攻守逆転という言葉がある。
世の中のあらゆる所で使われているこの言葉に抱く率直な印象は、「場を盛り上げるための方法」というものだ。
例えば野球。
あのスポーツはスリーアウトで攻守が交代して、それを何度も繰り返すというルールがあってこそ、様々なモチベーションや戦略、駆け引きやドラマが生まれる。
この言葉を人間関係、特に男女関係に当てはめると、また意味が変わってくる。
攻める側というのは、ざっくり言えば「優位に立って相手をかき乱したり、手の平の上で転がしたりする」側を指すのだと思う。
受ける側はそれに翻弄される側のこと。
ウケる側は折本。
埋めるべきは川崎大志。
そんな感じだ。
どんな感じだ。
俺で言えば、この言葉は雪乃との関係に当てはめることが出来る。
普段の雪乃は極めて優秀で頭の回転も速く、未だにみんなの前では彩り豊かな罵詈雑言罵倒暴言で俺を滅多打ちにしてくる。
打たれ過ぎてたまに気持ち良くなることがあるから余計にまずい。マジで。
そして二人きり……特に、行為に及ぶ時は、雪乃からの多少の抵抗はあれど、基本的には俺が攻めになる。攻めというか責めだ。
雪乃の反応が楽しく毎回ついやりすぎてしまうが、それを雪乃が何だかんだで嬉しがっているもんだからもう歯止めが利かない。
きっと、これが。
俺と雪乃の、攻守逆転というものだ。
どちらもあるからこそ、程好いバランスが保たれて、二人の間に流れる空気がいつも心地良くなっているのだと思う。
雪乃、ストレス溜まってる時は心持ち罵倒の圧が上がるしな。たまに由比ヶ浜がおろおろしてる時あるし。それで夜はお返しで三回くらい気絶させるから、お互いすっきりするっていうね。
ちなみにたっぷりお返しした翌朝、小町と顔を合わせたら「お兄ちゃん。今日からお兄ちゃんの名前は比企谷・ウェアウルフ・八幡ね」と勝手にミドルネームを付けられた。
略して比企谷・W・八幡にすればニコラス・D・ウルフウッドみたいな響きに……ならねえな。
攻められて、責める。
それが、俺と雪乃が培った、バランス。
「……そのはず、なんだけどなぁ……」
独り言ちて、ため息を吐く。
猫背な背中は、いつも以上に丸まっている。
場所は雪乃の家のリビング。
座っているのは俺用のふわふわクッション。
「あなたに下敷きにされてしまってはパンさんも猫も浮かばれないわ」
中々ひどいことを言われ、俺のクッションはシンプルな色合いのものになった。「パンさんがお前の尻に敷かれるのは良いんだな」とセクハラ紛い(というかアウト)の言葉を返したら、瞬間的に部屋の温度が三度くらい下がった。「なんか寒いな……」と言うと「温めてあげても良いわよ?」とにこやかに手を広げられたんだけど、多分抱きしめられたら氷漬けになるパターンのやつだからやめておいた。
クッションの話なげぇな、俺。
楽しかったし惚気たいだけですごめんなさい。
時計をちらりと見る。
夕飯にはちょうど良い時間帯だ。
ドアの向こうから聞こえてくる、包丁とまな板が織りなす心地良い音色は、雪乃の料理の手際を雄弁に物語っている。
雪乃の料理は完璧すぎて嫁っぽい感じがしない……なんてことを、一年近く前の家庭科室で雪乃の料理を食べた時(あの時は他にも色々な人の料理を食べたが)思ったのだけど。
それを以前、雪乃にぽろっと漏らした所、それはそれは燃え盛って(頑張ればメドローアを使えそう)、「絶対あなたに家庭的と言わせてやるわ」と努力のベクトルが若干合ってない気がすることを言われた。
それからの雪乃の料理に対する力の入れっぷりは、それはそれは半端の無いもので。
俺に弁当を作っては反応を見たり、夕食を作っては反応を見たり、「美味いしこれは家庭的っぽい」と俺が言えば「明日までに具体的にどういった点が家庭的と思ったのかを三千字から五千字でまとめなさい」とえげつないことを言ったり。
どんだけ熱心なんだよ、と若干辟易することはあったけれど。
俺が喜んだ時の、あいつの幸せそうな顔が忘れられそうにないくらい綺麗で。
うん、ほんと健気だ。うちのよ……雪乃。
ご飯の話なげぇな、俺。
楽しかったし惚気たいだけですごめんなさい。
「お待たせ、八幡」
「……おう」
何だかんだで雪乃のことばっかり考えていたら本人が登場して、ちょっと声が上ずる。
雪乃は俺の様子を見てはてと首を傾げた。どうでも良いけど、きょとんとした顔がどんどんあどけない可愛さを醸し出すようになってきていて正直やばい。
俺の惚気の連射もやばい。
「そこに運ぶから、手伝ってくれるかしら」
「おう、わかった」
