澪の淫紋日記 作:白瀬澪
8日目
二週間目が始まった。
朝の鏡では、蕾はもう「半分開いた花」だった。中央の花と並んで、姉妹みたいに二つ。蔓は脇腹を回って、背中のほうへまで伸びようとしている。スケッチ帳の絵は、もはや植物図鑑の挿絵みたいだった。
昨夜、必死に慰めて、気絶するように眠った身体は重かった。でも不思議と、頭は澄んでいた。今日の私は、昨日の私より少しだけ、この紋様と一緒に生きる覚悟ができていた気がする。……そんな覚悟が、夜にはまた試されるんだろうけど。
朝食を食べながら、スケッチ帳を広げた。七日分の紋様の記録。初日の小さな花が、今は二つの花と広い蔓になっている。並べて見ると、植物の成長記録というより、私の七日間の日記そのものだった。今日の分も描く。花びらの形、蔓の届いた場所。描きながら思った。この先、私の身体はどうなっていくんだろう。「分かったこと」のまとめを書いた昨日、私は「何かが変わる」と書いた。変わるのは、紋様だけじゃないのかもしれない。
大学では、ゼミの時間に白鳥先輩と隣の席になった。先輩は私の顔を見るなり、眉を寄せた。
「白瀬さん、顔色、本当に悪いよ。……昨日も眠れてないの?」
「大丈夫です、少し寝不足で」
「先週からずっとだよね」
言い淀む私に、先輩は声を落とした。
「病院、行った? ……ごめん、しつこいよね。でも、心配で」
その真っ直ぐな心配に、胸がちくりと痛んだ。嘘をつくのが、下手になっていく気がした。
昼休み、図書館の書庫で司書実習の整理作業があった。担当は、私と先輩の二人。静かな書庫で、本の背表紙を一冊ずつ確認していく。先輩は作業の合間に何度も私の様子を窺って、無理をしていないか確かめるみたいに、重い本の束をさりげなく自分の側に引き受けてくれた。
「先輩、私の分まで……」
「いいの。……白瀬さんは、本当に無理するから」
その言い方が、なんだか兄みたいで、私は少し笑った。白鳥悠という人は、こういう人だ。真面目で、優しくて、人の重い荷物を当然みたいに引き受けてしまう。名前の「白」が揃っていることと、本の話が合うこと。最初はその二つで親しくなったけれど、今はそれ以上の信頼があった。……信頼。そう、私にとって先輩は、信頼できる優しい先輩だった。それ以上でも、それ以下でもなかった。はずだった。
書庫の奥、背の高い本棚に挟まれた通路で、高い所の本を取ろうとして私は少しよろめいた。昨夜の疲労が、足に残っていたんだと思う。
「白瀬さん!」
先輩の手が、私の肩を支えた。踏み台の椅子に座らせて、先輩は私の前に膝をついた。本棚と本棚の間、薄暗くて、静かで、世界に二人だけみたいな場所だった。
「大丈夫? 立てる?」
「大丈夫です。少し、目が回っただけで」
「……白瀬さん」
先輩は眼鏡の奥から、私をまっすぐに見た。言い淀んで、言い直して、そのたびに声が小さくなった。
「先週から、ずっとだよ。講義中、居眠りしそうになってた。ノート、同じ行を二回書いてた日もあった。顔色も、ずっと悪い。……さっきだって、倒れかけてた」
「そんなに、見てたんですか」
「見てた。……見てることしか、できなかったけど」
先輩の手が、膝の上でぎゅっと握られた。
「何があったのかは、聞かない。聞けない理由があるなら、それでもいい。でも白瀬さん、君は『大丈夫』って言うたびに、大丈夫じゃなくなってる。それが、見てて辛いんだ」
「大丈夫です。夜更かしが続いてただけですぐ良くなりますよ。わたし身体は丈夫ですから」
「大丈夫じゃないでしょう!」
声が、書庫に響いた。私の肩が、びくりと跳ねた。息を呑んで、先輩の顔を見上げる。……先輩が、こんな声を出すなんて。いつも穏やかで、誰に対しても声を荒げたことのない人が。その驚きが大きすぎて、私は一言も出なかった。
先輩も、自分の声に弾かれたみたいに目を見開いて、それから深く息を吸った。呼吸が、少し荒い。膝の上の拳はまだ握られたままで、その拳の震えが、止まらなかった。
静かな書庫に、二人の呼吸だけが聞こえた。先輩は一度、伏し目になって、それから――何かを、身体の奥からひねり出すみたいに、声を絞った。
「……ごめん。大きな声、出して。でも、」
先輩が顔を上げた。眼鏡の奥の目が、まっすぐ私を見ていた。逃げ場のない、熱を持った目だった。
「白瀬さんが、好きです」
震える声。でも、今度は引かなかった。
「ずっと、言えなかった。本の話をするときの顔も、真面目なところも、無理して笑うところも、全部見てて。……気づいたら、目で追ってた」
