サウザーは国政の主宰者として万機を総攬する。
新田開発を行うための開墾と水路の開削、禿げ山となってしまった多摩丘陵の植林。開拓地への住民の移住と彼らを管理する代官の任命。街道の整備と港の新設。これらは強大な常備軍を維持し数年にわたる軍事活動を可能にするため、国力を充実させるのに必要な事業である。
だが、目下の最重要課題は市ヶ谷にある国防省地下基地の攻略であり、サウザーは謁見の間の玉座に坐して、その推移を見守っていた。
ラオウやシンとは違って、サウザーは親征というものをしない。
元・国防陸軍の将校としても、南斗鳳凰拳の伝承者としても、自らの強さには絶対の自信がある。しかし、アレクサンドロス帝国を引き合いに出すまでもなく、帝王に万が一のことがあれば帝国は崩壊する。サウザーにとって、我が身を危険に晒してまで武威を誇るのは愚の骨頂であった。
玉座の
「計画はすべて予定通りにて、数日中には決着がつくものと思われます」
「よかろう。退がってよい」
軍使は一礼すると、広間を出ていった。
国防省本省の地下基地を攻め落とす軍事作戦は順調だった。
聖帝軍の第一軍や第二軍だけでなく、サウザーが監視役として附けている軍監からの報告も、すべてが滞りなく進んでいることを告げている。
にもかかわらず、サウザーの心の内には焦燥にも似た感情がわだかまっている。
ユダを攻略軍の主将として派遣したのは自分を裏切ってシュウと通じたことへの懲罰だった。しかし、いまではそれを後悔する気持ちも芽生えはじめていた。
シュウに対するユダの思慕を知っていればこそ、二人が接触する可能性がある状況など作るべきではなく、どんなことがあろうと自分の手許にユダを留め置いたほうがよかったのではないか、との思いもわき上がってくるのだ。
肘掛けについた手に顎を預け、しばし目を閉じる。
サウザーの記憶のなかには、さまざまな酸鼻を極める光景がある。
それは戦場の炎と立ち上る黒煙であったり、空爆や砲撃によって負傷した人々の流す血や腐敗した屍体、穴だらけになったビルの外壁や焼き払われた小麦畑であったりする。
故郷ウクライナを離れたのは、まだ目も開かない赤児のときだったから、戦火につつまれた彼の地の光景を憶えているはずがない。だからこれは後年、養父からの聞き伝えによって形成されたものなのかもしれない。しかし、見たこともないはずのその光景は現実にも負けない迫力をもって彼の眼前に迫ってくるのだ。
また別の情景もあった。
憲兵であったサウザーは情報機関の将校であり、また拷問吏であった。彼の足下には冤罪を訴える被疑者が気息奄奄たる姿で横たわっている。限りなく死に近い責め苦を与えながら、現実の死からは遠ざける。そうすれば大概の人間は落ちる。なかには本当に無実の者もいただろうが、必要なのは自白であって真実ではなかった。
しかし、このときサウザーの眼裏に真っ先に甦ったのは、そうした凄惨な光景のいずれとも異なり、しかもそれらに劣らぬほど強烈な印象を植えつけた一場面だった。
それは
梅雨の晴れ間となった七月初旬のある日、サウザーは港区の一等地にある瀟洒な洋館を訪れた。スイスの軍需企業アムシェル・インダストリアル社の社長が主催するガーデンパーティーに招かれたのだ。
サウザーはウクライナからの亡命者だった。
亡命先の日本で国防軍士官学校に入ったのは早く出世できるからだ。戦災孤児の少年が極東アジアの島国でのし上がっていくにはそれが一番の近道だったのだ。
士官学校卒業後は一貫して軍の情報部門を歩んできた。
憲兵隊本部では外事警察を担当する調査一課に所属し、おもに欧州筋からの情報収集と分析を行っていた。欧州の政治を動かしているのは第一次大戦以前から存在している貴族階級につらなる人々である。彼らに近づき、伍していくには日本人よりサウザーのようなヨーロッパ人のほうが都合がよい。軍上層部はそう判断したのだ。サウザー自身、与えられた地位を自らの出世のために最大限利用することにしていた。
芝生の広がる庭では、大勢の客がそれぞれの手に料理の皿やグラスを持ち、談笑している。ほがらかに会話を交わしながら情報を交換し、肚の探り合いをし、商談の根回しをする。招待された面子は国防関連の受注者と発注者であり、場所が個人の邸宅というだけで、実際には兵器の展示場と何ら変わりがなかった。
世界中の人々の苦悶をよそに、欧米の金融財閥や国際石油資本、軍需企業は我が世の春を謳歌していた。第一次世界大戦を支えたのが米国の投資銀行JPモルガンであったように、第三次世界大戦では英国の
