「何ヶ月か前に会ったとき、先生は言ってましたよね」
――同僚とちょっと良い感じになってるんだ。
あのとき、ほんのりと顔を赤らめて話す平塚先生がどうしようもなく可愛く思えて、それと同時にもやもやする気持ちも抱えていた。
「あのあと、どうなったのかなって」
平塚先生は大人だ。「良い感じ」という言葉を使う以上、もう何度かデートに行ったり、あるいはそれ以上のこともしているかもしれない。この数ヶ月間、何度も何度も想像しては振り払い、そのたびにまた想像してしまっていたこと。十重二十重の糸が心臓をぎゅっと締めつけるような、そんな痛み。
俺の言葉に、平塚先生は苦笑を浮かべる。ビールをぐいと傾け、ふっとため息をついた。
「……あのときは柄にもなく浮かれてしまったな」
「可愛かったですよ」
無言で小突かれる。胸板を握りこぶしでぽすんと。
「君もある程度察しているだろうが、同僚の彼とは何度もデートに行ったよ。前年度からよく雑談をしていて、春休みに初めてデートに誘われた。君とご飯を食べたりドライブをする以外で、週末が楽しみになるというのは久しぶりの経験だった」
さりげなく嬉しい言葉を言ってくれているが、茶々を入れないよう黙ってうなずく。
「彼は私と同年代でね。オタクな話はできないが気遣いのできる人で、いっしょにいて楽しかった。純粋にな」
自分以外の男の話を聞くのがこんなにつらいのかと、自分から聞いておきながら強く強く思った。話すのをやめてもらえませんか、などと自分勝手にも程があることが言えるはずもないのに。
「正直、ほとんど付き合っているも同然の関係だったと思う。彼から交際を申し込まれたらオーケーをする気満々だったし、むしろ私から言おうかとも思っていた」
平塚先生の言葉をきちんと受け止めながらも受け流そうとして、ビールのプルタブを開ける。先生は俺の行動にも気付かない。懐かしそうに思い出す先生の横顔を見るのが悔しい。ビールを一気に流し込む。口内を駆け抜ける苦々しさが、意外と今の心境に合っていた。
「私も年齢が年齢だからなぁ……。もしお付き合いすることになったら、結婚することまで考えていた。……でも」
先生の声音が強張る。美しい思い出を辿っていた瞳に、怒りの炎が灯ったように見えた。
「聞いてしまったんだ。同僚の女性たちの会話を」
――あの人、2年くらい付き合ってる人がいるのに○○先生を口説いてたみたいだよ。
――うわー、ドン引き。
――あの人の女遊びのうわさって、挙げたらキリがないくらいあるよね。信じらんない。
「ただの同僚の噂話ならくだらないと切り捨てていた。しかし、その話は聞き逃すわけにはいかなかった。彼に付き合っている人がいるのも知らなかったし、今口説かれていると噂されている先生の名前に挙がったのは私ではなかった」
平塚先生にとって一番になっていた人。けれど、その人にとって平塚先生は一番ではなく、それどころか何番なのかもわからない。
「……そんな人、本当にいるんですね」
ビール缶を握る手に自然と力がこもる。
「私も現実では初めて見たよ」
平塚先生がふっと苦笑する。今まで見たことのない疲れた笑み。
「すぐに、彼にそれとなく聞いてみたよ。そしたらすらすらと言い訳を言い始めて驚いたよ。今まで誠実に見えていた彼がとてつもなく薄っぺらく見えるようになってしまった。気が付いたらただただ頷いていた。彼からすれば、私は言い訳をそのまますんなりと信じていたように見えただろう。明確に失恋して、もう彼に興味を抱くことができなくなっていただけなのに」
同僚に相談したりしなかったからなぁ……と先生がつぶやき、ビールをぐいと傾ける。
「そんな訳で、今まではキラキラしていた週末が急にくすんでしまったわけだ。それでふと、君と気兼ねなく話す時間が恋しくなったんだよ。勝手だろう?」
「そんなことないです。……その、なんていうか、お疲れ様でした」
「ふふ、ありがとうな。……恋を失くす前に愛想をつかしてしまったから、ショックらしいショックはないんだ。けれど、むなしくてな」
俺がビールを呑んでいることに先生がここで気付く。
「もう大丈夫なのか?」
「俺も呑みたい気分なんです」
「ふふ、そうか」
ビール缶同士をこつんと合わせると、互いの爪と爪がかすかに触れた。心臓が淡く跳ねる。
先生がぐび、ぐびと勢いよくビールを喉に流し込む。その表情はとろんとしていて、様々な感情をアルコールでごまかしたいという願いが見えた気がした。
「どうして私はこんなに男運がないんだろうなぁ……」
