夏休みが終わっても、三浦との距離感が離れることはなかった。自惚れでないとするならば、むしろ近付いているのではないかとさえ思っている。
夏祭りの際に近付いた気がしたのは、なんとなくわかる。
しかしそれはあくまで、
『夏の終わりの』
『花火大会で』
『2人きりになったから』
という、奇跡としか言いようがない要素の組合せがあってのことだ。顔見知りもある程度いる学校でとなると、あのときの距離感を再現しようなどとは中々思えない。
俺が小学四年生くらいのとき。珍しく両親がリビングで揃って晩酌をしていた。父親が真っ赤な顔でテンション高めに手招きしたので「怖いな~、怖いな~」と稲川淳二の語りを脳内再生しながら近付くと、俺を呼んだこと自体忘れたのかそのまま母親と話し始めた。大人に対して向ける怪訝な顔――今は主に平塚先生に使用している――は、このときに覚えたのだと思う。
父親は母親に尋ねた。至極真剣な顔で。
『なぜ女性は、飲み会でかなり親密になって、なんなら積極的にボディータッチまでしてきたのに、次に会ったときは完全に元の距離感に戻っているのか。あれは俺が見ていた夢だったのか。その辺どうなんですか』
と。
母親は答えた。
『だまらっしゃい』
と。
母親が満面の笑みで斬り捨てたにも関わらず、父親はまるで意に介さずに「なんでなんだー! 大学生のときも、あの会社のときも、……なんでなんだー!」と言いながらビールをぐいぐいあおっていた。ダメな大人ってこういう人を言うんだな……と、テーブルの端に手を付いて父親を眺めながら思ったものだ。
ちなみにこのとき、母親が『八幡、ごめんね。これ食べて歯磨きして寝なさい』と言ってチョコを3つほどくれたのを覚えている。今まで食べたことのない味のチョコで、ウイスキーボンボンというのだと教えてくれた。
それ以後、ラブコメで未成年の女の子が酔っ払うシーンに多用されるのを見るたびに、あの不思議な味を思い出している。
…………。
……なんの話だ、これは。
とにかく。この話によって、父親に呆れながらもなんとなく学んだのは、「男子が一度高まった熱を持ち続けていても、女子はそうとは限らない」ということ。
これを今の俺と三浦に当てはめるなら、夏休み明けに三浦が思いの外親しげにしてくれたからといって、調子に乗った真似はできない、と言えるだろう。
――けれど。
こんなことを言いながらも、心のどこかで。
何年もかけて培われた面倒極まりない心の障壁が、波打ち際の岩場のように、ゆっくりと削られていっている実感も、これから更に削られて、いずれなくなるのではという予感も、確かに胸に抱いていた。
× × ×
昼休みに三浦と一緒に校舎の端にある自販機に飲み物を買いに行き、そのまま教室で隣り合って食べるという謎の流れができた。席が隣合わせで、お互いどこかへ遊びに行くこともないから自然とそうなるのだが、どうにも落ち着かない。時折由比ヶ浜や海老名さんが遊びに来たり、葉山のところへ遊びに来た戸部がついでに話しかけてきたりもした。戸部だけは三浦がいつも通りそっけなくあしらっていて、笑いをこらえるのにちょっと苦労した。
ここにいていいのか、とか。
遊びに行かないのか、とか。
何度か聞いてみたくはなった。けれど、三浦が語数の少なさ極まる俺との会話でもころころと笑う姿を見ると、こんな質問をするのは野暮か、とも思えた。
それでも、何日も一緒に隣り合っていると、流石に周りの目が気になる。
ある日の昼休み、財布を持って立ち上がると、三浦がきょとんとした顔で見つめてきた。
「ヒキオ、どっか行くの?」
純真極まる目をして、くりんと首を傾げる。長く伸ばした金髪がさらりと流れた。最近はこの子が元来持っていたであろう素直さがどんどん滲み出てきていて、内心気が気でない。
「あー、いや、ちょっといつもの場所で食おうと思ってな」
テニス部の練習を眺めながら食べることのできる、いつもの場所。2学期はまだ三浦との距離感に戸惑っていて、昼休みに教室以外で食べていなかった。そこに行って一人で昼食をとれば、落ち着くし人目も気にしないで済む。
三浦は俺の言葉に「へー」とそっけなく答えた。そういうことで……と教室を出ようとしたところで、三浦がごく普通に、それこそ由比ヶ浜や海老名さんと話しているときのような気さくさで呟いた。
「あーしも行っていい?」
なんですと。
× × ×
夏の暑さというよりは秋のぽかぽか陽気と言える程好い気温だった。三浦の提案にテンパりすぎて「あー、いや、まあ、うん……いいけど」と押しに弱い女子なみにたどたどしくオーケーしてしまったため、校舎の端の自販機で飲み物を買っていつもの場所へ向かう。
「ここ?」