軍事産業でも、欧州の企業が躍進していた。スイスに拠点を置くアムシェル・インダストリアル社もまた日本の国防軍の武器や装備品関連に深く食い込んでいる。
招待主であるシモン・アルトシュタット社長の隣に十代前半とおぼしき少年が並んでいた。顔見せのために社長が息子を連れてきたのだろう。国防大臣や事務次官、兵器開発担当技官らと知己らしいその少年は国防軍幼年学校の制服を着ていた。
サウザーは彼らのもとに歩み寄った。
「お久しぶりです、社長。本日はお招きいただきありがとうございます」
挨拶したサウザーは
憲兵や特務警察はどこの国でも疎まれる存在だ。国防軍の憲兵も、第二次大戦中の旧日本軍同様、政治警察としての権限を与えられている。国家の統制を乱すという理由で
最年少の憲兵隊長であり、いずれ憲兵司令部のトップになるだろうとも目されるサウザーを粗略に扱うことはできない。親しくしておいて損はない。その点をよく弁えている社長はそつのない微笑を浮かべ、流暢な日本語で応えた。
「よく来てくれました。今日は楽しんでいってください」
サウザーも笑顔を返し、視線を少年のほうに移した。
「私の息子です。こちらは懇意にさせていただいている憲兵隊のサウザーさんだ。さあ、ご挨拶して」
「はじめまして。ユダ・デイヴィッド・アルトシュタットです」
紅い髪の少年は礼儀正しく自己紹介した。サウザーは鷹揚に微笑んだ。
知っているとも。おれは、きみに会いに来たのだ。
きみの名付け親は祖父マイヤー・アルトシュタット。欧州の政治と経済を支配している“皇帝”だ。
名前の由来は裏切り者として悪名高いイスカリオテのユダではなく、きみたちの遠い先祖とされるユダ族から取ったものだ。ヘブライ王国の王ダヴィデの若枝。いかにもシオニストのマイヤーらしい命名だ。そういえば、アルトシュタット家の紋章は獅子だったな。ユダのライオン。つまり、きみたち一族はユダ王国の正統な王位継承者というわけだ。
「幼年学校ではこの子も南斗聖拳を学んでいます」
シモン・アルトシュタットの左手の小指には双眸の色と同じ
「あなたも南斗聖拳を究めておいででしたね」
「私は鳳凰拳です」
ユダ少年の顔に初めて興味の色が表れた。
「鳳凰拳……では、あなたは六聖拳の一人なんですか」
「そうだよ」
南斗聖拳の
六聖拳とは南斗聖拳で最高峰とされる六つの流派の頂点に立つ者のことである。そのうちの一流派は継承者がなく断絶したので、いまは五人だ。
「南斗聖拳は比較的歴史が浅いにもかかわらず、百八の流派に分かれているとききました。ずいぶん奥が深い武術なのですね」
シモン・アルトシュタットが興味深げに言った。サウザーもうなずいて応えた。
「我が国はいま中国と交戦状態にありますが、さいわいなことに南斗聖拳だけは徒手格闘術から外されることはありませんでしたね」
当たり障りのない会話をしながら、サウザーは少年を観察していた。
幼年学校の生徒というわりに、この少年からは軍人を目指しているといった気負いめいたものが感じられない。制服とはいえ身装りがいやに整いすぎているし、頭髪もダ・ヴィンチの描いた天使のような美しい巻き毛になっている。まるでモデルの子供が撮影のために、たまたま幼年学校の制服を着ているだけといった印象すら受けるのだ。
大人たちにつき合うのに飽きてしまったのか、少年はしきりに自分の髪をいじっている。
「この子は自己愛が強くて、自分の外見ばかり気にしているのですよ。それこそ女の子のようにね」
「たしかに綺麗な顔立ちをしていますね」
「義母がイタリア人ですので、その血を受け継いだのでしょう。向こうの実家では猫可愛がりされていますよ。妻も甘やかしてばかりいて。男の子なので、本当はもっと厳しく育てなければならないのですが」
淡い卵色のクラシカルなドレスに長い真珠の首飾りをつけたアルトシュタット夫人は、招待客が同伴してきた夫人たちと丹精された庭の薔薇を眺めている。こちらはラファエロの聖母子画のマリアのような優婉な美貌をしている。息子の面差しはどうやら母親に似たものであるらしい。
別の客が社長に挨拶しに来たので、サウザーは軽く会釈してその場を離れた。
ひととおりの挨拶が済んだころ、ようやく社長は息子を解放した。今度は母親が彼を手招きする。夫人たちのあいだから少年を歓迎する華やいだ笑い声が上がった。少年もさきほどとは違って、とろけるような笑顔で女たちに甘え媚びている。
