連絡先を交換してから30分もすると、折本は用事がある為に帰り支度を始めた。
「じゃ、また明日ね」
耳元でぽそりと囁かれて、微かに耳をくすぐる吐息にそわそわした。耳をさすりながら折本が学習室を出て行くのを見送ると、再び視線をノートに落として勉強を始めた。
そこから、実際の時間にすれば――1時間。いや、30分。いや、15分くらい経っただろうか。
思いの外、集中出来ていないことに気付いた。
気分を変えようと英語の長文問題を解いていたが、まるで頭に入ってこない。目だけは長文をするすると追っていくが、全く解釈出来ていない。思考を伴わない視線が文字の上を滑っていくばかりだ。
左をちらりと見れば、誰もいない。新たに学習室に入ってくる人はいるが、俺の隣は空いたままだ。
――自分に話しかける人がいない方が集中出来る。
そんな、当たり前を通り越して空気同然に自分の身体に染み込んでいるはずの常識が、今だけはどうしたことか全く通用しない。
……帰るか。
ふっ、と小さく息を吐いて、勉強道具をしまう。
集中出来ないなら、場所を変えれば良い。
ただそれだけの話だ。
× × ×
市立図書館からの帰り道。
のろのろと歩いていると、目の前を猫が横切った。黒くて小柄な、どことなく芯の強さを感じるような目をした猫。
「なー」
細い声で鳴いたかと思うと、俺の足の横にぴったりと付いてきた。踝の辺りでさわさわとくすぐったい感触がする。足を止めて、ポケットに手を突っ込んだままじっと見つめていると、俺の足にすりすりと顔をこすり付けて、気持ち良さそうに目を細めた。
「……ほれほれ」
身体を屈めて顎の下を撫でてみると、まるで温泉にでも入ったかのような表情になる。猫にしては随分人間くさいな……と思いながら微笑ましく思っていると、やがて飽きたのか俺の下からするりと離れて、振り向いて俺を一瞥すると何事もなかったかのように去ってしまった。
懐っこく近付いて、飄々とさっていく黒猫。
その後ろ姿に、どことなく、さっきまで一緒にいた人を重ねた。
「……まだ寒いな」
まだまだ明るいが、時折吹く風はまだ冬の気配が微かに残っている。
ぶるっと震えて肩を竦めながら、少しばかり歩を速めた。
× × ×
「ただいま」
家に戻って声を発してみたものの、何の反応もない。両親は社畜っているので(社畜るという動詞はぜひ今後も使っていきたいところだ。誰も幸せにならないけど)、いるとした小町だけなんだけど……出掛けたのだろうか。
誰もいないよな……と思ってリビングに行くと、一人と一匹がじゃれあっていた。
「にゃははー! どうだ、ほーらほら、ええのんかー? こういうのがええのんかー?」
「なー」
「ほれほれ~、どうじゃどうじゃ~、大人しく小町の言うことを聞くのじゃ~」
「なー」
「どうじゃー、眠くなってきたじゃろう? 起きた時には完全に堕ちておるからな……ほっほっほ~」
「なー」
「……何やってんだ」
小町が愛猫のカマクラをもふもふわしゃわしゃと愛でまくって、ふてぶてしい態度と図体のカマクラが目を細めてうっとりとしていた。うちの妹ったらテクニシャンなんですね。
呆れ果てた俺の声にぴくりと反応して、仰向けになってカマクラを上に掲げたまま小町がくりんと顔を向けた。
「ありゃ、お兄ちゃん早かったね。あとなんで逆さなの?」
「さあ、重力の向きが急に逆転したんじゃねえか」
「あー、それは一大事だ―」
実があるかどうか聞かれたら一切無いと自信を持って言える会話をしながら、何とはなしにリビングのソファに腰を下ろす。小町は時期的にもうじき片すであろう炬燵から下半身を出して脱こたつむりになると、カマクラを抱えたまま俺の隣に腰を下ろした。
小町はカマクラの前足を掴んでぶんぶん振り回して「いけー! 悪を滅ぼせー!」と小声で呟いている。こたつの上には勉強道具が広がっているので、休憩がてら思い切りばかなことをやっているんだろう。思い切りばかなことを。……思い切り、ばかなことを。
小町がこちらを向いて、くりんと首を傾げた。茶番の気配。
