市立図書館で折本と出くわし、成り行きのままに隣同士で勉強を始める。
ここまでは動揺しっぱなしだったが、何だかんだで勉強を始めれば、すぐに関係なくなるだろう。
「比企谷、何を勉強すんの?」
折本がぽそりと囁く。小声で話しているため自然と顔が近付き、甘さと清涼感の混じった香りがした。折本の性格をよく表しているような、そんな匂い。
「……まあ、ちょっと、古文をな」
顔を逸らしながら答えると、折本が自分の鞄をごそごそとし始めた。
「そっか。じゃああたしも古文やろっと」
「……え?」
思わず素になって発した言葉に、折本はきょとんとした。
「教えてもらおうかと思ったんだけど……だめ?」
小首を傾げる様が可愛い。媚を売る気など毛ほども無い、純粋な疑問を浮かべた顔。
……しかし。
「……や、わざわざ俺に教わらなくても良いだろ」
本音を口にすると、折本は更に首を傾げる。疑問のレベルが上がったんだろうか。
「だって、比企谷総武高でしょ? 絶対うちの高校の人より頭良いじゃん」
「ぬぐ……っ」
お世辞でも何でもない、もしかしたら褒め言葉でさえない、純粋無垢なる事実報告。受け流しも出来ない言葉をもろに受けて、顔が仄かに熱くなる。
折本は俺の反応に気付くことなく言葉を続ける。
「だからさ、ちょっとだけでも良いから教えてほしいんだけど」
「……まあ、良いけど」
「やった! ありがと」
「お、おい……」
折本の声が微かに大きくなり、周りの視線が刺さる。嫌悪の視線が全て俺に刺さってるのは気のせいなんですかね。
「あ……ごめん」
周りの様子に気付き、折本が口元を手で覆う。目だけ動かして辺りを窺い、元の空気に戻ると口を覆っていた手で拝むようなポーズをとり、片目を瞑りながら「ごめんごめん」と無言で謝ってきた。愛嬌のある仕草に顔を背けると、折本がくすりと笑う声がした。
「……なんだよ」
「別に? なんでも」
そう言ってにこやかに微笑まれては、もはや何も追求しようがない。
むずむずする気持ちを抱えたまま、古文の問題集を開いた。
× × ×
しばらく集中して問題を解き終わると、答え合わせに入る。解説を読みながら分からなかった所を潰していると、左の二の腕をつんつんとつつかれた。心の奥にぽっと火が点いたのを感じながら顔を向けると、折本がさっきと同じように、片目を瞑りながら右手で拝むポーズをとっていた。
「どうした」
「比企谷、ここなんだけどさ……」
言って、折本が自分の教科書とノートを2人の机の間に滑らせる。俺も覗き込んだため、2人の顔が一気に寄ってしまった。
「ここの文なんだけど、授業の解説聞いてもいまいち分かんなかったんだよね。……比企谷? おーい?」
「お、おう、どうしたどうした」
「どうしたのは比企谷でしょ。ウケるんだけど」
「今のは……ああ、ウケるな……」
横顔にちょっと見惚れてたなんて絶対言えない。
折本の横顔に固定されていた視線を下ろすと、白く細い指はまだ、折本が分からないと言っている文を指差していた。視界を広げて文全体を眺めると、あることに気付く。
「あー、教科書同じなんだな」
「あ、そうなんだ」
「うちの方がもうちょっと進んでるだけだな。この作品も授業でやったわ」
「あ、それなら話が早い」
折本が嬉しそうに笑みを浮かべる。段々と周りの視線が気にならなくなってきた。
「これは確か……あー、この文だけというかこの作品自体、時代背景が分かってないと直訳してもぴんとこないやつだな」
「え、そうなの?」
「ああ、英文でもたまにあるだろ。文法とか単語が分かってて訳しても、いまいちしっくりこないやつ」
「あ、うんうん、あるある」
「そういうのは大抵、時代背景だったり文化的背景だったりってのを知らないとぴんと来ないことがある」
「ふんふん」
「ちょっと脱線して例を挙げても良いか?」
「ああ、うん。全然良いよ。ありがと」
「うし。例えば英文だったら、たまに会話の中にジョークとかが混じるよな」
「うん」
「そういう時、それをそのまま訳すと『……はい?』となってしまうことがよくある」
「あー、分かるかも」
「そんな時は、そこは飛ばして良い。日本人の『あー、死にたい……』って言葉が外国人にはいまいちピンとこないように、そもそも気質が違っているからその冗談を理解出来ない場合が多いからな。問題に関係しない所がほとんどだろうから、『あ、これはジョークだな。適当に流そう』くらいに思っていい」
「ふんふん」
「だけど、古文とか漢文に関してはそうもいかない。作品が描写してる時代ごとの時代背景・文化・恋愛観なんてのをざっくりとでも知ってるだけで、知らない人とかなりの差がつく」
「へえー。……恋愛……」
「……まあ、あれだ。平安時代の恋愛なんて、今の時代からは考えられないだろう。顔も見ないうちに歌を詠んで手紙を送って、それに返事の歌を詠んだりするんだぞ」