どきどきしながら膝に手を当て、腰を上げる。
心臓が、早鐘を打っている。
雪乃が俺に背を向けたタイミングで、たまらず自分の胸をぎゅっと掴んだ。
性的な興奮というより、これは本当に初心な緊張だ。
なんだろう、これは。
いつもとは違う雪乃に翻弄されて、さっきまで頭を抱えていたのに。
今だってその状況は変わっていないのに。
何と言うか、そんな経験は無いんだけども。
年上のお姉さんに弄ばれているような、そんな感覚。
次は、雪乃がどんなことを仕掛けてくるのか。
それが、怖くてしょうがない。
そして、楽しみでしょうがない。
そんな感情を抱いていることに気付いてしまった。
「…………」
ぴたりと。
雪乃が俺に背を向けたまま、歩を進めるのを止めた。
「……どうした」
空気の質感の変化を肌で感じ取り、恐る恐る尋ねる。
雪乃が振り向いた。
その顔には、正の感情も負の感情も抱いていないような、不思議な表情を浮かべている。
雪乃が俺に一歩近づく。
思わず、一歩退く。
雪乃が首を傾げる。
その仕草に心臓が鷲掴みにされる。
雪乃がもう一歩近付く。
俺は動けない。
「八幡」
雪乃が俺を呼ぶ声が、緊張で張り詰めた空気に冷たい刃を走らせて、俺の心臓に直接突き刺さる。
俺は、まだ動けない。
息を呑むことも出来ない。
雪乃がもう一歩近付く。
「……何を、緊張しているのかしら」
穏やかな声音で発した筈の言葉が、俺の身体をがんじ絡めにする。
雪乃の手が、そっと俺の両頬に伸びた。
キッチンは寒かったんだろうか、その手は幾分冷たい。
手を重ねて温もりを分け合うと、雪乃が柔らかく微笑んだ。
「……ねえ、どうして?」
「……っ」
続けられる疑問に、何の言葉も出ない。
だって、答えようがない。
俺だって、何でこんなに気持ちが昂ぶっているのか分からないんだから。
怖いのに、期待してしまう。
何が何だか分からない。
つい今さっきまでは初心な緊張だなんて言っていたのに、今二人の間に流れる空気は薄紫色の妖しさしか放っていない。
雪乃が、おでこ同士をこつんとぶつけた。
「……ふふ。まるで借りてきた猫みたいじゃない」
「実際お前の家では借りてきた猫みたいなもんだけどな。食べ物ももらってるし」
「律儀に食費を払ってくれているのに何を言っているのよ。……それに、ずっと居れば借り猫じゃなくなるわ」
「……それもそうだな」
言うと、雪乃が目を細めて蠱惑的に微笑む。
文字通り目と鼻の先で見るその笑みの破壊力は著しく。
ごくりと息を呑むと、雪乃の口から紅い粘膜が顔を出した。
まるで別の生き物のように見える粘膜が、妖しく蠢いて俺の上唇と下唇の境目を何度もなぞる。
快感に耐え切れず、唇を開いて侵入を許す。
咄嗟に雪乃の肩を掴むと、雪乃は俺の背中に腕を回した。
「んふぅっ、んむふっ、んちゅるるっ、ちゅく、れろれろ、ぴちゃ、ちゅるるる……っ」
「……っ」
緩慢な動作で、雪乃の舌が俺の口腔粘膜を舐り回す。
背中に回された手にぎゅっと力が込められて、密着度が増す。
おぞましい程の期待に、身体が震える。
もっと雪乃に味わわれたい、そう思って、俺も手に力を込めたところで……雪乃の柔らかな肢体がひょいっと離れた。
「あ……っ?」
思わず声を上げると、雪乃が楽しそうに目で笑う。
温もりを欲する俺の感情に気付いたのか、おでこに再び触れてくすりと笑った。
「あら、本当に猫みたいね。ぜひ飼いたいところだわ」
「こんなお預けばっか食らってたら三日で死んじまうっつの」
「あら、三日も持つ気でいるの?」
「どんだけ責める気なんだよ……」
他愛の無い会話を続ける。
雪乃の小さな口から零れる吐息が、口付けを経て甘露のような匂いを発する。
心地良い香りに頭がくらくらしていると、雪乃がすっと離れて、くるりと背を向けた。
「それじゃ、お料理を運びましょう。せっかく作ったのに冷めてしまうわ」
「……ああ」
時間にすればほんの数分程度の出来事だったというのに。
まるで、何時間もそうしていたかのように感じた。
雪乃の背中を見つめながら、ひたすら考えてしまう。
……本当に、何なんだ……。
続く。
ゆきのんでした。
テンポの良さ、ゆきのんとのやりとり、妖しい空気の描写に意識を置きつつ。
褒められるとやる気出るんだなって、改めて思いました。
今まで散々褒めてもらっておいて難ですが、気が向いたらもう常連の方初めましての方問わずでがんがん褒めて頂けませんか!w
それでは、また明日ここでお会いしましょう(^^)!
今回もお読み頂きありがとうございました(^^)!!