「お兄ちゃんお兄ちゃん、世界で一番可愛い猫はどの子?」
「え、何このおとぎ話みたいな質問? ……まあ、カマクラでいいんじゃねえの」
「うーん、惜しい! そこは『カマクラ【が】良い』って言わなきゃ!」
「心にもないことを言うのは大変なんだよ」
「じゃあじゃあ、世界で一番可愛い妹はだー「小町」早すぎて引くよお兄ちゃん……」
カマクラの前足が小町の手により交差する。「アウトー!」と言いたいらしい。カマクラは何をされても「なー」しか言っていない。眠たくてしょうがないようだ。
小町は会話に一瞬で飽きたのか、「そうだねー、お兄ちゃんには小町しかいないもんねー」と若干怖くて悲しいことを呟きながらカマクラのお腹を揉んでいる。やだ、もみくちゃにされてるわこの子……とっても気持ち良さそう……。
勉強するまで後5~10分だけぽけっとしておこうと思っていたら、小町が俺の顔をじっと覗き込んで来た。
「どうした」
「んや……お兄ちゃん、何かあったのかなーって」
「……別に、いつも通りだって」
誤魔化すように小町の頭をくしゃりと撫でる。こういう時の妹の鋭さは尋常ではない。小町は気持ち良さそうに目を細めながら柔らかく微笑んだ。
「お兄ちゃんのちょっとした変化にも気付けるのが小町だからね!」
「おお、すげえ、流石世界一可愛い妹」
「特に女の気配には敏感だよ!」
「前言撤回していい?」
急に怖いことを言い始めたよこの子。元気に喋る度にカマクラの前足をぶん回すのはやめてくれないでしょうか。
小町はやれやれと、こちらを馬鹿にする気全開の呆れ顔で肩を竦めた。
「お兄ちゃんは攻略難易度MAXのヒロインだからねー。せっかく周りに素敵な人が沢山いるのにもったいない……」
「難易度MAXな上にヒロインなのか、俺」
「うん、だって主人公って感じじゃないでしょ?」
「でも、基本俺の一人称で物語は進むんだぞ」
「お兄ちゃん、それアウトだよ。もしもう一度、今みたいにメタいことを言ったら……」
「……言ったら?」
「もいだ」
「もいだ!?」
もいだの!? 完了形!? あれ、付いてるけど!?
「いつからもがれていないと錯覚していた?」
「え、なに、今の俺のアレって幻なの?」
「あれだよ。遠くの星が発する光を地球で目にするのに何百年もかかる場合があるから、もうその星が実際は無くなっていたとしても、こっちから見てる分には元気に光ってるみたいなパターンだよ」
「俺のアレを超新星爆発と一緒にするのは何か申し訳ないんだけど」
「だから、触ってみたらお兄ちゃんのアレはもうないんだよ」
「マジで? どれ……」
「通報した」
「え、ちょっと待ってそんな躊躇無しで兄を法の下に裁こうとしてるの?」
「いつから小町は通報していないと錯覚していた?」
「気に入りすぎだろその言い方」
最近になって友達からマンガを借りて読んでハマったパターンだろうか。俺も詠唱無しで川崎大志に黒棺を使ってみたい。
兄妹で抜群にくだらないやりとりをしていると、スマホの通知音が鳴った。
「お、迷惑メール?」
「その前提おかしくない? まずLINEだし」
「そっかー、LINEのIDがネット掲示板に晒されるって大変だねお兄ちゃん。でもそんな惨めなお兄ちゃんでも小町は応援してるよ!」
「勝手に俺を加速度的に可哀想な奴に仕立て上げるのをやめろ……」
げんなりしながらアプリを開くと、そこには「折本かおり」の文字が表示されていた。
「……そろそろ部屋に戻るわ」
「……ほほう?」
愛しの妹が随分とゲスい反応をしたので、、両手で髪の毛がぼさぼさになるくらいわしゃわしゃと頭を撫でてリビングを出た。「にゃー! 頭が爆発したー!」と小町が悲痛な叫びを上げているが、まあ自業自得だろう。
どんなメッセージが来ているのかと妙に興奮しながら、自室に入って念の為鍵を閉めた。
続く。
折本でした。のほほん。
疲れがたまっているので明日はお休みします。ごめんなさい!
今回もお読み頂きありがとうございました(^^)!!