澪の淫紋日記 作:白瀬澪
6日目
朝、鏡の前で、私は思わず息を呑んだ。
蕾が、開きかけていた。
昨日見つけた小さな膨らみは、一晩で花びらの形を取り始めていた。中央の大きな花の隣で、まだ小さいけれど、確かに「もうひとつの花」になろうとしている。蔓は腰の骨を越えて、脇腹のほうへ伸び始めていた。スケッチ帳の五日分の絵と見比べるまでもなかった。この紋様は、もう「少しずつ」なんて生ぬるい育ち方をしていない。
今日は裏道に行く。昨日、そう決めた。「この先」を聞く。蕾が開いたら何が起きるのか。この先、疼きはどこまで強くなるのか。聞くのが怖くても、知らないまま夜を迎えるほうが、ずっと怖かった。
今日は文化の日で、大学は休みだった。それが、かえって都合がよかった。夕方のバイトまでの時間に、裏道へ行ける。占い師の小さな店が何時から開いているのかは分からない。私が会ったのは、二度とも夕方だった。だから、午後の遅い時間に行く。それまでは家で過ごすしかない。
午前中、本を開いても、文字が頭に入らなかった。紅茶を淹れて、飲みきらないうちに冷ましてしまった。時計を見る回数だけが増えていく。それから、ふと気づいた。身体の奥の、微かな疼きの予感みたいなものが、昼間からうっすらと残っている。疼くほどじゃない。でも「そこにある」ことは分かる。紋様は、夜だけのものじゃなくなりつつあった。
昼頃、凪から連絡が来た。休みなんだから出かけよう、という誘いだった。ごめん、今日はバイト、と返すと、「澪、最近ほんとに眠そうだよ。無理してない?」と返ってきた。指が止まった。……凪はいつも、こういうところだけ鋭い。「大丈夫。午前中休んだし」と、もう慣れてしまった嘘を送ると、「ならいいけど」とだけ返事が来た。疑いが晴れたわけじゃないことは、分かっていた。ごめんね、凪。今はまだ、言えない。
15時半過ぎ、家を出た。裏道の入口。心臓が、昨日までとは違う理由で速く打っていた。深呼吸をして、薄暗い路地へ入る。奥の、あの場所へ。
――なかった。
布を垂らした小さな場所は、なかった。テーブルも、椅子も、水晶玉も。占い師のおばあさんも。路地の奥は、ただの壁と、積まれた段ボールと、誰のか分からない自転車があるだけだった。
「……あの」
声を出してみた。返事はない。段ボールの影まで覗いた。昨日まで、確かにここにいたのに。夢だったんじゃない。私の身体に紋様がある以上、あれは夢じゃない。
待ち伏せでもするみたいに、私は路地の入口近くで立っていた。午後の人通りが、路地の前を何度も通り過ぎていく。誰もこちらを見ない。けれど、バイトの時間が迫っていた。これ以上は待てない。占い師は、現れなかった。まるで、用が済んだから消えたみたいに。
用が済んだ。……私に紋様を植えつけて、「あんたがあんたを好きになるためのものだよ」と言って。それで用は済んだ、ということなんだろうか。聞きたいことは山ほどあるのに。蕾のこと。この先のこと。消し方じゃなくてもいい、せめて「終わり」があるのかどうかだけでも。
17時から、書店のバイト。真壁くんと一緒のシフトだった。心ここにあらずで、新刊の平台に同じ本を二度並べかけて、彼に「それ、もう並んでるよ」と声をかけられた。「……ごめん、ぼうっとしてて」「大丈夫? 顔色、良くないよ」心配そうな顔に、私は「大丈夫」の笑顔で返した。「ほんとに平気か」と、片手で肩を優しく掴まれた。私は、普段触れてこない彼の態度に驚きつつも、そこまで心配されていたのかと感じ、同時に凪への申し訳なさも覚えながら、「大丈夫」と、言葉をひねり出して、すぐ彼から離れた。その時、下腹部の紋様がじっくりと熱を持ち始めていることに、私は気づかなかった。凪の気持ちを知っているからこそ決めている距離は、こんなときにも私を守って、同時に少しだけ締めつけた。閉店まで、身体の奥の微かな熱は、消えたり現れたりしていた。
