※この作品はR-18です。

澪の淫紋日記   作:白瀬澪

9 / 9
9日目 受け入れた日

 

【挿絵表示】

 

9日目

 

一晩、考えた。

 

……考えた、と言えば聞こえはいいけれど、本当は、明け方に目が覚めてから眠れなくなっただけだ。昨夜はあんなに安らかに眠れたのに、朝の静けさの中で、先輩の告白の言葉と、抱きしめられた感触と、自分を慰めながら先輩を思い出してしまったことを、ぐるぐる繰り返していた。

 

朝の鏡。紋様は今日も静かに熱を持っている。私が「好き」だと思い込めば、この熱は静まるんだろうか。占い師は言った。「あんたが自分の欲に嘘をついている限り、強くなる」。だとしたら、今のこの気持ちを嘘にしないことが、答えなのかもしれない。

 

講義の間も、頭の中は先輩のことでいっぱいだった。ノートの余白に、無意識に「白」という字を書いて消した。白瀬と、白鳥。最初に先輩と話したとき、この偶然が嬉しくて、二人で笑った日のことを思い出す。本の話をして、好きな作家が何人か重なっていて、それだけで距離が縮まった。あの親しみは本物だ。そこに、昨日の抱擁と、昨夜の身体の反応が、上乗せされた。

 

……好き、というのは、こういうことの積み重ねなんじゃないだろうか。私は、そう自分を納得させた。納得させた、という言い方が正しいことには、あえて目を向けなかった。

 

私は先輩が好きなんだ。たぶん、ずっとそうだったのに、気づかないふりをしていただけなんだ。

 

そう結論づけたとき、不思議なくらい心が軽くなった。身体の奥の熱も、肯定されたみたいに穏やかだった。――この解釈が正しいかどうかは、今の私には分からなかった。分からなかったけれど、間違っていたら、そのときに考えればいい。そう思うことにした。

 

放課後、図書館の入り口で先輩を待った。

 

「昨日の返事……してもいいですか」

 

先輩は緊張した顔で頷いた。眼鏡の奥の目が、泳いでいる。

 

「私で、よければ。……お付き合い、してください」

 

先輩は一瞬、言葉を失って、それから「本当に?」と何度も聞いた。私が頷くたびに、先輩の顔がほころんでいく。張り詰めていた肩の力が、すとんと抜けるのが分かった。先輩は大きく息を吐いて、へなへなと、その場に座り込みそうになった。

 

「……よかった。断られる夢、昨夜だけで三回見た。……いや、それより」

 

先輩は私の顔を覗き込んだ。まだ少し、心配そうだった。

 

「白瀬さんの具合が心配で、それもあって昨日は眠れなかったんだ。……具合の悪い白瀬さんに、告白までしてしまったし」

 

「謝らないで、ください。……私、嬉しかった、です」

 

私が言うと、先輩はようやく、本当に安心したみたいに笑った。その嬉しそうな顔を見ていたら、私の胸も温かくなった。これが恋の始まりなんだと、そのときは信じていた。

 

帰り道、二人で歩いた。並んで歩く距離が、昨日までより少しだけ近い。駅前の書店で、二人とも足が止まって、同じ新刊の棚を見て笑った。白瀬と白鳥。本の好きな、二人。これから、こういう時間が増えていくんだと思った。

 

「白瀬さん、最近読んだ本で、一番よかったのは?」

 

帰り道、先輩が聞いた。私が答えると、先輩は「それ、僕も気になってた」と笑った。こういう何でもない会話が、付き合う前と何も変わらないのに、少しだけ特別に感じた。駅に着いて、別れ際、先輩が「明日も、会えるね」と言った。その「明日も」の響きが、胸に残った。――でも、まだ離れたくなかった。

 

「先輩、もう少し時間ありませんか? よかったら、私の家でお話ししませんか。もっと先輩を知りたいし、感じたい」

 

言ってから、自分の言葉の大胆さに、自分で驚いた。先輩は一瞬きょとんとして、それから照れたみたいに眼鏡を直した。

 

「……いいの? 僕も、もっと白瀬さんのこと、知りたい」

 

