三浦と勉強会をした日の夕方、好きな人はいるのかと尋ねられた。
このことについて、帰り道も、帰ってからも、寝ようとして布団に潜りこんでからも、ひたすら考えていた。食事中、小町に「どうしたのお兄ちゃん? いつになくボケーッとしてるよ? 小町のこと覚えてる?」などと言われるくらいには考え込んでいた。
女子に安易な期待はしない。
これはもう、過去(=中学生の頃まで)の経験から痛いほど学んでいる。思わせぶりな女子の言動はあくまで思わせ『ぶり』なのだ。実際に思っているわけではない。『○○風味』の食品が決して○○そのものではないように。
安易に考えれば、三浦の「好きな人はいるか」質問事件――もはや俺のなかでは事件扱いだ――は、「やっべ、この子俺のことが好きなんじゃね?」と戸部ばりに浮かれてしまいそうな案件だ。
ここで「いやこれくらいで期待しちゃダメだろう」と切り捨てれば安心だろう。総武高に入ってからはずっとこのスタンスを保っていたし、これからもこのスタンスから変える必要はないと思っている。慎重さは大事。石橋を叩いて叩いて、渡る前に壊すまである。
しかし、しかしだ。
あの三浦が。獄炎の女王で知られる(俺の中でだけど)三浦優美子が。
いつの間にかごく自然に二人きりでいることが増えても何も文句を言わず、自分から勉強会に誘ってきて、その帰り道にあのような質問をぶつけてくる。
これは――これは、少なからず浮かれてもいいのではなかろうか。
小市民を目指すとまでは言わないまでも、俺は基本的にごく平凡に生きたいと思っている。その『ごく平凡』な生活には、当然ながら恋愛ごとも含まれる。
総武高に入ってから抑制に抑制を重ねた生活を送ってきたが、気が付けば三浦の存在によって、ずいぶんと俺の心の抑制というかブレーキがなくなってきた気がする。
この気持ちはなんだろう。
目に見えないエネルギーの流れを感じる。これ以上書くのはまずい気がするからやめておこう。
この事態を、この気持ちを、どう整理すればいいのだろうか。
誰かに相談する?
いったい誰に?
①母親→なんでだ。高校生になって親に色恋沙汰を相談する男子なんて絵面だけでも地獄だろう。却下。
②小町→結構アリなので困る。ある意味一番頼りになるが、一番ニヤニヤしてきそうなので腹が立つ。保留。
③戸塚→な、なんだろう。相談するのは大いにありなんだが、戸塚に相談する光景を想像しただけでどうしたわけか心が痛む。俺の心のタフネスの問題により却下。
④材木座→却下。
⑤戸部→却下。
⑥平塚先生→小町同様頼りになりそうだが、「ふふ、いいなぁ……青春だなぁ……ああ、私もあの頃にもっと積極的に動いていれば……」などと言いかねないというか確実に言う。惜しいけど却下。
「…………」
どうしよう、誰にも相談したくない。
どれだけ考えようが答えは出ないし、色恋沙汰は受験勉強をサボる免罪符にはできない。
頭のなかでぐるぐる回る思考を静かに押さえ込みながら勉強して週末を過ごす。休憩時間には決まってスマホで連絡が来ないか確認していたが、メッセージを送ってきたのは材木座と平塚先生だけだった。
× × ×
週明けの月曜日。
どうにも落ち着かず、いつもより早めに家を出たのだが――
「うっす」
「ん、はよ」
――自分のクラスの教室にいるのが三浦のみというまさかの展開だった。
このまま隣に座ると、2人しかいない教室内で非常に気まずいことになる。かといって逃げるように他の席に座ろうものなら、却って俺が動揺していると悟られる結果になってしまう。悩んだ末に、結局平静を装いながら教室の後ろを横切り、窓際の自分の席に座った。
普段自分がどんな風に歩いて、席に座ったらどこを見ているのか、ふと意識した瞬間に全てわからなくなってしまった。何もかもがちぐはぐな動作を見て、三浦が片眉を上げて呆れたようにクスリと笑う。
「ヒキオ、何してんの? キモいんだけど」
「そうかよ……」
言葉だけ拾えばいままで通りの罵倒なのだが、その声音は驚くほど柔らかい。罵倒されて頬がゆるむっていうのはなかなかの性癖持ちということになるだろうが、俺にそんな性癖はない。なかったはずだ。
こういった状況で二人きりになると、俺たちの場合話しても話さなくてもいい、と勝手に思っている。予期せぬ二人きり、且つ先週の出来事が出来事なので、俺は迷わず話さないで勉強するという選択肢を取る。
英語の単語帳を開いて、例文のなかに書かれた単語と熟語を覚えにかかると――三浦が膝に手を乗せて、もじもじとし始めた。この時点で頭に入れようとしていた熟語が綺麗に吹き飛んだ。
「ヒ、ヒキオ……」
「……ん、どうした」
朝イチで、他に誰もいない状況で三浦が緊張した様子で話しかけてくる。返事をする声が上ずらないのが精一杯だった。
三浦は金髪の毛先をくるくると指に巻きつけ、もじもじと恥じらっている。他の何かについて考えて気を紛らわすこともできず、目の前にいるクラスメイトが発する言葉を待つことしかできない。
「あ、あの、こないだの質問は……あ、あんま、深く考えなくていいから。べつに、大した意味ないし」
「お、おう、そ、そうか」
わざわざ言わなくてもいいのに。
わざわざ言わなくてもいいのに!
