翌日の火曜日。
梅雨に入り掛けているのか、しとしとと陰鬱な雨が降っている。
しかし雨と言うものは、考えように依っていくらでも印象が変わるものだと思う。
外出する時は天敵と言える雨も、休日に家でくつろぐ時は、まるで自分が居る密閉空間を優しく包んでくれるように感じる。
状況によって、どちらにも印象は転び得ると思う。
そして今日は、後者の印象が強い。
放課後に川崎の家に行って、一緒に勉強をすることになったのだ。
それも、川崎の誘いで。
雨がしっとりと降る中、川崎の部屋で二人きり――なんとベタで、なんと舞い上がる時間なのだろうか。
柄にも無く浮かれる俺にとって、この雨は何ら陰鬱なものではなかった。
× × ×
「……まさかお前から誘ってくれるなんてな」
「……別に、いいでしょ」
「……お前から誘ってくれるなんてな」
「……何で2回言ったの?」
「……まさか、お前か「怒るよ?」ごめんなさい」
声音こそ恐いが、顔は真っ赤な川崎を見て頬を緩めた。
今は放課後。
俺たちは川崎家に向かっていた。
昼休みに2人でご飯を食べていた所、川崎から誘われた。多少驚いたけれど、嬉しいお誘いだったのですぐさまオーケーした。雨が降っているから相合傘を期待していたが、生憎お互いばっちり傘を持って来ていた上に、どちらも空気を読めず自分の傘をさっさと出してしまったものだから忘れたフリもし損ねた。おかげで今はそれぞれに傘を差してごく平凡に並んで歩いている。
「でも、本当に何で誘ってくれたんだ」
「……こうでもしないと、あんたは所かまわずやらしいことしてくるでしょ」
「ん? でもいやじゃないんだろ?」
「あ、あんたは……っ」
子犬のような唸り声を上げて睨み付けてくる川崎の視線を躱して、前方に見えた水溜りを大股で跨ぐ。
半歩後ろを振り返り、未だに頬を朱に染めて納得の行っていなさそうな川崎を見て、にやりと口の端を吊り上げる。
「しかしアレだな。今の言い方だと、まるで家でならいくらでもそう言うことをして良いからって言ってるようにしか聞こえないな」
「……っ」
俺の言葉に、川崎は歩を止めて口をぱくぱくとさせる。どうしようもなく愛おしくなり、頭をくしゃくしゃと撫でた。
「こ、こら、こんなとこで、恥ずかしいから……っ」
「…………」
もっと恥ずかしいことをいっぱいしてるだろ……なんて言ったら、脳がキャパオーバーを起こして泣き出すか烈火の如く怒るかのどっちかだよな……と思って、余計なコメントは控えておいた。
「しかし、川崎の部屋で勉強か……」
我ながら驚く程楽し気に呟いて、心の中で「何をしてやろうか……」等と考えていると。
「……あれ?」
ふと、重要なことを忘れていた事に気付く。
それは少し前までだったらまるで気にしなかったことだが、今の俺にとってはとても重要なことだ。
「川崎、今日お前ん家って……うおっ」
「きゃ……っ」
カッパを着て自転車に乗った人がふらふらと近付いてきて、川崎にぶつかりそうになったので肩を抱き寄せた。こちらが避けたのも気付かず、自転車はのろのろと走り去った。
ふぅ、と息を吐いていると、川崎が腕の中で「え、あ、その、あの……っ」と、ものの見事にテンパっていた。視線を泳がせる度に青みがかった黒髪がふわりと揺れて、夏の気配がする雨とシャンプーの香りが鼻腔を擽る。
「……あ、ありがと……っ」
「……ん、気にすんな」
こちらの胸元に顔をうずめたまま、上目遣いで礼を言われたものだから。
今聞いておくべきだった重要なことを、すっかり聞きそびれてしまった。
× × ×
俺が川崎に確認しておきたかったことの答えは、川崎が住んでいるマンションの一室のドアを開けた瞬間に明らかになった。
「さーちゃんおかえりー! あ、はーちゃんだー!」
「けーちゃん、ただいま」
「……おう、京華」
……そりゃそうだよね。