心臓が、跳ねた。
「体調が悪いのに、こんなときに言うのはずるいと思う。でも、見てるのが辛くて。頼ってほしい、なんて、偉そうなことは言えないけど。……僕じゃ、だめかな」
先輩の両手が、私の両肩を掴んだ。細い指が、震えていた。そして、そのまま、そっと引き寄せられた。先輩の胸に、私の額が触れる。抱きつかれた、というより、包まれた。先輩の身体は思ったより薄くて、でも温かくて、制汗剤じゃない、紙とインクみたいな匂いがした。
「……考えさせてください」
私の声は、やっとそれだけだった。先輩はすぐに離れて、「ごめん、急に」と慌てて謝った。その赤い耳を見て、私は自分の頬も熱いことを知った。
ドキドキした。男性に慣れていない私が、抱きしめられたことに動揺した。それは分かっていた。分かっていたはずなのに――。
帰り道、夕方の空の下で、私はずっと先輩の胸の温かさを思い出していた。紋様が、そのたびに微かに熱を持つのが分かった。……気のせい、だと思いたかった。
駅前の本屋の前を通りかかって、足が止まった。いつもの癖だ。でも今日は、店に入っても本の帯の文句が頭に入らなかった。代わりに思い出すのは、書庫の薄暗さと、先輩の震える声と、「好きです」という言葉。男性に慣れていない私は、あんな真剣に告白されたことは初めてだった。嬉しさと戸惑いが、胸の中で同じくらいの大きさで膨らんでいた。
帰宅して、お風呂に入った。湯船の中で紋様を見る。……不思議なことがあった。先輩に抱きしめられた場面を思い出すと、紋様がほんのりと熱を持つのだ。偶然かもしれない。でも、思い出すたびに、確かに熱くなる。胸のドキドキと、下腹部の熱が、連動しているみたいだった。
夜。22時。
疼きは、やっぱり来た。今夜も強い。でも、いつもと少しだけ違った。私が自分を慰め始めたとき、指の感触より先に、今日の昼の書庫の場面が蘇った。肩を掴む両手。引き寄せられる感覚。先輩の胸の温かさ、匂い。その記憶を辿るたびに、身体が、疼きとは別の熱で満ちていくのが分かった。
今まで、私の慰めは「疼きをおさめるため」だった。今夜は違った。指先が一番敏感な場所を撫で始めたとき、「ん、……っ」と小さく息が漏れて、頭に浮かんだのは昼間の書庫の光景だった。私の両肩を掴んだ、先輩の両手。細い指の、震える温かさ。その手が、今、私の身体を辿っているみたいな錯覚に、背筋が震えた。
想像の中で、先輩の手が下へ降りていく。私の指は、その想像に重なるみたいに動いた。敏感な場所を円を描くように撫でる指先は私のものなのに、頭の中では先輩の指だった。入り口を擦る感触に、昼間、胸に額を押し当てたときの先輩の匂いまで蘇って、「ん、んっ……は、……っ」と漏れる息と一緒に、私の呼吸はどんどん乱れていった。
「……せん、ぱい……」
声が、漏れた。自分の声に自分で驚いて、一瞬、指が止まった。誰もいない部屋で、布団の中で、私は先輩の名を呼んで、自分を慰めていた。その事実に、耳まで熱くなった。恥ずかしい。恥ずかしいのに、身体はもう止まらなかった。むしろ、その名前を口にした瞬間から、身体の奥の熱が一段と強くなったみたいだった。あんなに男性を避けてきた私が、先輩を素直に求めている。そのことへの驚きはあった。でも今は、この熱を逃がしたくなかった。
指の動きは速くなった。胸に回したもう片方の手が、昼間、先輩の掌があった場所――肩から背中へ、温もりの記憶をなぞる。今夜の私は、疼きをおさめるためだけじゃなく、先輩の温もりを、もう一度感じたくて手を動かしていた。
頂きは、今夜は案外あっさり来た。身体が大きく震えた瞬間、私は枕に顔を埋めて、「ん、あ……っ」と声を漏らして、もう一度だけ小さく、先輩の名を呼んだ。先輩のことを考えながら達した、その事実が、波の引いたあとの静けさの中で、私をじっと見つめ返していた。
身体がほどけていく中で、昼間の書庫の温もりと、今の快さが、ひとつに重なった。先輩の震える手。熱を持った目。「好きです」という声。その全部が、私を包んでいた。その全部が、頭の中に焼き付いていくのが分かった。
……幸せ、だった。
この一週間、夜はいつも疼きとの戦いだった。でも今夜の終わりは違った。身体は軽くて、心は穏やかで、眠気が温かい毛布みたいに私を包んだ。返事のことも、紋様のことも、明日の私に任せていい気がした。
枕に顔を埋めたまま、私は小さく微笑んでいたと思う。そのまま、波の来ない、静かな眠りに落ちた。
おやすみなさい、私。……おやすみなさい、先輩。