なるべく意識すまいとしていたのに、頬をほんのりと赤らめた三浦に言及されたことで脳内では『あのとき』の三浦が幾度となく再生されてしまう。なんでわざわざ言っちゃったのこの子は!
人をリラックスさせようとするとき、『緊張しなくていいよ』と言うと、言われた方の脳が勝手に『緊張』という単語を拾って緊張してしまうらしい。だからこの場合なら『落ち着きなよ』などと言った方が効果はあるそうだ。いまの場合で言えば、三浦はわざわざ言及してしまったことにより、俺だけでなく三浦自身まで気持ちが落ち着かなくなるのだ。地獄としか言いようがない。
この後は何を話すでもなくお互い勉強を始めたが、会話はなくとも明らかにお互いがお互いを意識していた。ちらりと隣を見やったときに目が合ってしまったときは目も当てられなかった。
× × ×
不幸中の幸いというべきか、この日の昼休みは久しぶりに葉山グループが集まった。由比ヶ浜と海老名さんが三浦の下へ遊びに来て、葉山の下へ遊びに来ていた戸部がそれを見つけて葉山を連れて遊びに来て……という具合で。俺はなんとなく退避しようとしたが、三浦の「ヒキオ、どこ行くの?」の一言により逃げられなかった。
久しぶりに集まったといっても、夏休み中に会っていた人もいるのでそこまで久しぶりという感覚はない。戸部は前にいつ会ったか覚えていないが、まあどうでもいい。
由比ヶ浜が積極的に話題を出して笑顔を振りまき、葉山が大人な返しをして、戸部がスべる。
うんうん、ちょっと懐かしいがいつも通りの光景だ。なんで俺がここにいるんだろうという違和感がすごく強いが、いまさらな話しではある。
ぬぼーっとした表情でみんなのやりとりを見ていると、不意に戸部が芝居がかった声で喋りだした。
「やーっぱ女の子は手料理でしょー! な? 葉山くんもそう思うべ?」
「ああ、まあそういう面もあるが……俺は別に料理ができなくてもいいけどな」
「まーたまたー!」
三浦が微妙に反応しているのがいたたまれない。いますぐ戸部の太ももを強めに蹴りたいところだが、ここで俺が動けば思いきり怪しまれるので我慢する。
戸部の意見に対し、由比ヶ浜は「あはは……」と苦笑いを浮かべてから何故か俺をチラリと見て、海老名さんは虚空を見つめて「そっかー、じゃあ私は女の子とは呼べないかなー」と空々しい笑みを浮かべて言う。あれ、バレンタインイベントのときごく普通に作ってなかったっけ? と思っていると、戸部が「またまたー! 海老名さんも料理上手いっしょー!」と軽い調子で言うと、海老名さんが抜群の愛想笑いで返した。明確な返事を全くしていない。戸部、お疲れさま。
夕空のグラデーションのようにごく自然と話題が移り変わる。三浦をチラリと見ると、何か考え込んでいるようで会話に全く参加していなかった。
× × ×
昼休みを終えて俺と三浦以外のメンバーが散り散りになる。5限の授業の準備をしていると、三浦が髪の毛先をくるくると指に巻きつけながら、ぽそりと呟いた。
「ヒキオも……そういうの、好きなの?」
「あ?」
そういうのって、どういうの? さっきまでの会話のことを言っているのなら、あまりにも話題が節操なく変化していたためにどれのことを指しているのかまるでわからない。
俺が首を傾げていると、三浦が「だ、だから……」ともどかしそうに口元をもにゅもにゅと動かした。
「て、手料理のことだって……っ」
「あ、ああ、そういうことか」
顔を真っ赤にして言われては、俺も声が裏返らざるを得ない。