帰宅は21時半。夕食を作る気力はなかった。冷凍のごはんを解凍して、昨日の残りの味噌汁を温める。食べながら、ノートパソコンで検索もした。「身体に咲く 花の紋様」「夜に疼く 痣 占い」――やっぱり何も出ない。本棚の民俗学の本も、もう一度めくった。印、呪い、契約。私の紋様に重なる記述は、なかった。
お風呂に入って、湯船の中で紋様を見た。蕾は、お湯の熱で色が濃くなったように見えた。触れて確かめることは、もう怖くてできなかった。だってこれは、私を慰めるための道具じゃない。合図で、きっかけで、それ以上は、私にはどうにもできないものだ。
21時50分。今夜は早めにベッドに入った。眠れるわけがないのに、横になっているほうが、座っているよりは楽だった。
22時。
疼きは、重く、深く来た。波の間隔が短いだけじゃない。一波ごとの「底」が深い。身体の奥の奥がうずいて、背筋に熱が這う。昨夜の「過去一番」は、あっさり更新された。
――男の人に、触れられたから? 夕方、真壁くんの手が肩に触れた、あの一瞬が蘇る。あの時、気づかないうちに熱を持ち始めていた紋様が、今夜の波を強くしているんだとしたら。男の人に触れられたから、いつもより激しいのかもしれない。その考えに行き着いて、私は暗闇の中で戸惑った。
我慢はしなかった。五日間で学んだことの一つは、我慢しても何も良くならない、ということだ。疼きが本格的になる前に、私は自分でおさめに行った。もう恥ずかしさで何度も止まったりはしない。指は迷わず、欲しい場所を知っていた。指先が触れた瞬間、「んっ……」と小さく声が漏れた。
昨夜初めて入れた指は、今夜は少しだけ大胆になった。一本の指が、浅いところで小さく波を作る。中の欲のありかは、まだ分からない。浅いところを撫でても、奥の疼きが残る。だからこそ今夜は、指先でもう少し深く、探るように動かしてみた。内側の熱い壁が指を締めつけて、奥に進むほど、身体のどこかが「そこじゃない、あと少し」と訴えるみたいだった。答えには、届かない。それでも入り口付近と中の浅いところを撫で続けるうちに、「ん、んっ……あ、……っ」と声が漏れて、甘い痺れは確かに強くなっていった。胸も同じように敏感で、乳首を転がす指と下の指が、身体の中で一つの波になった。
頂きは来た。深く、長く。「あ、あっ……ああ、……っ」身体が震えて、枕に埋めた顔から、堪えきれない声が漏れた。
でも、今夜はそれで終わらなかった。
頂きのあとも、疼きが残ったのだ。昨日までは、頂きと一緒にすうっと収まった熱が、今夜は奥のほうで燻り続けた。まるで、紋様が「まだ足りない」と言っているみたいに。忌み嫌っていた男の人を求めているかのような紋様の鼓動に、私は泣きそうになった。しかし、そんな心とは関係なしに、体は求めてくる。
私は二度目に挑んだ。今度はもっと時間をかけて、もっと丁寧に。「ん、……んっ」自分の身体の正解を探すみたいに、指を動かした。二度目の頂きは、一度目より浅く、短かった。それでも疼きは、完全には消えなかった。
時計は0時を回っていた。
結局、疼きが自然に引いたのは0時20分頃だったと思う。最後は、ただ熱が燃え尽きるのを待つしかなかった。汗で湿った前髪が額に貼りついて、呼吸がなかなか整わない。全身が、ひどく疲れていた。
……書いておく。六日目の記録。占い師は消えた。質問する相手は、もういない。そして疼きは、自分で慰めても収まりきらない夜が、初めて来た。
明日で、一週間。
占い師の言葉を思い出す。「ごまかしきれなくなるくらいに強くなる」。――そろそろ、その境目に来ているのかもしれない。
おやすみなさい、私。