川崎は俺が明らかに落胆しているのを見て、少し勝ち誇って、それでいて少し申し訳無さそうな顔をした。
――いくら部屋で好き勝手出来ると言っても、声が出ないようにするのは大変だ。それでいて、すぐ近くに居るのがこの愛くるしい天使ときたもんだ。これでは俺が思い描いていたような責めはほとんど出来そうにない。責めって言っちゃった。
「大志だけだったらヘッドフォンを着けさせて『お前はこれで大人の動画の音声でも楽しんでろ』って言えるんだけどなぁ……」
「あんた、うちの弟を何だと思ってんの……?」
「ごめんなさい、ほんとごめんなさい」
心の声がだだ漏れていた。
「はーちゃんだー、はーちゃんだー!」
「うむうむ、よしよし」
そこまで久しぶりでもない筈だが、京華はきゃっきゃとはしゃいで俺の膝をぺちぺちと叩いてくる。両手で頭をわしわしと撫でていると、リビングからもう1つの足音が聞こえてきた。
「あ、姉ちゃんお帰りー……って、お兄さん!? え、姉ちゃん、ちょ、お兄さん、2人で帰ってくるとか、え、これってアレっすか、世に言うお持ちかえ」
「ちょっと黙ってな……」
「もご……っ」
信じられない速度で踏み出した川崎が、大志の口を塞いで壁に押さえつけた。音もしないくらい優しく押し付ける辺り、恐いんだか優しいんだからよく分からなくない。川崎が何もしなくても、俺は大志をどつくつもりだったが……こうも川崎が恥ずかしそうにしていると、無性にからかいたくなる。
「お持ち帰り……」
小声で呟くと、川崎は大志を押さえ付けたまま振り向き、涙ぐんだ目で睨んできた。色んな感情が混じりすぎていて何だかとても楽しそうですね。
さて、この地獄のような状況をどうしたものか……と思っていると。
京華が人差し指を顎に当てて、くりっと小首を傾げた。
「おもちかえり……おもち?」
そしてにぱっと笑う。
「……おもちたべたい!」
天使か。
俺と川崎は四つん這いで悶絶して、大志は川崎が急に手を離した事により床に両膝を強打して別の意味で悶絶している。京華はその地獄絵図をきょとんとした顔で眺めていた。
しばらくしてやっとのことで顔を上げた川崎が、力の抜けた笑みを浮かべる。
「……それじゃ、晩ご飯はお餅にしよっか」
川崎の言葉に、そう言えばもう夕飯の準備をする時間帯だと気付く。
「おう、それなら俺が買ってくるか」
「いえ、俺と京華が買ってくるっす! お兄さんは姉ちゃんに楽しくお持ち帰りされちゃってくだもごっ」
くだもご?
数分前の映像を巻き戻したかのように、大志が川崎に押さえ付けられていた。
「……ついでに海苔も買ってきて」
「もごぉ……っ」
口を塞いだ状態で買い物のリクエストをする川崎さん、マジでクール。カツアゲにしか見えない。
「わりぃな」
「……ぷはっ、いえいえ! じゃあ行ってくるっす! ほら京華、行くぞ。傘も持って行くんだぞ」
「うん、いってきまーす! おもちー!」
玄関のドアが閉まると、外から楽し気な鼻唄が聞こえてくる。どうやら京華が即興でおもちの歌を作っているようだ。大志が「声でかいから!」と注意する声が聞こえる中、微妙にスイングしたジャズっぽい曲調の歌が聞こえてくる。この家で普段流している音楽が無性に気になった。
「……どれくらいで戻ると思う?」
「……近くのスーパーに行くだろうから……30分くらいかな」
「そうか。勉強するには半端な時間だな」
「そうだね。……じゃあ、リビングでゆっくりする?」
「……ん、お邪魔します。まずは手洗いうがいだな」
俺の言葉に、川崎はくすりと笑った。
「……ん、あたしも行く」
そう言って川崎が浮かべた笑みは、母性と深い愛情を纏った紫陽花のようだった。
続く。
サキサキでした。大志と京華を出すと途端に場がぽわんとします。川崎は縮地を覚えました。
それでは、今回もお読み頂きありがとうございました(^^)!!