、時々触れる指先のことばかり考えていた。ドキドキが、止まらなかった。
後から思えば、私はその触れ方を、ひとつひとつ数えていたのだと思う。人差し指の腹。手の甲の、指の付け根のあたり。三秒、四秒。体温の残り方まで、頭のどこかが勝手に記録していた。今の私には、そういう癖がつき始めていた。身体に起きたことを、正確に覚えておこうとする癖が。
最初は、ただ照れくさかった。でも、十分ほど経った頃だったと思う。また指先が触れた、その瞬間。下腹部が、ちくり、と小さく疼いた。
息が止まりそうになった。
夜じゃない。今は、昼過ぎのカフェだ。なのに紋様が、確かに熱を持ち始めていた。占い師の忠告が、頭の中で弾けた。――男の人と長く近くでいたり、多く触れ合ったりした時は気をつけな。夜を待たずに疼きだす。
「……ごめんなさいっ、少し席を外します」
笑顔を作って、トイレに立った。個室のドアを閉めて、便座に座り込む。下腹部の奥で、熱が波みたいに強くなっていく。夜の疼きほどじゃない。でも、紛れもなく同じものだった。
どうしよう。ここで、こんな場所で。
幸い、強い疼きじゃない。夜の、あの波の大きさとは違う。でも、時間が経つにつれて熱は確かになっていく。このまま席に戻ったら、表情に出てしまうかもしれない。私は個室の中で膝を抱えた。誰かに助けてほしい、とまた思った。でも、助けを求める相手なんて、どこにもいない。いるわけがない。だってこれは、私だけの秘密で、私の身体のことだから。
スカートの上から、そっと下腹部を押さえた。冷たいタイルの壁に額を寄せて、深く息を吐く。誰にも気づかれるわけにはいかない。先輩に、変に思われるわけにもいかない。
疼きは、先輩から離れてから二十分ほどで、少しずつ引いていった。離れれば時間と共に収まる。それが分かっただけでも、収穫だった。私は鏡で顔を整えて、頬の熱さが引くのを待ってから、席に戻った。
「顔色、悪いよ。大丈夫?」
先輩が心配そうに見た。私は「少し、貧血気味で」と嘘をついた。嘘は、前より上手くなっている気がした。それが少し、嫌だった。
勉強会は夕方に終わった。帰りの電車で、私はずっと窓の外を見ていた。誰のせいでもない。先輩はただ親切だっただけだ。悪いのは、この紋様と、それに反応してしまう私の身体で――。そこまで考えて、唇を噛んだ。身体のせいにすることすら、逃げなのかもしれない。
帰宅して、夕食を作った。野菜を切る包丁のリズムが、少しだけ心を落ち着けてくれた。ごはんを食べながら、今日のことをノートに整理してみる。分かったこと。一つ、疼きは夜22時だけじゃない。一つ、男の人と長く近くでいたり、多く触れ合ったりすると、昼でも始まる。一つ、離れれば、二十分ほどで収まる。一つ、夜の疼きは、自分で触れると少し早く静まる。
書き出してみると、まるで実験の記録みたいだった。研究対象は私自身で、観察者も私自身。変な話だけれど、ルールが見えてくると、不思議と恐怖は薄れた。分からないことが一番怖いんだと、今日はよく分かった。
夜。お風呂に入って、鏡の前で紋様を見る。蔓は、またほんの少しだけ伸びていた。昼の疼きの分も、この紋様は育ったんだろうか。
21時50分。枕元には、いつもの用意。保冷剤とタオルと水。今夜は昨日より、覚悟が決まっていた気がする。
22時。
疼きは来た。でも、昨夜より波は穏やかだった。熱はある。身体の奥はうずく。けれど、昨夜みたいに息が詰まるほどじゃない。このまま横になっていれば、いつかは収まるだろう、という程度の疼きだった。
なのに、私の手は動いた。
我慢の限界だったからじゃない。今夜ははっきりと分かった。私は、疼きに追い詰められて手を伸ばしたんじゃない。昨夜の、あの頂きの感覚を、もう一度味わいたくて、自分から求めてしまったんだ。欲に、抗えなかった。いや、抗おうとしなかった、が正しいのかもしれない。昨日の出来事は、私の中の何かを変えてしまったのかもしれない。
指が、昨日より迷わなかった。そのことに気づいて、暗闇の中で少しだけ笑ってしまった。情けないような、清々しいような、不思議な笑いだった。疼きに背を押されて、指は迷わず下へ降りていく。熱く濡れた秘部。指先が突起部を撫でると、「ん、……っ」と小さく息が漏れて、昨日覚えたばかりの身体の正直さが、すぐに蘇った。でも、今夜はそれだけじゃ足りなかった。撫でるたびに、奥の方がもっと、と疼く。指先は自然に下へ降りて、穴の入り口を、こするように撫で始めた。入れる勇気は、まだなかった。それでも入り口を指の腹で擦るたび、甘い痺れが強くなって、「ん、んっ……」と唇から熱い吐息がこぼれて、腰が小さく揺れた。昨日までの私が嘘みたいに、今夜の私は素直にそれを求めていた。疼きの波に合わせて指を動かすと、「あ、……んっ」と甘い声が漏れて、慌てて枕に顔を埋めた。……誰も聞いていないのに。波は二度ほど大きくうねって、身体が頂きへ押し上げられるたび、「ん、あ……っ」と声を殺しながら、私は布団を握りしめた。それから緩やかにほどけていった。
その最中も、私の頭の片隅は、やっぱり記録していた。突起部だけでは足りなくなったこと。入り口を擦ると痺れが強くなること。指の速さと、腰の動きが連動すること。――全部、頭の中に焼き付いていく。恥ずかしいはずなのに、覚えておくことが、私の中で「求めていること」みたいに感じられ始めていた。
疼きは23時過ぎに静まった。昨日より、少しだけ早い。……穏やかな波だったからなのか、私が早めに「おさめに」行ったからなのかは、分からない。
事実だけ書く。昼の疼きは、男の人と長く近くでいたり、多く触れ合ったりしたあとに来て、離れたら収まった。夜の疼きは、昨日より早く収まった。……偶然が、何度も重なると、偶然じゃなくなる。
この紋様のルールが、少しずつ見えてきた気がする。嬉しいような、怖いような、複雑な気持ちでペンを置く。
おやすみなさい、私。