「ネットで知り合った、顔を見たこと無い人と文通する感じ?」
「あれ、近い例があった……まあいいか。とにかく、当時の雰囲気を掴んでおくだけでもかなり違う。現代文なら普通に読むだけで情景が大体イメージ出来るけど、古文や漢文は中々イメージしづらいからな。風呂は三日に一回しか入らないのもあって香水がどぎつかったりとか、化粧で顔が真っ白になってて夜に廊下で女性とすれ違うと真っ白な顔が浮かんで見えるとか、そんなことを知ってるだけでも勝手が違う」
「なんで具体例がそれなの?」
「……面白かったから……」
「あ、うん、何かごめん」
「謝るなっての。取り敢えず、こんなとこだな。この文の意味をピンポイントで教えるだけならこの場でも出来るけど、もっときちんと意味を理解しようとするなら結構時間が必要だぞ」
「そうなんだ……うーん、どうしよっかな……あ」
折本が何か閃いた顔をした。あれ、なんか心臓に悪いことが起きそう。
「……比企谷、お願いがあるんだけど」
「な、なに」
期待に目を輝かせた折本から全力で顔を逸らす。
「あたし、今日はもう少ししたら用事で帰んなきゃなんないんだ。……だから、明日もさ、ここで教え――」
「断る」
「……そっか」
「うぐ……」
即座に断ったものの、しゅん……と落ち込む折本の様子に、何も言えなくなる。
どうしよう、どうする、俺。
ここで断るのは簡単だ。別に明日以降会う訳でもないし。
しかし、それでも、どうしても。
心にしこりが残る気がする。
何をそんなに気にする必要がある、と訴えかける自分がいる。
いやいや、ここは気にして然るべきだろう、と訴えかける自分がいる。
時間にすればほんの数秒。
ありったけ、迷うだけ迷った。
――その結果。
「……まあ、明日だけなら、良いぞ」
受け入れることにした。
俺の言葉に折本は目をぱちくりさせ、頬を緩めた。柔らかな笑みを見ると、中学の頃と同じ感情を醸成してしまいそうで怖くなる。
「ありがと。じゃ、LINE交換しよ?」
「え」
「あたしの連絡先知らないでしょ?」
言われて、記憶の中を探る。
「……そう言えば」
「なんでそこ曖昧なの? ウケるんだけど」
「いや、ウケねーから」
折本が笑いながらスマホを取り出す。同じようにスマホを取り出そうとしてポケットに突っ込んだ手が、僅かに震えている気がした。
別に、なんてことはない。
かつて自分が恋をした相手と、たまたま出くわして。
その人と一緒に勉強をして。
連絡先を交換して、次の日も会うことになって。
――こんなイベント、中学の時の俺だったらさぞや浮かれたことだろう。
けれどあれからもう3年近く経つ。俺だって色々経験した。だから、こんなことで浮かれたりしない。
まだどこで教えるかも決まっていないけど、きっとそれを終えれば、またいつも通りの生活に戻るだろう。
それだけの話。
ただ、それだけの話だ。
――それだけの話、のはずなんだけども。
「ふるふるでいっか。えーっと……あれ、何か知らない人が出てきた。ウケるんだけど」
「これはまあまあウケるな……」
目の前で無邪気に笑う折本は、あの頃のままで、どうしても心が揺らいでしまう。
変わらなく見えるのは、きちんと成長して変わっているからそう見えるらしい。成長しないで本当に変わらないでいた人は、傍から見れば変わり果てて見えてしまうそうだ。
ならば、目の前にいる、この折本かおりという女性は――変わったのだろうか。高校生活という目まぐるしい日々の中で、少しずつ成長してきたのだろうか。
もう少し、話してみるのも悪くない――そんな風に思いながら、お互いのIDを交換した。
難しくは考えなくていいだろう。
縁が無ければ、明日で終わる。
もう少し縁があっても、もう数回会う程度だろう。
だから、気楽に行こう。
「比企谷、何笑ってんの?」
「あれ、笑ってたか。わりいな、気持ち悪かったろ」
「別に? 気持ち悪くなんてないって。ただちょっと意外だったなーって」
「……そうか」
「うん、そうそう」
2人の間に流れる空気が、あの頃とは少し違うことに、折本は気付いているだろうか。それともこの変化は、俺が一方的に感じているだけなんだろうか。
なんだかおかしなことになったな……と思いながらも、俺と折本は連絡先を無事に交換し終えた。
目の前の折本から、さっそくメッセージが届く。
『よろしくー』
さっぱりしているにも程があるメッセージにくすりと笑う。
適当なスタンプを返すと、折本がくくっと笑った。
気が付けば、周りの視線など全く気にならなくなっていた。
続く。
折本でした。ゆるりゆるり。
今週も頑張りましょう!
それでは、また明日ここでお会いしましょう(^^)!
今回もお読み頂きありがとうございました(^^)!!