翌日、金曜日。
いつも通りの一日を過ごして、いつも通り折本に会いに行き、それが自然な行為であるかのように手を繋ぐ。この手の温もりがゆっくりと日常の一部に化していることが嬉しい。折本と目が合った時、穏やかに目を細めてくれる仕草がとても好きになっていた。
「壁ドンってあるじゃん」
「……ん?」
公園で話した帰り道、折本がふとそんなことを言う。
「……あるな、隣室がうるさい時によくあるやつ。俺も妹によくやられる」
「ぶっ……くく……っ、……からの?」
「……ああ、あるな……いや、無いっての。急に追加でネタが浮かぶ程笑いのセンスはねえよ」
「ぶふっ!? くく……っ」
折本が震えている。俺の顔のすぐ横でワカメがゆらゆら揺れている。完全に足を止めてぷるぷる震える元クラスメートに呆れ笑いを浮かべつつ、頭をぽんぽんと撫でる。笑いで震えながらも俺の手に自分の手を重ねてきて、心臓が心地良くとくんと跳ねた。
「まあ、比企谷はそんな柄じゃないよねー」
ようやく顔を上げた折本が、悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。
「そんなのに適合した人種でありたいとは思わんぞ」
「大げさ……っ」
またツボっている。よしよし。
空いた左手で小さくガッツポーズをとっていると、ふと折本が俺を見つめた。温度の変わった表情にどきりとする。
折本がこほんこほんと咳払いをする。
「まあ、向き不向きはあると思うけど。それとやるやらないは別だと思う」
「お前は子供に挑戦をさせようと息巻く先生か」
「……っ、……こほん、……別に、比企谷が、まあその、したくなったら、試してみても良いと思うんだけど?」
「分かった。今度妹に試すわ」
「シスコンすぎるでしょ……」
こんな会話で躱してはいたが、折本は明らかに「やってみて、ほら、今すぐやってみて」と言う意思を丸出しにしている。ヒーローショーに行った子供くらい目がキラキラしている。これだけ言われると段々その気になってきて、空いた左手がわきわきし始めた。
「……比企谷、何か左手が変態みたいな動きしてるんだけど」
「……すまん」
すぐバレた。
しかも変態みたいって言われた。
「……試す?」
「……まあ、うん、気が向いたらな」
上目遣いで覗き込むようにこちらを見る折本から、火照った顔を逸らす。こんなことを言いつつも、折本の家に着いた。
「……じゃあ、また明日ね」
未だに仄かな期待を乗せた声音で囁くと、折本は繋いだ手を離す。
――多分、ここで何もせずに終わったら、本当にただの冗談に終わってしまう。それだけは避けたい。
「折本」
跳ねるように上げた声が、やけに上ずっていた。
× × ×
「あ、え、どうしたの? ……っ」
再び繋がれた手に動揺を隠せない折本を、何も言わず家の前の壁に引っ張っていく。
「え、あれ、まさか、ほんとに……っ?」
目に見えて折本が慌てだす。
「…………」
「……ひ、比企谷? 何か言って――ひゃっ!?」
躊躇してはいけないと思い、ひと思いに両手を折本の横に置いた。片手で良かっただろ……と思ったが、もはや後には戻れない。
今まで経験したことの無い、顔と顔の距離。俺が吐いた息が折本の額を撫でると、折本がびくりと震えた。折本の吐息は甘く、鼻腔を擽ると身体がぞくりとする。
「……か、顔、近い……っ」
借りてきた猫のように大人しくなった折本が、上目遣いで恥ずかしそうにこちらを見る。俺自身はもっと緊張すると思っていたのだけれど、折本があまりにも緊張している為却って冷静になっていた。
建物の灯りでうっすらと見える折本の顔は、紅潮の色こそ分からないもののきっと真っ赤なのだろうと思う。逃げ出すでも抵抗するでもなく、ただただ腕の檻の中で大人しくしている折本は――何だか別の女の子のように見えた。
「折本」
「……っ」
華奢な肩が跳ね上がり、こくりと息を呑む音がする。
人も車も見当たらない通りはとても静かで、互いの息遣いがはっきりと聞こえる。心音の高鳴りまで分かった。
限りなく0に近付いた距離が、鼻腔を擽る甘い匂いが、静かに荒げる息遣いが。
少しずつ、いつもの自分というものを崩壊させていく。
いつもの俺ならこんなことはしない、しようともしない、或いはしたくても出来ない。
まして、これからしようとしていることなんて、イメージさえ出来ない。イメージさえ出来なかった。
