ダガールは主人の髪をリボンで束ねながら、さりげなく指先で彼の頬をなでた。
鏡台の前に座っているユダは何も感じなかったように鏡に映る自分だけを見つめている。
聖帝城に与えられた主人の居室で、ダガールはユダの身支度を手伝っていた。
晩餐に正装して出席せよ、と命じられたのだ。
サウザーは時折、饗宴を催しては戦前と変わらぬ贅沢を楽しんだ。誰もが陪食の栄を賜るわけではなかった。ごく限られた人間だけが聖帝とともに山海の珍味や美酒を味わうことができるのだ。
ユダは黒い燕尾服と白いウェストコート、ウィングカラーの衿元にホワイト・タイという夜の最上級の礼装に身を包んでいる。
背が高く肩幅が広く、硬く引き締まった身体は男そのもの。だが、淡い灯火にも映えるように濃艶な化粧をした顔は女。男と女が奇妙に入り混じった、一種異様な美しさだった。
「あなたは本来、こんな場所にいるべきではないのです。私がもっと早く駆けつけることができていたら、あなたをこのような目に遭わせることはなかったでしょうに」
ダガールはユダの肩に手をかけて、そう語りかけた。
身に覚えのない通敵容疑で国外退去になったユダの両親は息子を取り戻すために手を尽くした。
しかし、再三にわたる帰国要請も無視され、このままでは埒があかないと判断した夫妻は非合法の手段もやむを得ないと決心した。アルトシュタット家と懇意にしていたフランス領事館の駐在武官に依頼して、息子を拉致する計画を立てたのだ。
だが、この計画はアルトシュタット家の当主自身が中止させてしまい、実行されなかった。孫息子が国防軍士官学校に入学したと知った彼はイギリスに連れ戻すより、このまま日本に留め置いて極東アジアでの活動を担うブレーンとして育てたほうがよいと判断したのだ。そこには孫息子を通じて日本の若手将校らを欧州閥に取り込もうとする意図もあった。
駐在武官のダガールは梯子を外された格好になったが、学生時代の友人であったシモン・アルトシュタットの悲歎を見るにつけ、彼の息子を見放すことはできなかった。
苦心のすえ、ダガールはようやくユダに接触することに成功した。
「私はきみのお父上から、きみをイギリスに連れ戻すように頼まれた者です。それが叶わないときには出来うるかぎり、きみを守ってほしいと」
そう言ってダガールは、ユダの父がいつも小指に嵌めていた
ユダは声もなく指環を眺めていた。頬をつたう涙を見て、ダガールは少年の境遇に心の底から同情した。抱き締めて慰めてやりたい、このままずっと傍にいてやりたいと思った。その想いは文明社会が崩壊し、国家そのものが消滅した後も変わらなかった。それ以来、日本の覇権を握ろうとするサウザーの片腕となったユダの副官となることで彼を守りつづけてきたのだ。
ユダは口紅を付け足そうとして取り上げた紅筆を下ろした。
「まるで、おれが不幸であるかのような言い草だな」
「ちがうとでもいうのですか」
「自分が不幸だと思ったことは一度もない」
強がりだろうとダガールは思った。ユダと出会って以降、彼が幸福そうにしている姿を見たことがなかった。何より不幸なのは当の本人がその事実を認めようとしないことだった。
ダガールは無言でユダを眺めた。
背が高いわりに身体つきがほっそりしているのが、アルトシュタット家の代々の特徴である。しかしユダは自分の華奢な体型を嫌い、非常な鍛錬と節制によって、ギリシア彫刻をおもわせる肢体を手に入れた。男性美の見本のような完璧な肉体だった。
彼は身体を鍛えるだけでなく、美しい女を我が物とすることにも執心した。
栄耀栄華を夢みて積極的に身を任せる女もいたが、ユダはそういった女には興味がわかず、他人が大切にしている女を略奪することに熱中した。
美しい娘を親元から引きずってこさせ、軍閥の長に艶麗な妻がいると聞けば攻め滅ぼして力ずくで奪い取ることまでやってのけた。だが、そうやって手に入れても一ヶ月もすれば飽きてしまい、犬猫でも与れてやるように配下の者に下げ渡してしまう。荒野には輪姦され嬲り殺された女の亡骸が打ち捨てられていた。たとえ息があったとしても正気を失っていた。彼女たちの肩や胸にはユダのイニシャル、UDの焼き印が捺されていたから、誰もがこの凶行の犯人に思い至り、ユダは近隣の人々から憎悪の対象となっていた。
身体を鍛えることも、美しい女たちを囲うことも、サウザーに奪われた男性性を取り戻そうとする行為に他ならない。だが、ユダは依然としてサウザーに囚われたままなのだった。
サウザーにとってユダは愛玩物以外の何物でもない。この城にいるあいだは夜毎、サウザーの寝所に召され、若くしなやかな身体をもてあそばれる。
ダガールは拳を握り締めた。彼は強い憤りを覚えていた。しかし同時に、烈しい欲望をも否定することはできなかった。それはサウザーとの関係を知ってから芽生えた欲求だった。ユダが女として抱かれうることに気づき、彼を性的な対象として意識するようになっていたのだ。だからといってユダを自分の思い通りにしようとは考えなかった。自分の想いはそんな低劣なものではなかった。
ユダが鏡ごしにダガールを見つめている。目が合うと、美しいが邪悪な微笑みを浮かべた。
「おれが欲しいなら好きにすればいい。お前がそうしたいなら」
ダガールは眉間に皺を寄せた。
身体を投げ出すことを何とも思っていないのだ。こちらの想いを知っていてなお、平気で踏み躙ろうとする。ユダにとって自分はその程度の存在なのだ。
ダガールは鏡台の縁に手をつき、ユダの間近に顔を寄せると、強い口調で言った。
「あなたを抱くつもりはありません。それはあなたを単なる肉欲の具にしたくないからだ。私はあなたを愛しているのです」
サウザーに対する皮肉のつもりだったが、ユダの心には響かなかったようだ。
ユダは薄く紅を刷いた瞼を伏せ、口元に笑みを作った。冷笑するというより、自嘲しているような笑い方だった。
ユダは口の中で小さく呟いた。
「気の毒にね」