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ひと昔前、それこそ親の世代がまれに言っていた言葉がある。
「アイドルの〇〇と握手できた。もう一生この手を洗わない」
こんな言葉だ。
言わんとしていることはわかる。ずっとテレビの中で見ていた憧れのアイドルに会えたのだから、それは嬉しいだろう。今は発信者とファンの双方向のやりとりも増えて、会いに行けるアイドルもいれば、会いに来る芸人なんて人もいる。それでも、自分が憧れ、焦がれていた存在に会えるという喜びは変わらないと思う。
そんな風に思っていても、それでもなお、先ほどのフレーズは言い過ぎではないか、と思っていた。仮に手を洗わなくても、ドアノブは掴むし電車のつり革も掴む。雨に打たれることもあれば風に晒されることもあるだろう。仮に自分が何もしなくても、いずれ憧れの存在の成分は完全に消えてなくなるだろう、と。
このフレーズを本気で言っている人もいれば、人によっては「このフレーズをいつか言ってみたかった」という、アイドルに抱くものとはまた別種の憧れを抱いていた場合もある。憧れのアイドルに会えて、そのことを友人に報告するとき、思わずこのセリフを口にするのだ。いずれにせよ、本気でそんなことを思っているのか? と疑ってしまっていた。
――けれど、あの日。
と言うか、昨日。
市立図書館で三浦と手をつないだときの熱が、未だに左手の奥に残っている。もしかしたら、憧れのアイドルと握手をした人もこんな風に手の奥に残る熱を大事にしたかったのかもしれないな、と思う。
けれど、俺の場合はそういった人たちと事情が違う。手を繋いだのは2年のときから同じクラスの、そして今は隣の席で、いつの間にかずいぶんと距離が近付いた女の子だ。手の熱がまったく引かないうちに、また顔を合わせることになる。
一度あまりに美味しい食べ物を食べてしまったら、次の日にはまた食べたくなるように。
俺はもう一度――あの熱を味わいたくなってしまっている。
× × ×
市立図書館で手を繋いだ、翌日。
「……うっす」
「……お、は、よう……」
教室が朝の喧騒に包まれる中、最後列の窓際の席に座る。努めて平静を保って挨拶をしたつもりだったが、俺の動揺が可愛く思えるくらい、三浦の声は上ずって動揺しきっていた。ペッパーくんの方が遥かに滑らかに喋っているぞ。彼は俺よりも饒舌だなぁ……とたまに見かけるたびに思っている。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
アニメで、自然の音のBGMを流しながら同じカットを延々と流しているかのような沈黙。10秒ごと2人の写真を取ってコピー&ペーストをしてもまったく問題がないまである。
「……昨日はよく眠れたか?」
話題に困った父親か、と自分にツッコむ。目を逸らしながら尋ねたため、新聞を読みながら小町に話をふる父親と重なってしまった。ちなみにこういうときの小町の返答は超がつくほどそっけない。Siriに話しかけた方がよっぽど会話が弾む。小町にさらりと流されたときの父親は新聞の向こうでちょっとプルプルしている。打ちひしがれる父親ってあんまり見たくないんだけどなぁ……。
俺の拙い言葉に、三浦はぎぎぎとこちらに顔を向けた。今朝は首に油を差し忘れたのかしら?
「……その、あ、あんまり、寝れてない……」
「そ、そうか」
「うん。…………」
…………。
俺たちってこんなにぎこちなかったっけ?
お互い黙っている時間も多いが、それはあくまで心地良い時間だったはずだ。三浦の表情からしても同じ気持ちだったはず。
それが今はどうだ。
なんか、変な感じになっている。
しばらく黙り込んでしまう。周りは依然として騒がしいが、2人並んだこの空間だけが、見えない膜が何重にも張られているかのように思える。
「……あ、で、でも」
三浦がぽそりと呟いた言葉に振り向く。三浦はまるで机に視線を縫い止められる呪いをかけられているかのように、じっと自分の席を見つめていた。
「お弁当は作ってきたから……」
「お、そ、そうか、うん、すまん、助かる」
寝不足だったというのは、十中八九昨日のことが原因だろう。それでもなお弁当を作ってくれるというのか……。
「勉強も、その、ちゃんとしたし……」
偉いとしか言いようがなかった。
「……すげえな。俺はもう全然寝れなかったし、勉強もできなかった」
「え……」
迂闊に発した言葉に後悔した。
俺は昨日、努めて動揺を表に出さないようにしていた。正直心臓が爆発しそうだったが、それでもなんとか、なんとか平静を保っていた。しかし今の俺の発言は、「実はめちゃくちゃ動揺してました」と告白しているようなものだ。
もしかしたらそんな風に受け取らない可能性もあるかと思ったが、三浦は驚きながらも頬を赤らめてこちらをじっと見ている。
どうこの場を切り抜けるか、いやそもそも切り抜ける必要があるのかなどと煩悶していると、先生が教室に入ってきた。会話は一旦中止されたが、顔は熱いままだった。
× × ×
「はい、お弁当」
「ありがとな」
昼休み。
授業と授業の合間もろくに会話ができないままだったが、この時間に屋上に来るのはもはやルーティンと化していた。ほとんど会話のないままスムーズに屋上に向かい、今に至る。
三浦がもじもじとしながら俺の反応を窺ってくるので、さっそく弁当をいただく。見た目も味も日に日に磨きがかかっていた。
「今日のも美味かった。ごちそうさま」
「お粗末さま」
