折本と約束をしてからは、本当に毎日会いに行っていた。俺が「今から行く」と言って折本の家に迎えに行き、どこか恥ずかしそうな顔をした折本が家から出てきて、公園まで歩く。そして他愛も無い話をして、すぐに家まで送る。休日は話す時間が少し長くなるが、それでも以前一緒に出掛けた程の時間を共に過ごすことはなかった。どちらからともなく切り上げることで、常に「もっと、もっと」という気持ちが湧く。そのもどかしさが、明日も会いたいと思わせる要因になったかもしれない。迎えに行って話し、送り届けるという一連の流れは本当に短いが、それでも今までにない満ち足りた感情を覚えていた。折本はこの時間をどう思っているんだろうか……と何度も思ったが、いつでも屈託なく笑って話をしてくれるという事実が嬉しくて、何も聞けずにいた。
3週間程経った頃、いつものように折本を迎えに行った。折本は今日もどこか恥ずかしそうな顔をして、目を一度きゅっと瞑った後に明るく笑う。俺にどこまでの感情を見せたら良いか、折本自身がまだ迷っているように思えた。
「今日はねー、仲町がー……」
毎日話しているから、あまり大した話はしない。お互いその日にあったことをつらつらと話す。歩きながら、或いは座りながら、交換日記を書いているような気分だった。たまに人生観や恋愛観のような話もする。恋愛観について話す時は下手に踏み込むことのないようにするのが大変で、いつも綱渡りのようだった。話の内容自体はそこまで重くないし、折本自身極めて当たり障りの無い話を選んでいるようだった。ちなみに怖い話を一度してみたら、泣きそうな顔でぷるぷると震えながら睨まれた。こんな顔もするんだ……とにやけそうになった。今度また怖い話をしてみよう。
折本の隣を歩く時は、一人で歩く時より少しだけ遅く歩く。折本の話は割とテンポが速いので、初めの頃は話を聞いているとつい足を速めてしまい、2人の距離感がちぐはぐになってよく笑われた。
ふと、折本の顔を見る。毎日同じように、からからと楽しそうに笑っている。その笑顔を毎日見ることで、どうしようもなく惹かれている自身の気持ちに気付いていた。
今はきっと、中学の頃よりも折本のことが好きで。
そしてきっと、中学の頃よりも苦しい。
何で折本が毎日会うなんていう行為に付き合ってくれるのか、分からない。
大体、折本が俺に何を言って、何をしてくれたら俺自身が安心出来るかも分からない。
俺はこの先どうなりたいんだろう。
折本と、どうしたいんだろう。
折本は、この先どうなりたいんだろう。
俺と、どうしたいんだろう。
頭の中で濁った思考の渦がぐるぐる回っていると、折本が俺の顔の前でぶんぶんと手を振っていることに気付いた。
「おーい、どうしたー?」
「……すまん、ぼーっとしてた」
俺の答えに、折本はからからと笑う。
「あはは、疲れてるのかもねー。毎日送り迎えご苦労さま」
「何その幼稚園に通う子供がいる感じ」
「……っ」
折本が顔を背けてぷるぷるしている。こうして折本のツボを突くのが最近やたら得意になったのは確かだ。
折本が向き直った。まだ面白いのか、唇がひくひくしている。うむ、ダメージは甚大だ。
「……どっちにしろ、疲れてはいるみたいだよね。どうする、手でも繋ぐ?」
「……へ?」
折本の言葉に、ぴたりと歩を止める。折本は俺の静止に気付かず数歩先まで歩いて、
「あれ?」と足を止めた。
……え、どういうこと?
