日が傾きはじめた頃、勉強に一区切りをつけた。
「そろそろ出るか」
「ん……」
返事がてら、三浦が再び猫のような伸びをする。猫じゃらしをフリフリ振ったら怒られるだろうか。うん、地獄が待ってるね!
勉強道具の片付けをしながら辺りを見回すと、いつの間にか人がぐっと減っていた。学習室のある3階には依然として沢山の学生がいるのだろうが、この階にいた人たちはみんな家に帰ったりカフェに寄ったりして、思い思いに読書を楽しんでいるのかもしれない。
人がいなくなった分、図書館の中が広々と見渡せる。本棚に寄って深く息を吸うと、何年何十年とここに住み続けている本の匂いがはっきりと感じ取れる気がした。
「ヒキオ、どうしたの?」
「ん、いや、なんでも」
きょとんと首を傾げる三浦に軽く首を振り、図書館を出た。
× × ×
外に出たところで、まるで大雨で街が水浸しになっている光景を目の当たりにして、2人並んでげんなりしているかのように立ち止まる。よく晴れているにも関わらず、あまり話さない同士だとこういう時間が簡単にできてしまう。俺は再びあの辻斬りの女の子と出会わないか若干警戒しつつ、この後のことを考えていた。
解散時間をきちんと決めていないので、率直に言ってびっくりするほど気まずい。
いやほんと、こういう曖昧な集まりってみんなどうやって解散してんの?
グループだったら空気を読んだ司会ポジションのヤツが『はい! というわけで今回はここまで!』と大御所МCのような台詞を言って締めてくれるんだろうが、今は俺と三浦しかいない。
ここで三浦が『じゃ』と言ってくれれば俺も輝かんばかりの笑顔で『じゃ』と言えるんだろうが(輝いていると思うかどうかは個人差があります)、三浦は何を考えているのか遠くのビルを眺めるように見上げていて、何も言ってこない。
いっそさっきの辻斬り少女(物騒だ)が俺たちの前に来て両手をパンと叩き『かいさん!』と言ってくれたら気楽なんだが。
どこかのファミレスに行って勉強の続きをするという空気でもないが、かといってこのまま解散する空気でもない。
「まあ、その、なんだ、……歩くか」
決断すべきことを全力で後回しにした提案をしてみると、三浦は意外にもというか予想通りというか、あっさりとうなずいた。
「うん」という少女のような幼げな声と、綺麗な顔立ちが妙なギャップを生む。返事一つで心臓がたやすく掴まれてしまうのだからどうしようもない。
ポケーっと空を見上げながら、のんびりと歩き出した。
× × ×
スマホを見ると、夕方になっても気温は20度台の前半を示していた。昼間の熱をたっぷり吸いこんだアスファルトからは熱気がこぼれ出てくるが、街路樹を揺らす風は秋を感じさせる。夏と秋の狭間を思わせる季節のなかで、更に夏と秋の狭間を思わせる時間帯に、俺と三浦は目的もなくぽてぽてと歩く。
会話はぽつりぽつりと生じるが、まるで遠くの国道を走っている車のライトのようにあっという間に消えてしまう。元々ペラペラと喋る間柄ではないが――というか俺がペラペラと喋ることができる相手なんていない。
減らず口を叩ける相手なら何人か心当たりがあるが――それでも、今こうして隣を歩いている三浦はなんだかいつもより、というか図書館を出る前までよりも喋らない。
一体何事かと考えていると、自然と歩くスピードが一人でいるときと同じくらいになってしまい、気が付くと三浦の一歩前を歩いていた。
「ん?」
Tシャツの袖をくいと引っ張られて振り返る。
「その、ちょっと……そこの公園に寄ってかない?」
「……別にいいけど」