そう答えてくれたから、私は先輩を私の部屋に招き入れた。紅茶を淹れる手が震えた。先輩も緊張していて、湯呑みを両手で持って、少しずつ飲んでいた。

 

部屋の本棚を見て、先輩が「すごい量だね」と笑った。好きな本の話をしている間は、普通の先輩と後輩だった。でも、会話が途切れた瞬間の沈黙が、昨日までと違った。先輩が私の向かいに座って、湯呑みを見つめている。その横顔を見ながら、私の心臓はうるさかった。

 

不思議だったのは、身体の奥の熱が、先輩がそばにいる間、ずっと穏やかだったことだ。疼くのではなく、満たされているみたいに、静かにそこにあった。この静けさが答えなんだと、そのときの私は信じたかった。

 

夜の、静かな時間だった。

 

先輩は、九時前には帰ろうとした。

 

「今日はもう帰るよ。白瀬さんの具合が悪いんだから、早く休まないと」

 

玄関で靴を履く先輩の背中を見ていたら、身体が先に動いていた。私は、先輩のシャツの裾を掴んでいた。

 

「……まだ、帰らないで、ください」

 

先輩が、驚いて振り返った。

 

「それは……そういうふうに捉えて、いいの?」

 

「はい」

 

私は俯いたまま、か細い声をひねり出した。

 

きっと、体調の悪い私に、先輩から手を出すつもりは、最初からなかったんだと思う。だからこそ、私から言わなければならなかった。――初めて、人を「求めた」瞬間だった。

 

先輩の手が、私の頬に触れた。震えていた。キスはぎこちなくて、鼻がぶつかって、二人で小さく笑った。その笑いで、少しだけ緊張がほどけた。

 

ベッドに座って、先輩の手が恐る恐る私の身体を辿る。傷つけないよう、優しく触れるたびに、私の身体は先輩を受け入れる準備をしていった。

 

先輩の手が、ブラウスの上から、私の胸に触れた。恐る恐る、形を確かめるみたいに。「……いい?」「……はい」頷くたびに、指の動きが少しずつ確かになっていく。ボタンの間から手が入って、下着の上から先端を撫でられた瞬間――「あっ」声が、漏れた。自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。初めて、男性の手に触れられている。知識じゃなく、身体が先に理解した。身体中が歓喜に包まれていくみたいに熱くなって、触れられる場所から痺れが広がった。恥ずかしさで顔を背けると、先輩が嬉しそうに息を吐いた。「……よかった。白瀬さんの声、聞けて。……もっと、聞きたいな」耳まで赤くしながら言う先輩に、頷く代わりに、私の口からは喘ぎがこぼれていった。「ん、……っ。あ、……ん」素直に答えるみたいに、指が動くたび、声が止まらなかった。その声に応えるように、先輩の指は少しずつ大胆になった。首筋に唇が降りて、鎖骨を辿る。スカートの上から太ももを撫でる手の熱さに、私の脚が小さく震えた。下着の中は、もう濡れ始めていたと思う。身体は、もう正直だった。

 

先輩が自分のシャツを脱いだとき、私は初めて、男性の裸を間近で見た。

 

思っていたより、ずっと華奢だった。胸板は薄くて、肋の輪郭がほのかに浮かんでいる。鎖骨から胸にかけての肌は白くて、私の知っている「男性」という像より、ずっと儚い。でも、書庫で抱きしめられたときの腕の力は本物で、その細さと強さの同居が不思議だった。先輩の胸の、小さな突起。規則正しく上下する呼吸。私の心臓は、自分の裸を見られることより、見ていることのほうにうるさかった。

 

先輩が下も脱いで、私は――思わず、目を逸らした。でも、逸らす前の一瞬で、見てしまった。

 

男性の、あの部分。恋愛小説では曖昧にしか書かれていなかったものが、目の前にあった。正直に書く。思っていたのと、全然違った。硬く上を向いて、熱を持っているのが見ただけで分かる色をしていて、その大きさに、私は少し怖くなった。あれが、私の中に。……入るんだろうか。怖さと、それでも目が離せない感じが、胸の中で喧嘩していた。

 

「……見すぎ、かな。貧相でごめん」

 

先輩が恥ずかしそうに手で隠そうとして、私は慌てて首を振った。違う、怖いだけじゃない。知りたかったんだ。この人の身体を、全部。

 

