澪の淫紋日記 作:白瀬澪
7日目
一週間。
朝、起き上がるのに時間がかかった。昨夜、眠れたのは1時を過ぎてからだ。身体の奥に、まだ微かな熱の残り火みたいなものがあった。朝の光の中で紋様を見ると、蕾は昨日よりさらに開いて、半分ほど花の形になっていた。蔓は両脇腹に届き、下腹部のほとんどを、濃い紫の意匠が覆っている。
初日、鏡の前で震えていた私が、遠い人のことみたいだった。
大学には、なんとか間に合った。駅までの道を小走りして、電車の中で吊革に掴まって目を閉じる。揺れに合わせて、身体の奥がうっすらと熱を持つ気がして、私は慌てて目を開けた。気のせいだ。たぶん。昼間に疼いたのは、あの一日だけだ。……そう信じたかった。
講義では、凪に「本当に大丈夫? 病院行ったほうがいいよ」と言われた。心配してくれるのは嬉しかった。嬉しかったのに、答えは用意された嘘しか出てこなかった。
「貧血の薬、もらってるから」
病院にも行っていないのに。嘘の上手さだけが、この一週間で一番成長したものかもしれない。それが一番、情けなかった。
午後、ゼミの先輩と短く話した。先輩は、私の草稿の直しを今日も見てくれるつもりだったらしく、放課後の予定を聞いてきた。一瞬、心臓が跳ねた。また近くで教われば、また昼に疼く。それが怖かった。でも――変な話だけれど――怖さと同じくらい、昨日のじゃない、一昨日のカフェの距離感を思い出して、胸が小さく騒いだのも事実だった。
「今日は、用事があって……」
私は断った。先輩は「無理しないでね」とだけ言って、笑ってくれた。その優しさが、胸に少し痛かった。
帰宅して、私は机に向かい、この一週間のノートを全部読み返した。初日の小さな花と蔓。二日目、三日目、四日目。蕾の出現、昼の疼き、初めての頂き、慰めても収まらない夜。七日分の記録は、他人の観察日誌みたいに整然としていた。――整然としているからこそ、分かることがある。
分かったことの、まとめ。
一つ、この紋様は、私が自分の欲に嘘をつくほど強くなり、正直になるほど静まる。たぶん。
二つ、男の人と長く近くでいたり、多く触れ合ったりした時は、夜を待たずに疼き、紋様は大きく育つ。
三つ、自分で慰めることは効く。でも、効き目は日に日に追いつかなくなっている。
四つ、占い師は消えた。答えをくれる人は、もういない。
……三つ目が、一番重かった。昨夜、二度慰めても疼きは残った。今夜は、どうなるんだろう。自分で自分をおさめる方法に、天井が見え始めている。考えたくないけれど、身体は正直だ。この先、さらに強くなったら――私一人では、もう抱えきれないかもしれない。
夕食を食べて、お風呂に入った。湯船の中で、半分開いた蕾を見つめる。この花が全部開いたとき、私はどうなるんだろう。占い師は言った。「あんたが、あんたを好きになるためのものだよ」。まだ好きにはなれていない。でも、初日の私みたいに、この紋様を「得体の知れない化け物」だとは、もう思っていなかった。それも、正直な変化だと思う。
21時50分。枕元の用意は、もう儀式のようだった。一週間目の夜。たぶん、今までで一番強い夜になる。
22時。
疼きは、予想を裏切らなかった。下腹部の奥から、大きくて深い波が押し寄せる。一波ごとに身体の芯が熱くなって、指先まで痺れるみたいだった。蔓が広がった分、熱の範囲も広がっている気がした。腰から下が、全部疼きに支配されていくような感覚。
私は最初から、自分でおさめに行った。迷いはなかった。この一週間で、身体はすっかり覚えてしまった。一番敏感な場所を撫でる指の動き、入り口を擦る強さ、浅いところを探る指の進め方。始めたときは本の知識が頼りだったのに、今は身体が先に知っている。
――はずだった。
甘い痺れは来る。波は高くなる。でも、あと少しのところで、頂きに届かない。何度やっても、同じ場所で波が砕けてしまう。身体の奥の奥で、紋様が熱く脈打って、もっと、もっと、と急かすみたいだった。この紋様は、もう私の知っている慰め方では満足しなくなっている。そんな気がした。
「……っ、なんで」
声が漏れた。焦りで指の動きが速くなる。強くなる。敏感な場所を執拗に擦り、もう片方の手で胸を揉み、乳首を摘まむ。「ん、んっ……あ、……っ」下の指は中へ、届かない奥を探して、浅いところから少しずつ深く。内側は熱く締めつけて、指先は必死に「そこ」を探す。でも届かない。身体だけが熱くて、汗が背中を流れて、シーツが湿る。頂きの手前で何度も跳ね返されて、そのたびに疼きが苛立たしく強くなった。
泣きたかった。怖さじゃなくて、あまりの必死さに。こんなに求めているのに、自分の手だけじゃ届かない。それが悔しくて、情けなくて、それでも手は止まらなかった。むしろ止められなかった。紋様の熱に背を押されて、私は夢中で自分を慰め続けた。速く、強く、深く。「んっ」「あっ、あ」――吐息なんかじゃなく、喘ぎそのものが行為の激しさを伝えてしまう声。そういう声を出すほうが、波が深くなることなんて、もう知っていた。それでも、堪える癖は抜けきらなくて、漏れる声は半分、枕に吸われていった。呼吸は乱れて、枕が涙と汗で湿った。
どれくらい続けたんだろう。腕が疲れて、指が震えて、それでも――。
突然、来た。
身体の芯を、下から突き上げるような大きな波。今までのどれとも違う、逃げ場のない頂き。内側が何度も何度も強く締めつけて、背筋が大きくしなって、「あっ、あっ、ああっ……あっ、あっ、ああっ、……っ」視界が白く霞んだ。甘い、という言葉じゃ足りない。身体ごと持っていかれるみたいな波が、長く、長く続いて――。
そこで、意識が、すとんと落ちた。
次に気づいたとき、私は布団の上で、ぐったりと横向きに倒れていた。時計は1時を回っている。気絶、というほど大げさなものじゃないのかもしれない。でも数十分の記憶が、綺麗に抜け落ちていた。汗で冷えた身体が小刻みに震えて、指先の感覚が遠い。
疼きは、嘘みたいに引いていた。身体の奥に残っていた小さな火種も、今はもう見当たらない。代わりに残ったのは、全身を絞り尽くしたような疲労と、びっくりするほど静かな頭だった。
震える手でペンを取る。今日のまとめに、最後の一行を書き足す。
五つ、今までのやり方では、もう届かなくなった。この紋様は、もっと強い欲を欲している。――来週の私は、きっと今日までの方法だけではやっていけない。何かが、変わる。変えなきゃいけない。
ペンを置いたら、そのまま眠りに落ちた。
一週間目の夜、終わり。――まだ、物語は途中だ。
おやすみなさい、私。