けれど、今ならやれる。
何の根拠も無く、そう思えた。
「……っ」
もう一度息を呑む音が聞こえたかと思うと、折本がゆっくりと顔を上げた。
雲に隠れていた月が顔を出し、折本の顔を映し出す。
潤んだ瞳、震える睫毛、艶っぽく光る唇。
折本かおりという女性の、全く知らない面が見えた。
折本が顎を上げる。それと同時に、ゆっくりと目を伏せた。
さぁっ、と風が吹き抜ける。寒さの粒が色濃く残る風は、折本の身体を震えさせた。
壁に付いていた手を離し、右手は折本の頭に、左手は背中に回す。折本は何も言わない。
折本を抱き寄せると、こんなに華奢だったのかと驚く。
折本が抱きしめ返してきた。温かくて、微かに震えている。
一層増した甘い匂いに包まれながら、徐々に近付いて行く折本の顔を見て――。
――――――――っ。
「……ん……っ」
口を離すと、折本がゆっくり目を開いた。
「……あ、あはは……しちゃった。……そっか、あたしたち……ん……っ?」
たまらなくなって、俺から更にもう一度口付けをする。あまりにも一瞬の夢のように過ぎてしまった時間を、忘れて手放す前にもう一度味わいたかった。
「ん……ふむ……っ」
一度目よりも唇をぎゅっと強く押し付けて、抱きしめる力を強くする。抱きしめ返す折本の手が震えていた。
一度目の何倍もの時間、唇を交わらせた。
「……ん……っ、もう……力入れすぎ」
「……わりい」
軽口を交わしながらも、きっと今は互いに真っ赤なのだろう。
腕を離すと、折本はくすりと笑った。
「あーあ、あたしのファーストキスが奪われちゃったー」
「え」
「ん? そうだよ? 比企谷は?」
「あ、はい、俺も初めてです」
「何で敬語なの……っ」
腹を抱える折本を見て、ようやくいつもの空気に戻ったと実感出来て息を吐く。
「まさかねー、比企谷と再会したと思ったら、手を繋いで、抱き寄せ……られて、壁ドン……され、て、……き、キ、キ……っ」
俺をからかうように喋っていた折本の言葉が、目に見えて減速する。オイルの切れたロボのようなぎこちなさに、思わず苦笑した。
「……無理な回想で自爆しなくて良いと思うぞ」
「……うん、やめとく……」
正直可愛くてしょうがなかったので最後まで見守るのも手かと思ったが、流石にやめておいた。
風が吹き、折本の顔を照らしていた月灯りに陰りが差す。夢のような時間は、ひとまず終わりなのだと告げているようだった。
「……そろそろ帰らなきゃ」
「……おう」
折本が名残惜しそうに言う。折本ともっと居るにはどうすれば……と考えた瞬間、言葉がつかえることなく喉からこぼれ出た。
「……折本、明日うち来るか」
「……え……っ」
折本が目を見開く。唇が微かに震えている。何とも言えない反応に、勢いで言ったことを後悔してしまう。
「……だめか?」
「え、あ、その、え? や、その、だめではないけど、その、なんかいろいろと、その、あれ、なんていうか、その……」
「大丈夫だ、下手なことはしない」
「へ、下手なことってなに……っ!?」
折本が両頬に手を当てて顔を真っ赤にする。思っていた以上に乙女な彼女を見て頬が緩むばかりだ。
「その、まあ、なんだ、俺の部屋でだらだら喋ったりするだけでも……どうだ?」
俺の言葉に、折本は髪先を指でくるくると巻きながら、こちらをちらちらと窺う。
「……う、うーん……それくらいなら、多分、うーん……わ、分かった、……行く……っ」
「……っ」
袖をちょんと摘ままれて、お淑やかな声でぽそりと言われて心臓が早鐘を打つ。
「……お、おう、取り敢えず、後でまた連絡するから」
「……うん……っ。じゃあね、おやすみ」
「おう、おやすみ」
折本がたっと走り出して家に駆け込む。折本の温もりの残滓は、冷たい風がすぐにさらっていってしまった。
「……マジか、俺……っ」
月を見上げながら、ほんの5分間程に起きたことを何度も何度も反芻する。
折本の表情、匂い、柔らかさ。
その全てが、今の自分にとっては劇的なものだった。
この5分間を過ごす前と後では、まるで人生が違うものに思える。
折本の言動を思い返す。
初めてだったのか、という驚きと、喜び。
これは今日寝られそうにないな……と思いながら、折本の家をちらりと見て、家路についた。
続く。
折本でした。遂に。
それでは、今回もお読み頂きありがとうございました(^^)!!