「そんなこと無いです……触って、いいですか」

 

声が震えた。先輩が頷いて、私の指が触れたとき、それは指の下で小さく跳ねた。生き物みたいだ、と思った。熱くて、硬いのに肌は柔らかくて、私の指に正直に反応する。その正直さに、なんだか可笑しくなって、それから急に恥ずかしくなった。

 

私の服も脱げて、下着だけになったとき、恥ずかしさで腕で身体を隠した。――紋様のことが、一瞬、頭をよぎった。見られる。でも私はとっさに、部屋の明かりを落とした。先輩は何も聞かず、暗がりの中で私の目だけを見て、「綺麗だよ」と声を震わせた。紋様は、影の中に隠れた。

 

暗がりの中で、先輩の手がまた私の身体を辿った。下着の上から胸を揉まれて、先端を指で転がされるたび、「あ、……ん、……っ」と声が漏れた。「白瀬さんの声……好きだ」先輩が耳元で囁いた。「ごめん、僕ばっかり、夢中になって」「……そんなこと、ないです」私の身体だって、こんなに熱くなっている。先輩の指が下着の中へ滑り込んで、一番敏感な場所に触れた瞬間、「あぁっ……」と背中が反った。「……すごい。熱くて、濡れてる」先輩の声が震えた。恥ずかしくて顔を隠す私の手を、先輩は優しく外して、キスをした。

 

先輩が、手探りで何かを探し出して、自分のものに付け始めた。不思議に思って見ていると、薄いゴムだった。

 

「こんなことになると思わなかったけど、友人に『男は普段から持ち歩いとけ。それがエチケットってもんだ』って、押し付けられてたんだ。使うことはないと思ってたけど、おかげで助かったよ」

 

「ふふっ、優しい友人ですね」

 

「だよね」

 

二人で笑い合った。おかげで、初めてのことへの緊張と恐怖が、ほぐれていた。

 

「じゃあ、いいかな」

 

「……はい。来て、ください」

 

……初めてのことは、痛かった。

 

先輩がゆっくりと入ってきたとき、身体が強張って、痛みで息が止まった。「ごめん、痛いよね。止める?」先輩はすぐに動きを止めて、私の額の汗を指で拭った。「……大丈夫。ゆっくり、でいいから」私が言うと、先輩は頷いて、私の呼吸に合わせるみたいに、少しずつ、少しずつ動き始めた。

 

痛みは、少しずつ別のものに変わっていった。身体の奥が、先輩の形に馴染んでいく。押し返されるたびに、「ん、……んっ」と小さく息が漏れた。満ちている、という感覚。紋様の疼きとは違う、確かな充足感が、下腹部から静かに広がった。

 

「……っ、悠、……」

 

思わず、名前を呼んでいた。自分でも驚いた。先輩の動きが一瞬止まって、それから耳まで赤くして、「……もう一回、呼んで」と小さく言った。その声が嬉しそうで、私は恥ずかしさで顔を背けながらも、もう一度だけ、名前を呼んだ。

 

名前を呼んだあと、先輩の動きは、優しいまま、ほんの少しだけ深くなった。そのあとのことは、今も全部、思い出せる。思い出せる、なんてものじゃない。目を閉じれば、順番に蘇ってくる。

 

先輩は、私が痛がらないように、ずっとゆっくり動いてくれた。満ちていく感覚が身体に馴染むにつれて、私の身体のほうが先に変わっていった。奥が先輩の形を受け入れて、押し返されるたびに、別の熱が満ちてくる。「ん、……っ」堪えているつもりでも、声が漏れた。その声に先輩の動きが一瞬止まって、耳元で「……大丈夫? ごめん。けど、僕もゆとり無くて」と聞く呼吸が、さっきより荒かった。

 

先輩も、我慢していたんだ。私に合わせるために、ずっと。そう気づいたとき、胸の奥が、きゅっとした。

 

「……悠」

 

もう一度呼ぶと、先輩は私の肩口に顔を埋めて、小さく頷いたみたいに震えた。それから顔を上げて、額を私の額に寄せた。眼鏡は、もう外れていた。熱を持った目が、近くにあった。

 