三浦は俯いていて、街路樹の日陰になっていることもあって表情が読み取れない。それでも声は微かに上ずっていていた。違和感を気取られたくないのか、三浦は続けざまに何か言葉を発しようと顔を上げた。けれどすぐ横の車道を車が数台通り過ぎたことでタイミングを失ったのか、糸の切れた操り人形のように俯いた。
× × ×
公園に入る頃には陽が落ちかけていた。夏に比べて高く遠くに見えるようになった雲を見つめる。昼間は悠々と空を泳いでいたうろこ雲が夕陽に照らされて、舞台の照明を浴びたかのように鮮やかな橙色に染まっている。
「ちょっと座るか」
既に20分ほど歩いていたので、なんとはなしに提案する。すると三浦は急に目の前を塞がれた小動物のようにビクリと震えた。
「う、うん」何故か顔を逸らす。「あ、あーしも、休みたいって思ってたから……」
芝居じみた口調で喋るあいだも声が上ずっていた。本当にどうしたんでしょうか。
ベンチに座って、何を話すでもなく景色を眺める。雲の流れはゆるやかで、近くを散歩する壮年の男性ものんびりと歩いていた。
三浦はただ話さないわけではなく、何かを話そうとしてはやめるのを静かに繰り返している。なにか重要なことを話そうとしているのはわかるので、俺もかなり緊張していた。けれどここで『どうした、何か話でもあるのか?』などと聞ける柄でもない。公園の景色を眺めながら待つしかなかった。
しばらくの間もどかしい時間を耐えていると、三浦が意を決したように顔を上げた。
「ヒキオ……」
「……ん、どうした」
俺が顔を向けると、三浦は途端に目を泳がせて顔を逸らしてしまう。目に見えない空気の飴を口に含むかのように可愛らしい唇を開いて閉じると、肘を真っ直ぐ伸ばしてベンチを掴んでいた手にグッと力がこもる。
「ヒ、ヒキオは……好きな人、いる?」
「…………っ」
真剣な表情で尋ねてくる三浦の横顔を、茜色の夕陽が彩った。
三浦の言葉を合図にして、脳内で何人かの顔が浮かんでは消える。三浦の切実な視線を感じながらたっぷりと考えて、ゆるゆるとかぶりを振った。
「いや、その、……まあ、いない……な」
俺の返答に、三浦はあまりにもわかりやすく顔を綻ばせた。まるで迷子になっていた子どもが親に見付けてもらったかのような安心しきった表情に、心臓が柔らかく波打つ。
「そっか……良かっ……あ、ううん、なんでもない、なんでもないから」
安堵のため息を吐いて何か言いかけたところで、慌ててかぶりを振って顔を逸らしてしまう。妙に可愛げのある仕草にくすりと笑うと、「……なに?」と若干怖い顔で睨まれた。しかしその恐い顔も赤面していてはあまり意味がない。
またしてもくすりと笑ってしまうと、プイと顔を逸らしてしまった。「ヒキオのくせに……」とぽそりと呟いて、足をプラプラさせる仕草はまるで子どものようだった。
この後しばらく経ってようやく三浦の機嫌が戻ったときに聞いた話だが、三浦はどうやらこの質問を以前学校の昼休みにしようとしていたらしい。あのとき躊躇してやめていたのはそういうことかと納得した。
× × ×
好きな人はいるかと聞かれたとき、俺はあの場にいない人物を思い浮かべてかぶりを振った。
けれどあのとき、俺の目の前にいた人物については除外していた。
三浦がもう少し違う聞き方を――もっと直接的な質問をしてきたら、俺はどう答えていたのだろう。
三浦との距離感は、まだまだ掴めていない。
続く。
超絶今更ながらにノルウェイの森を読んでいます。地の文が充実した作品を読むと、使う表現は全く違っても「この辺りで比喩を使いたいな」「この比喩はもっと違うものにしたいな」などと考えるクセが付いて楽しいです。
あーしさんとのもどかしいお話、まだまだまだまだお楽しみください(^^)
それでは、今回もお読みいただきありがとうございました(^^)!!