「まあ、そりゃあ嬉しいぞ。手料理なんて妹の小町のもの以外そうそう食わないからな」
目を泳がせながら答えると、三浦が目をパチクリとさせている。
「どうした」
「……ヒキオの妹、料理できるんだ」
「ああ、小町は何でもできるぞ。世界一の妹だからな」
「なにそれ」
三浦は呆れ笑いを浮かべたものの、どこか心ここにあらずといった様子だった。
× × ×
その日の夜。
いつものように両親は忙しすぎて帰ってきておらず、小町と2人で夕食をとっていた。
「んん……」
小町の手料理を食べながら、ふと三浦の言葉を思い出す。
「お兄ちゃん、どうしたの? 人様に見せられない顔になってるよ?」
「お前けなし方ひどくないか……いつも通りだろ、いつも通り」
「そうかなー、なんか考え事をしてるように見えたけど」
「んなことないっつの」
「恋の悩みとか?」
「…………」
お椀を持つ手を、一瞬、ほんの一瞬だけ止めてしまった。
達人同士の闘いでは一瞬の隙が命取りになるように、コミュニケーションモンスターである小町に見せる一瞬の綻びは即、尋問とも呼べる質問攻めに繋がる。
「お? お? なに、なになに? お兄ちゃん、何に悩んでんの? 小町にどーんと相談してみなさい!」
「いや、いい、そういうのいいから、いいから」
宝石店の一番奥のショーウインドウにありそうなダイヤモンドかというくらい目をキラキラとさせて迫ってくる小町を、必死に手で追い払う。
しかし、数分ともたずに口を割らされた。先週の三浦の質問のことなど、肝心な――というか恥ずかしい部分は隠して話をした。
× × ×
「ふーん、へー、ほーん……」
「うぜぇ……」
一通り話し終えると、小町が両肘をテーブルに付けて両手のひらにあごを乗せ、嬉しそうに首を左右に傾げてニヤけていた。心底楽しそうで心底腹が立つ。
「そっかそっか……手料理をお兄ちゃんに作りたがってるのかぁ……」
「待て待て、そんなこと一言も言ってねえだろ」
「どう考えてもこの結論に行き着くでしょ。お兄ちゃん、本当に自覚なしで言ってる? 自覚ありで言ってるならただのヘタレだし、自覚なしで言ってるならもう色々とアレだよ!」
「色々とアレってなんだ……」
取り敢えずろくでもないものであることだけは分かる。
小町の言葉に、頭をがしがしと掻いて「あー……」と唸った。
「……まあ、薄々勘付いてはいる」
「ならよろしい」
小町がふんすと鼻を鳴らした。何故鼻高々なのか。
腕組みをしたかと思うと、顎に手を当てて「ふむふむ……」と考えはじめた。いかん、ろくな予感がしない!
俺が何か言うよりも早く、小町の目がキュピーンと光った。お久しぶりですヤマピカリャー。
「お兄ちゃん、小町に良いアイディアがあるよ」
「まあ! 素敵だわ小町。これなら汚れた台所の掃除もあっと言う間ね。それじゃあ次の商品を……」
「アメリカのテレビショッピングの真似をしてもごまかせないからね? ていうかなんで急にそんなよくわかんないことすんの?」
「ぐ……」
逃げられなかった。そしてツッコミというよりは正論で固めた糾弾を受けた。つらい。
「それじゃあ、まずはね……」
誰に聞かれるでもない作戦内容を、何故か耳打ちで説明してくる。何をしょうもないことを……と呆れたが、本当に楽しそうに笑っているのを見ると何も言えなかった。
続く。
お久しぶりのヤマピカリャーでした。
それでは、今回もお読みいただきありがとうございました(^^)!!