「……ごめん。僕も、もう、我慢できなくて」

 

掠れた声だった。私に合わせるために抑えていたものが、言葉の端から溢れていた。

 

「白瀬さん……白瀬さん、……っ」

 

先輩が私の名を呼びながら、動きが深くなっていった。優しさは残っていた。でも、もう止まれない、という感じがした。私の背中に回った腕に力が入る。肋の浮いた華奢な身体が、私を逃がさないみたいに覆いかぶさってくる。耳元で、先輩の息が荒く弾む。「はぁ、はぁ……気持ちいい。白瀬さんの中、熱くて、……っ」

 

「あ、……ん、……っ。んんっ……あ、あっ」

 

私の声も、もう止まらなかった。身体の奥で、先輩と触れ合っている場所が熱くて、満ちていて、それが波みたいに全身に広がっていく。押し返されるたびに、私の内側が先輩を迎え入れるみたいに締まって、そのたびに先輩の呼吸が乱れた。頂き、というほどの大きなものじゃなかった。でも、奥のほうで身体がきゅっと締まって、長く痺れるような波が、私の中を通り過ぎていった。

 

そして、先輩が果てた。

 

動きが、最後は夢中みたいに速く、深くなって、止まって。「白瀬、さん……っ」私の名前を呼んで、先輩の身体が大きく震えた。私を抱きしめる腕の力が急に強くなって、身体の奥で、先輩が脈打つのが分かった。ゴムの中で、先輩が果てていくのが伝わってきた。

 

――ああ、この人は今、私を求めきっている。

 

頭じゃなく、身体で分かった。先輩の欲の全部が、私に向けられて、私の中で弾けた。そのことに、私は震えるほど感動していた。嬉しい、とか、恥ずかしい、とかじゃない。もっと奥の、名前のない感情だった。求められるって、こういうことなんだ。私の身体が、この人の欲を受け止めている。それが、こんなにも――。

 

先輩はしばらく、私に体重を預けたまま動かなかった。荒い呼吸が、少しずつ静かになっていく。私の身体の中で、先輩がまだ小さく脈打っていた。

 

あったのは、安堵だけじゃなかった。私を受け入れてくれる人がいる。私の身体の熱は、この人の腕の中でなら、静まっていく。それに加えて――私を求めてくれる人がいる、という、焼けるような実感だった。

 

終わったあと、先輩は私の髪を撫でながら、「ありがとう」と小さく言った。私は先輩の腕の中で、久しぶりに、何も考えずにいられた。不思議と、頭が少しすっきりしていた。初めて、人を「求めた」。そのことが、九日間ずっと頭の中にかかっていた霧を、少しだけ晴らしたみたいだった。

 

先輩は行為の後片付けを始めた。精液の入ったゴムを外したとき、さっき私が感動した「何か」が、そこにある気がして、興味に駆られて、思わず

 

「それ、見せてもらっていいですか」と声をかけていた。

 

先輩からそれを受け取って、ゴムの中に溜まったものを、手のひらに取り出してみた。

 

それはまだ熱を持っていて、先輩の欲の元のようだった。匂いを嗅いだり、指で触ったりした。もともと読書家だ。知らないことへの興味は、強い。

 

先輩は、そんな私の行動にびっくりしたみたいで、慌てて近くのティッシュで私の手を拭いて、「だめだよ。汚いよ。そんな、僕のものなんて……」

 

彼にとっては、自分が放ったものが、私を汚す物みたいに感じられたのかもしれない。私は、あんなにも感動したのに。

 

「ゆっくり休もう。初めてで、体力も使ってしまったよね」そう言って、先ほどの精液への興味を忘れさせるように、先輩は私に腕枕をして、優しく包んでくれた。

 

「ゆっくりおやすみ。良い夢を」

 

その先輩の言葉の通り、私は眠ってしまったのだと思う。時計を見る余裕もなかった。身体は満たされて、重くて、温かくて、眠気がすぐに私を連れていった。22時がいつ来て、いつ過ぎたのかも分からない。波の気配すら、なかった。――いや、気づかなかっただけかもしれない。でも、それでよかった。初めて、波を数えずに眠れた夜だった。

 

おやすみなさい、私。――今日は、本当にいい日だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。