「ああ」
マッ缶と購買で買ったパンを持って腰を下ろし、三浦が座るであろう隣をぱっぱと手で払う。三浦は目をぱちくりとさせて、ぽしょりと「……ありがと」と呟き、スカートを手で押さえながらそっと腰を下ろした。
暑いと言えば暑いと言える気温ではあるが、その辺に生えている雑草や土から香る匂いは真夏のような力強さを感じない。まだまだ汗ばむ日は続くけれど、季節は確実に進んでいる。
ランチパックをもそもそと食べながらテニスコートを眺めると、戸塚が所属している男子テニス部が昼練に精を出していた。パコン、パコンとリズム良く鳴る軽やかな音と、昼休みを彩る元気の良い掛け声。戸塚はコートに出ていないが、後輩たちに元気よく声をかけている。
そういえば、昔こいつと対戦したことがあったな……と思い出す。ちらりと隣を見やると、三浦とぱっちり目が合った。
「……懐かしい」
「つってもたかだか1年ちょい前の話だがな」
主語がばっちり抜けた会話だが、流石にすれ違いは起きないだろうと思い話に乗る。いや、ほんとに懐かしい。1年数ヶ月前の出来事なのに、なんだか6年半くらい経ってる気がする。同じ部活の女子の下着姿を見てしまうトラブルなんて今では考えられない。至近距離で話すとか、手を繋ぐだけでも一大イベントだというのに。
俺がしみじみと(?)感慨に浸っていると、三浦の目が優しく細められた。何かを思い出したのか、くすりと笑みをこぼす。
「あんときと今のあんたじゃ、全然印象がちがうんだけど」
「それはお互い様だろ。お前だって全然印象がちがうぞ」
前を向いたまま言い合い、ふっと目を合わせる。ぱちくりと瞬きをして、同時にふっと笑った。
本当に、変わった。
三浦も、そして、きっと俺も。
根本的なひねくれ気質は恐らく一生変わらないのだろうが、それでもこの1年数ヶ月は、俺にとって劇的な密度を持った時間だった。
ならば、この期間は、三浦にとってどんな時間だったのだろうか。
聞くだけ無駄かもしれない。あるいは、仮に尋ねて真面目に考えてもらったところで、きちんと言葉にできないかもしれない。
2人の間を風が吹き抜ける。柔らかな陽気に水を差すような冷たさを帯びた風に、三浦がぶるりと震えた。
「大丈夫か」
ここで格好良く上着でも貸せたらいいのだろうが、そういったキザなことをするとまず間違いなく引かれるし、何より自分の匂いが大丈夫か気にしてしまう。毛布を錬成できたりしないかしら……と妄想して、三浦にバレないようにさり気なく手を合わせた。右手は左手の、左手は右手の感触を確かめただけで終わった。
「ん……大丈夫、もうじき戻るし」
三浦は太ももをさすりながら答えた。そんなに短いスカートを穿いてたらそりゃ寒いですよねぇ……と、ちらりと三浦の脚を見た瞬間――思いきり目が合った。
「…………」
「あー、いや、その……」
いかん、思いきり太ももを見た後に目が合った。言い逃れできない。
三浦と目を合わせたまま遠い目をしていると、てっきり刃物のような言葉を向けてくるかと思った三浦が、ぽっと頬を赤らめて俯いた。膝を抱えてしまっていて、なんだか拗ねた子どもみたいになっている。
「……ばかじゃないの」
言葉の割に声音は優しく、何より可愛らしいと思ってしまう。
「あー、その、すまん」
頭をがしがしと掻いて謝ると、三浦は消え入りそうな声で「……別にいいし」と呟いた。いかん、なんだこの可愛い生き物は。
そうこうしている内に昼休みが終わりに近付いていた。そろそろ戻るかと言おうとした矢先、三浦が不意に顔を上げ、じっと見つめてきた。
見慣れた瞳が、静かに揺れている。
何か重大なことを言おうとしているかのような、今まで何度か見たことがあるような、そんな表情。
「ヒキオ、あんたって……その、…………」
「…………?」
何かを言いかけて、視線を泳がせ、もう一度見つめてきて、また逸らす。誰かが急に話しかけてきたりもしなければ、急にチャイムが鳴ったりもしない。誰の、何の邪魔も入ることなく、俺は三浦が何か言うのをじっと待っていた。
「……ごめん、やっぱ今はいい」
「……そうか」
たっぷり1分近く待った末の言葉にどっと力を抜く。知らず知らずの内に、俺も肩にがちがちと力が入っていた。
三浦が何を聞こうとしていたかは分からない。それでも、『今は』という言い方をしたのだから、いずれ話してくれるだろう。
「そろそろ行くか」
「ん」
三浦の表情は、いつも通りの柔らかい笑みに戻っていた。
続く。
のんびりのんびり、ときどきどきどき。
夏コミC92のはるのん本、とらのあなにあとほんの少しだけあります! 迷っておられる方はぜひ!
それでは、今回もお読みいただきありがとうございました(^^)!!