三浦と屋上で言葉を交わしてから、変化は少しずつ訪れていった。
「隼人―、あーし今日もあそこ行きたい。暑いし」
「ああ、いいよ。今日はアイスを食べてから勉強するか」
「あはは、優美子ってあの店ほんと好きだよね」
「比企谷も来るだろう?」
「なんで俺をナチュラルに仲間に入れるんだお前は……」
「? 仲間じゃないのか?」
「ぐあ……後光が……っ」
「? ごこうって何?」
「お前のおバカキャラを最近すっかり忘れてたわ」
「おバカキャラってなんだし!?」
夏が近づき、受験勉強の山場とも言われる夏休みが迫ってくる。受験期特有のピリついた空気が3年生の教室に満ちているものの、それでも俺たちは比較的穏やかに過ごしている。
誰かが何か、今までと違う言葉を発した訳ではない。
それぞれの仕草にも、変化らしい変化はない。
それでも、変化は、小さくとも確かな変化はあった。
「…………」
――三浦が葉山を見つめるときの視線が、時折泣いてしまいそうなほど切ない色を帯びるようになった。
そのたった一つの変化に、グループメンバーの一部は気付いているようだった。葉山は気付きながらも上手いこと会話を繋ぎ、由比ヶ浜と海老名さんは以前にも増して話題を振るようになった。他の男子共は単純にこの2人がよく喋るようになったためテンションが上がり、会話自体は以前よりも賑やかになっている。
俺は半歩引いた状態で、三浦たちの様子を見ていた。
腐るほどの情報や物語がネットや本や漫画に溢れている今、恋が綺麗で美しいものばかりではないなんてことは、自分の身体がまだずっと小さい頃から知っている。人に誇れないような恋だって沢山あることを知っている。
それでも、三浦の視線に灯った熱は気にかかってしょうがなかった。
女子高生の恋、まして三浦は見た目こそ恐くても中身は純粋な乙女だ。
そんな女の子の恋が、こんなに悲痛なものであっていいのか。
なんで、葉山を見る度に嬉しさと悲しさが混じったような顔をしてしまうんだ。
理由は分かっている。分かっていても、心の中で三浦に問わずにはいられない。
本人には言えない。由比ヶ浜や海老名さんにも相談したところで解決は出来ないだろう。
三浦の視線に込められた愛おしさと痛みが静かに膨らんでいくのを、俺はただ、黙って見ていた。
× × ×
10日ほど経った頃。
梅雨も上がり、湿度を拭い去った熱気が千葉の街を包む。いよいよ夏休みが迫ってきたことで、学校の雰囲気は自然と浮き立っていた。
「隼人、ちょっといい?」
放課後を迎えるなり、三浦が葉山に話しかけた。いつもの勉強会や寄り道の誘いではないだろうということは、真剣な声音を聞いただけで分かる。
「……ああ」
葉山も同様だったようで、言葉少なに応じる。二人は立ち上がると、どこか強張った歩調で教室から出ていく。いつもなら挨拶を交わすところだが、今はそれどころではないことが流石に分かる。英語長文を読んで我関せずの姿勢を貫いていると、不意に右のこめかみに視線を感じた。
葉山から一歩遅れて教室を出ようとする三浦が、ほんの一瞬だけこちらを見ていた。感情を読み取るにはあまりに時間が足りなかった。
2人の静かな足音が遠ざかっていく。
願わくば、三浦が幸せになれますように。
幸せな夫婦のコミカルな日常を描いた長文を読んでいた手が、ページの端をくしゃりと歪めた。
× × ×
三浦が葉山を連れ出した日は、俺は足早に帰路についた。
心配はすれど、俺が踏み込むべきことではない。
そう分かっていても、勉強は遅々として進まなかった。
× × ×
翌日、三浦と葉山はいつも通りだった。
正確に言えば、より強い緊張を持って今までの日常を演じていた。戸部と海老名さんの一件の時もグループ内はぎくしゃくしていたが、中心にいる葉山と三浦に異変が生じると、以前とは比べ物にならないほどの違和感が生じる。