ぽそりと自嘲気味に呟かれた言葉。いつも通りの愚痴にも聞こえるが、やはり先生は深く傷ついているのだとわかる。本当に平気なら、こんなふうに目を伏せて寂しそうにつぶやいたりしない。
なんでこんなに素敵な人が苦しまなきゃいけないんだ、と心から思う。
先生はこの数ヶ月のあいだに、一生の覚悟を決めるような恋をして、誰に言うでもなくその恋の行き場をなくし、深く傷ついていた。俺はそのあいだ、ただもやもやしていただけ。その事実がたまらなく悔しくて、自己嫌悪の波が何度も何度も押し寄せてくる。
せっかく先生は話してくれたのだ。それならば、この場でなんとか少しでも先生の心を癒したい。
「そんなの、男どもに見る目がないだけですよ」
ぽつりとつぶやく。いつか連れて行ってもらった夜のドライブで口にしたのと同じ言葉。
ちらりと先生を見やると、口をぱくぱくとしていた。物憂げな大人の女性が急にウブな少女に変わったような、そんな愛くるしい変化。
「き、君は本当にどうしたんだ? そんな歯が浮くようなお世辞を……」
「俺はお世辞を言いません」
曖昧に紡がれる先生の言葉をぴしゃりと跳ねのける。俺の心をごまかしてうやむやにしてほしくなかった。先生の頬が酒気とは別の朱を帯びる。
ビールの缶を傾けると、滴がちろりと口の中に落ちた。いつの間にか呑み干していたらしい。
「俺はお世辞を言いませんから」
「わ、わかった。わかったから……っ」
先生があわあわと手を突き出す。ふだんは凛々しく締まった表情が今は羞恥でふにゃふにゃだ。そんな先生を見ることができるのが嬉しい。
先生の心をいっときでも惹きつけた男への嫉妬か、あるいは軽蔑か。ここ数ヶ月、そして先生の話を聞いてたまりにたまった感情をすべて吐き出してしまいたくなる。
けれど、みっともない怨嗟の言葉を口にするよりも、今は目の前の女性に対する素直な思いを言葉にしたい。
「き、君はいつからそんな軽口が叩けるようになったんだ?」
「さあ? 先生の恋バナを聞いて口が軽くなったのかもしれないです」
「な、なんだそれは。ああもう、顔が熱い……」
「そうですね、真っ赤で可愛いですよ」
先生が目を見開き、俺の二の腕をてしてしと叩いてくる。その口元はもにょもにょとしていて、ついさっきまで色濃くにじんでいた憂いはそこにない。たまらなく嬉しくなって、もっと口が軽くなる。
「先生は綺麗だし、可愛いし、魅力的です」
「う、うぅ……君にそう言ってもらえるのは嬉しいが……それでも貰い手がいなかったらどうしようも……」
「じゃあ俺が貰っちゃいますか」
「え? 貰ってくれる?」
「え? あ」
先生を慰めるつもりだったのに、いつの間にかまるきり告白としか思えない言葉を口にしていた。
先生は目をぱちくりとさせて俺をじっと見ている。顔は羞恥で真っ赤というよりは、ぽっぽとリンゴのように赤くなっている感じ。なんだその顔、超可愛いな。
口が軽くなったといっても、ウソを言っているつもりはまったくない。そんな訳で俺も顔が熱い。超熱い。これはなんだかまずい。非常にまずい。
「……えぇと、ちょっと呑みすぎたみたいです」
言い訳にもなっていない言葉に先生がにやりと笑う。
「『最近の研究だと、お酒を呑むことによって性格が変わるんじゃなくて、本来持っている性格がより強調される』……とさっき誰かから聞いた覚えがあるなぁ。んん~?」
「梅酒をいただきます」
「ほう、いいじゃないか。呑め呑め」
無理やり話を方向転換させると、先生はあっさりと乗っかった。酔っているためすぐに今の話題を忘れてくれたのかと淡い期待を抱いたが、いたずらっぽく笑う先生の顔を見るにそうではないらしい。
「呑んで呑んで、もっと本音で話そうじゃないか。君も、私も」
「へ?」
「……早く呑みなさい」
グラスに注いだ梅酒に氷を入れ、俺の頬にぐいぐいと押しつけてくる。先生はいつの間にか梅酒と氷の入ったグラスをもうひとつ用意していた。
「さっきの話だけどな。君のキザったらしい言葉ですっかりどうでもよくなってしまったよ」
「奇遇ですね、俺もです」
「……なんだか楽しくなってきた」
「……奇遇ですね、俺もです」
先生が目を伏せると、まつ毛がとても長いことに気づいた。いつの間にか先生との距離が近い。先生が近付いたのか、あるいは俺から近付いたのか。
「とりあえず、仕切り直そうか。乾杯」
「乾杯」
――呑んで呑んで、もっと本音で話そうじゃないか。君も、私も。
ついさっき先生が発した言葉が、頭の中を何度も何度も行き交った。
続く。
じりじり高まっていく感。
それでは、今回もお読みいただきありがとうございました(^^)!!