俺が疲れているのは事実だ。それ程ひどくは無いが、確かに眠気はある。この状況に対して折本が何か考えてくれるのも分かる。しかしここで折本が何かしらするとしたら、持っているお菓子をくれて「甘いもんでも食べなよ」などと言うか、「明日は土曜だし、ゆっくりしなよ」などと言う辺りの行動が妥当だろう。しかし折本は「手でも繋ぐか」と言った。仮に実行したらどうなる。折本の手? 柔らかいに決まっている。小町と手を繋いだ以来そんな行為に及んだことは無いから、俺は恐らく歩きながらふらつくだろう。そしてその拍子にちょっと二の腕が触れる。折本の二の腕? 柔らかいに決まっている。ふにっとするぞ、ふにっと。そんな状態が10分や20分と続けばどうなる? そんなの、激しく癒されるに決まっている。激しく癒すっていう表現が妙だけども。
……と、高速で思考を巡らせた結果、顎に手を付けて深く頷き、
「……ぜひとも採用したいな、その案」
と至極真面目に言った。
「そんな難しく考えることなの……っ」
折本が俺の顔を見て蹲り、ぷるぷる震えている。今の俺の何がツボだったのだろうか。分からん。
てっきりこちらに手を伸ばしてくれるのかと思ったが、折本は俺を見てくすりと笑い、そのまま歩き出した。数歩前にいたので慌てて追いかけ、隣に追い付く。
「…………」
「…………」
何も言ってこない。折本の左手は俺の右手のすぐ横で気ままに揺れている。
これはどうしたら良いのか。俺か。俺が掴み取るしかないのか。
一世一代の勇気を振り絞って、恐る恐る手を伸ばしたその瞬間。
「あ、猫」
折本が左手で前方を指差した。猫が道路をとことこと渡っている。うん、上品そうな猫だ。
ところで。
「折本って左利きか?」
「え? 右利きだけど」
「あ、そうか」
「うん」
…………。
シット!
折本が手を下ろした。そのままゆっくり歩き出す。
今度は二度目だ。さっき程の勇気は要るまい。
呼吸を整えて、右手を横に伸ばした。
「あ、カフェだ」
左手で、交差点の向こうのカフェを指差した。左手で。俺の右手はまたしても空を切った。
…………。
……いや、カフェだけども。
カフェだけども!
「今度行こっか」
「ん、おう」
……約束が増えたので良しとしよう。
……って、あれ?
何か俺、良いようにあしらわれてない?
気が付けば右手がわきわきと動いている。傍から見れば紛う事無き変態だ。どうしよう。
折本は一体どうしたいんだろうか。俺の手を避けたのも、わざとなのか偶然の重なりなのかさえ確かめることが出来ない。
うんうん唸っていると、折本と目が合った。
「…………」
口の端が、微かに、ほんの微かに。
くい、と上がった。
そしてまた、前に向き直る。
…………。
……わざとだ……。
あれ、俺、今、からかわれてる?
不安の中でも、関係を進めようと勇気を出したのに、からかわれてる?
右手をよろよろと折本の左手に向けて伸ばす。折本は俺の手をひょいと避けて、また楽しそうに笑った。
え、あれ。
なに、なに、なんだこれ。
折本は、俺が笑ってツッコむと思ったんだろうか。
振り絞った勇気をあっさり受け流されて、俺が笑うと思ったんだろうか。
心が、くしゃりと歪む音がする。
――我ながら大人げないな、と思ったけれど。
心が暗褐色の靄に覆われると、身体が弾けるように動き出すのを止められなかった。
「……もう少し急ぐか」
「え、比企谷、どうしたの……比企谷? ねえ!」
早足でずんずん進むと、折本が小走りで追いかけてきた。それも気にせず、むしろ更に引き離すように、どんどん前に進む。。
からかわれた――という事実が、心の中をぐしゃぐしゃにかき回す。これまでの会話で折本がからかったきた時とは、何かが決定的に違っている気がした。
俺は馬鹿にされていたのか――と思った瞬間、今まで折本が見せていた笑顔や何もかもが急に嘘っぽく思えてきてしまった。
「比企谷、ねえ、比企谷ってば!」
益々歩調を速める。両手をポケットに突っ込んだ。折本の声が遠く聞こえるのは、物理的に離れているからだけなのか、それとも心も俺が距離を置いたからなのか。
ああ、そうか。
俺は何も変わっていなかった。
折本からすれば、どの時点からかは分からないけれど。
「比企谷……ねえ……」
俺を、こうしておちょくる気だったんだろう。
こんなの、何でもない。ただ小馬鹿にされただけだ。
そう思えば良いのに。
中学の頃の、折本に告白をした翌日にクラス中に馬鹿にされたトラウマを思い出して、胸がぎしぎしと軋む。もう何でもない、笑い話として話せると思っていたあの頃の記憶が、折本の冗談一つで心の中に一気に噴き出した。
「……ねえ……っ」