誰かが不機嫌になったり、悪口を言い合ったりするわけではない。けれど、いつもなら盛り上がるような話題でも自然と立ち消えて、グループの中心に笑顔を吸い取る黒い渦が出来てしまったようにさえ思えた。
誰もが気付いているこの状況に、誰かが苦言を呈することはなかった。
それでも、由比ヶ浜とよく目が合うようになり、海老名さんと疲れた笑みを交わすことが増えた。
葉山を見つめる三浦の瞳を時折見つめる。
三浦の視線からは、恋焦がれる優しい温もりが抜け落ちていて、悲しみだけが残っていた。
俺は色恋沙汰にとかく疎い。だから、三浦が葉山に何という返事を言われたかは分からない。
けれど、良い返事は貰えなかったことは間違いない。
そして、はっきりと断られたら、悲しみこそあれどもっと表情ははっきりしている気がする。
告白に対して「はい」「いいえ」のどちらかで答えたのなら、三浦はきっとこんな顔はしない。
どうするのが良いのか、そもそも自分が何か行動を起こそうと考えること自体間違いではないのか。
悩み抜いている内に、日射しは灼熱を帯びて、暴力的なまでの暑さが街を包み始めていた。
× × ×
高校生活最後の終業式の前日。
葉山のグループで集まっての勉強会をすることがすっかりなくなってしまった放課後、早めに席を立った葉山の背中を見送った三浦が、ふらりと教室を出ていった。幽鬼のような足取りに背筋が粟立ち、慌てて後を追う。
三浦が向かったのは、少し前に言葉を交わした屋上だった。
「あっつ……っ」
焼け付く日射しは遮るものがない場所には本当に容赦が無い。こんな場所で一体何を……と訝しんでいると、三浦は給水塔の日陰に座り込み、膝に顔をこすりつけていた。
「三浦……っ?」
そっと掛けようとした言葉が一瞬でかき消える。
「う……うぅ……っ」
三浦は、今にも消え入りそうな声で嗚咽を漏らしていた。普段の彼女と比べて明らかに小さく見える姿は、心に鈍くて鋭い痛みを植え付ける。
声をかけるか迷った。
今までならきっと、見なかったことにしてそっと屋上を出ていっただろう。三浦は学校でとはいえ、人目につかないことを前提に泣いているのだろう。俺が見たことを誰にも、三浦にも言わなければそれでいい。それがいい。
――今までなら、そう思っていた。
「……おう」
「……っ!? ……なんだ、ヒキオか……」
ぼそりとかけた声に三浦は心底驚いたようで、綺麗な目をめいっぱい見開いて俺を見た。しかし潤んだ瞳がひとたび俺を捉えると、途端に表情から気が抜けた。泣いている顔を見るよりはマシだが、思いの外緩んだ顔をされてなんだか複雑だったりする。
「……なんでここにいんの?」
目尻をこしこしとこすった三浦が、「最悪、メイクとれちゃうし……」と恨みがましい台詞を吐いて俺を軽く睨みながら言う。それ俺は悪くないですやん……。
「いやなに、ちょっと日陰を求めてな。日陰者にとっちゃ太陽は敵なんだ」
「……ふうん……」
ツッコミでも軽蔑でもないリアクションをされて、心が限界までふわついた。ふうんって何ですかふうんって。
きっちり人一人分の空間を開けて、三浦の隣の隣辺りに腰を下ろす。数歩先のアスファルトはじりじりと焼けていて、肉を置いたら良い感じに汚れて食べられなくなりそうだ。俺は何を言ってるんだろう。
三浦は空を仰いでぬぼーっとしている俺をちらちらと見ていたが、やがて同じように空を仰ぎ始めた。
「……ヒキオ、何見てんの?」
「ん、何も見てない」
「……何それ」
三浦がちらりと顔を向けて、くすりと笑う。久しぶりに見た気がした三浦の笑みは、年相応の澄んだ可愛らしい表情だった。
続く。
あーしさんでした。屋上での会話はもう少し続きます。
それでは、今回もお読み頂きありがとうございました(^^)!!