三浦がほっと息を吐く。自分の弁当を食べる間も俺の食べる様子を見ているので、なんだかマナー研修を受けている気分になる。
「最初はすごく時間がかかってたけど……段々コツがわかってきたかもしんない。練習もしたいから、その、……毎日作ってもいい?」
「え」
思わぬ言葉に目を見開く。今の時点でも週2の至福となっているのに、この上さらなる至福を味わえと言うのか。
しかし今は受験生の身だ。いくらなんでも……と言おうとすると。
「……だめ?」
膝を抱き、顔をうずめた状態でちらりと横を向き、小動物のような瞳と親にねだるのに慣れた女の子のような声で問いかけてくる。
反則だ、これは反則だ。
三浦にこんなことを言われて、ぐらりと揺れないわけがない。由比ヶ浜や海老名さんと喋っているときは今まで通りの振る舞いをしているのに、2人でいるときに時折見せるのはこんな風にしおらしい仕草。
しかも最近は毎日この仕草を目の当たりにしている。昨日の熱がまだ冷めやらぬなか、恐らく本人は極めて無自覚に言っているであろう破壊力たっぷりの二文字を叩きつけられる。
これで「だめ」と返す輩はいるだろうか、いや、いない。思わず反語を使ってしまうほど動揺している。ぐらぐらだ。俺の心の足場を抜き去り、柔らかなゼリー状のもので包み込まれしまったかのような何を言ってるんだ俺は。
「……三浦がいいなら、ぜひとも頼みたい」
以上の思考をコンマ数秒で回し、噛みそうになりながら答える。三浦はエサを持った主人に気付いたパグのように顔をぴこんと上げ、花が咲いたような笑みを浮かべた。
「……うん、わかった」
どうしてそんなに嬉しそうなんだ、と尋ねたくなるくらい嬉しそうに返事をする。そして、恐る恐る2人のあいだの距離を詰める。ふわりと香る甘やかな香り。この匂いを嗅ぐと条件反射で心が安らぎ、同時にドキドキしてしまう。後者が勝っているため心拍数で言えばかなり上がっているだろう。
「……ん」
三浦が何も言うことなく、すっと頭を近付ける。綺麗なつむじだな……と思いながら、根本まで綺麗に染め直された髪をくしくしと撫でる。日なたの縁側で昼寝する猫のように、三浦の瞳が細められた。
数分のあいだゆっくりと頭を撫でて元に戻る。あとは昼休みが終わる間際までのんびりと過ごすだけだろう。弁当をもらい、頭をなでるという流れはもちろん緊張するが、それでも最近は2人の習慣になりかけている。朝ほどの緊張は2人の間に流れていなかった。
『あ……っ』
頭を撫で終えると――予想外にも、それでいてある意味予想通りのようにも思える出来事が起こった。
距離を詰めて座っていた俺と三浦の手が、それぞれ何かしらの目的があったのか、膝に乗せていた手を同時に下ろした。三浦は右手で、俺は左手。昨日の図書館での行動をなぞるように、自然に、とてもスムーズに、2人の小指が触れる。まるで一時停止のボタンを押されたかのように、2人の手がぴたりと動きを止めた。
どこに置くでもなく、極めて不自然な位置で止まる。俺はどうしたいのか、三浦とどうなりたいのか。わかっているような、わからないような。微かに震えながらも動けないでいて、どうしたものかとちらりと横を見ると――三浦と目が合った。俺と同じ気持ちでいるのか、どうしたらいいのかわからないと言うような、まるで迷子になってしまっているかのような表情。
そんな顔を見たくない、と思った。
さっきみたいに花のように笑ってほしい、と思った。
そう考えたら、自然と身体の強張りが解けた。
三浦の目を見たまま、かすかに触れていただけの小指をそっと左にずらす。昨日の三浦のように、細い小指をまたぎ、薬指をまたぎ、中指をまたぎ、人差し指をまたぎ、親指をまたぐ。触れ合って初めて気付く。三浦は傍から見ていたときよりもずっと華奢で、繊細なのだと。3年生になってから三浦のそういった面はたくさん気付いていたが、それでも、今こうして触れると改めて三浦優美子という存在が繊細で、か細げで――愛おしく思える。
「…………っ」
俺の手が重なると、三浦の瞳に映る光が揺らいだ。綺麗な唇がほんの少しだけ震える。昨日三浦がしたことを、今度は俺がした。だからなのか、三浦は昨日の俺がしたように、右手をくるりと回して手のひらを重ね合わせた。
2人の指が絡み合う。相手の感触を、自分とは違う性を持つ相手の指を確かめるように、そろりそろりとまさぐり合う。自分の手に通っている神経が、今この瞬間に10倍に増やされたような感覚。三浦の緊張が、昂ぶりが、息遣いが、手のひらを通して全て余すことなく透けて見えるような気がした。
生まれたときからそうであったかのようにぴったりと指を絡め合うと、つないだ手にほんの少しだけ力を込めた。たったそれだけで、三浦の身体がぴくりと跳ねる。繊細な手が、指が、焚き火でじりじりと熱したように熱い。多分俺の手も熱くなっている。
「…………っ」
三浦の細い喉がこくりと鳴る。それとほぼ同時に、脚をぴったりと閉じて座っていた三浦がひざにおでこを当てて顔を隠した。それでも、手は繋いだままだった。真っ暗闇の中で手をつないで歩いて、俺の存在を確かめるかのように時折にぎにぎと可愛らしく握ってくる。ここにいるぞと応えるように、そっと握り返した。
尋常でないほどの緊張で手のひらがたっぷりと汗ばんでも、三浦の手を離すことはなかった。三浦の手も汗をかいているかもしれないが、確かめる術はない。
そうして、昼休みが終わるぎりぎりまで、俺は俯いた三浦と手をつないでいた。
続く。
手を繋ぐ2人の淡さよ……!
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