ああ、俺は何でこんなことをしてるんだろう。帰って勉強した方がよっぽど将来のためになるじゃないか。今からでも体調が悪いとか適当なことを言って今すぐ送り返そう。そしてもう二度と連絡を取るのはやめよう。学校が違うんだ、もう二度と会うこともあるまい。
そうだ、そうしよう――
「ねえってば!」
「……っ?」
右手がポケットから飛び出た。
折本の左手が、俺の手を引っ張り出したのだと気付く。
「……どうした」
自分の声が恐ろしく低くて暗いことに驚く。折本は俺の声を聞いて目を瞠り、顔を歪めて泣きそうな表情になった。
「……あの、比企谷……怒ってる?」
「……別に」
俺の言葉に折本は俯く。何だ、今更何を言おうとしてるんだろうか、この人は。もう関係無いというのに。
「折本、悪い。何か今日は体調が――」
「……から」
「……へ?」
今すぐにでも帰ろうと話を切り出したが、折本の消えそうな声に遮られた。
「……恥ずか……から、……なの」
「……ちゃんと言ってくれ、何を言いたいのか分からん」
早くこの会話を切り上げて、人間関係も切り上げてしまおう、だから人を信じるのは嫌なんだ……と自分の春休みから浮かれていた時間に心底嫌悪していると、折本が顔を上げた。
顔を真っ赤にして、目には涙を浮かべていた。
俺の手を握る折本の手が、確かな熱を帯びる。
「……自分から言ったのに恥ずかしくなって、でも正直に言うのはもっと恥ずかしいから、からかうフリして避けてたの……ごめん……ほんとにごめん……」
折本が整った顔立ちを歪めて、ぽろりぽろりと涙をこぼす。折本の言葉に、俺の澱んだ思考の悪循環はぴたりと止まった。
「え……あ……その……」
言葉に詰まる。どうすれば良いか分からない。
――折本の言葉と表情が、猜疑感と絶望感でがちがちに固まった心を解していく。零れた涙が心のヒビに染み渡っていく気がした。
折本の手を握り返す。
「きゃ――っ!?」
折本は、泣いていたにも関わらずびっくりして手を離した。「あ、ごめん……」と申し訳無さそうに言って、そろりと手を伸ばす。
…………。
手をわきわきさせてみた。
「…………」
涙目で、上目遣いで、睨まれた。
折本が俺の手を握る。
離す前よりも、手が熱かった。
「……本当に恥ずかしいんだな」
「……っ」
折本が俯く。どうしようもなく可愛く思えた瞬間――ああ、関係を切るなんて絶対駄目だと思った。
「……悪い。なんか中学の時のこととか思い出したら……もう、一気に何もかもどうでもよくなっちまって……」
ごめん……と言うと、折本が俯いたままふるふると首を振り、俺の手をぎゅっと握った。
「あたしこそ、本当にごめん……もう、こんなことしないから……っ」
ちらりとこちらを見やり、またシュンと頷く。
そうかそうか、もうこんなことをしないのか……。俺はもうからかわれることは無い訳か……。
……うん?
「それは困る」
俺の言葉に、折本は顔を上げてきょとんとした。
「え? でも……」
「折本が俺をからかう時な、言っておくがすげえ可愛いんだぞ。それをやめるなんて勿体ないにも程がある」
「……っ!? な、なん、うぇ……っ!?」
折本がびっくりしすぎて、顔を真っ赤にして変な声を漏らした。
「さっきのは俺も悪かった。……その、まあ、冗談の加減とかは、お互い譲歩し合ってゆっくり見付けていこう。……これじゃ、だめか?」
俺の言葉に、折本はゆっくりと首を振った。優しい笑みを浮かべて俺を見つめる。
「ううん、だめじゃない。……そっか、そうだよね、うん……」
「まあ、その、なんだ。ゆっくり……な」
「うん……」
妙にしっとりした雰囲気のまま、気付けば公園に着いていた。
結局この日は公園のベンチでほとんど会話を交わすことはなく、代わりにずっと手を握っていた。言葉の無い時間の間隙を、優しい温もりが埋めてくれた。
手に力を少し入れる度に、折本がぴくりと反応するのが可愛くて。けれどやりすぎると涙目で睨まれて。
気が付けば、俺は折本の頬を赤らめた横顔をずっと見つめていた。街灯に照らされた横顔はどこか神秘的で、いつもとは違った雰囲気にどきりとした。
さっき俺は何であんなに怒ったんだっけな……と思いながら――ぼんやりと、けれどはっきりと思うことがあった。
折本と、キスがしたい。
続く。
折本でした。お久しぶり。1話で5000字近く行ったたのは物凄く久しぶりです。いつ以来だろう……。
こういう感情の起伏を今まで書いていなかったな、と書きながら思いました。ヒロインとの心を縮めるのにこういう描写も入れた方が楽しいなと感じたので、またどこかで書くと思います。
仕事疲れだったり体調が落ち着かなかったりで、週4くらいに更新ペースが落ちてます。申し訳ありません。
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それでは、今回もお読み頂きありがとうございました(^^)!!