サウザーはワイングラスを手に優雅にたたずんでいた。ときおり話しかけてくる知人らと言葉を交わしながら視界のすみでは、ずっとあの少年を見ていた。
やがて少年は女たちの一団からも離れ、邸のほうに向かった。だが、すぐには邸内に入らず、どうやら裏庭へまわるようである。サウザーもさりげなさを装って、彼のあとを追った。
石を敷いた
足もとに群生している夏雪草。白いダリア。繊細な花をつけたレースフラワー。
いずれも白い花ばかりだ。招待客をもてなしている庭園とは趣が異なっている。家人のためのごく私的な空間なのだ。
白いつる薔薇が滝のように
サウザーは秘かに笑った。
まるで秘密の花園だな。自己愛が強い子供だと父親が言っていたが。あの少年は神話のナルキッソスのように水面に映る自分の姿に恋しているのだろうか。
ようやく好機が訪れた。世界の命運を左右する欧州の金融財閥アルトシュタット一族の子供。それが目と鼻の先にいる。手を伸ばせばすぐに届く距離に。
獲物を逃がさない足取りで歩み寄る。突然の
「申し訳ない」
サウザーは笑みを浮かべた。
「トイレをお借りしたのだが、来たときとは違う場所から出てしまったせいか迷ってしまってね」
アルトシュタット邸の屋敷構えはすでに下調べしてあった。一階は接客用、二階が家人用。南側に
少年も微笑み返す。西洋人ならではの礼儀正しい、だが、こちらの態度次第ではすぐにも憫笑に変わる微笑み。
「ご案内します。サウザー……さん」
「呼び捨てにしてかまわないよ。私もきみのことはユダと呼ばれてもらうが、かまわないね」
「ええ、どうぞ」
「さっき南斗聖拳を学んでいると言っていたね。流派は?」
「紅鶴拳です」
「では、きみも六聖拳になるのか」
「いいえ」
ユダは首を横に振った。
「イギリスの学校に編入するための勉強しているんです」
「留学するつもりなのかな」
「違います。母国がイギリスなので向こうに帰るんです。おれは日本も日本人も大嫌いなんです。
ユダの口調からは東洋人に対する強い蔑視が感じられた。サウザーが同じヨーロッパ人であるという気安さから、つい本音が出たのだろう。
「なるほど」
さきほど感じた違和感の正体はこれか。彼の両親は息子を軍人にするつもりはないのだ。国防軍の幼年学校に通わせているのも、契約を有利にするための便宜的なものにすぎないのだろう。軍事企業の関係者にはよくある話だ。
ユダは自分を取り囲む白い薔薇の花々に手を差し伸べ、陶然とした表情になった。
「この世界は醜いものでいっぱいです。戦争はもう十年以上続いているけど終わる気配がありません。でも、ほんとうに生き残る価値があるのは美しいもの、強いものだけです。おれはお祖父さまや父さまたちと一緒に理想的な世界を作るんです」
サウザーは目を
理想の世界だって? アルトシュタット一族が、祖父マイヤーがこれまで何をしてきたか、この少年は知っているのだろうか。
21世紀初頭の新冷戦時代の到来。
最初の冷戦の舞台はソ連とその衛星国からなる東ヨーロッパだった。今度はロシアと中国を主軸とする中央アジアだった。
ロシアの脅威を煽り立て、欧州とロシアの経済的な連携を断ち切る。そして東欧の旧ワルシャワ条約機構国をNATOに加盟させ、ロシアの喉元に核ミサイル発射基地を建設する。その狭間にあったウクライナは親欧派と親露派による内戦で、戦場になった。サウザーはその混乱のさなかに両親を失ったのだ。
米国がNATO軍の駐留地域を拡大し、<
彼らが目を付けていたのはイラク北部からイラン、シリア、トルコにまたがる地域である。
イラクの未採掘石油埋蔵量は世界最大規模と推定されていた。
反米的な態度を取り続けるシリア政権を崩壊させるためにアメリカが反政府組織を支援したことで、イスラム過激派が台頭した。彼らは勢力を拡大して周辺地域を支配下に収めはじめた。だが、それは軍事介入のきっかけを得る絶好の口実となった。
イスラム過激派が攻勢を強めるなか、この地域の実質支配をもくろむマイヤー・アルトシュタットは英国政府に圧力をかけ、クルド自治区を保護する名目のもと独立を支援し、クルディスタン共和国を成立させた。そして初代大統領に自らの息がかかったクルド人活動家カズィ・ムハンマドを据えたのだ。
世界最大の埋蔵量を持つ油田地帯が英国系の国際石油資本の手に落ちたのである。
エネルギーを支配する者が世界を支配できる。20世紀の米国の政治家ヘンリー・キッシンジャーの言葉だ。英国を陰から操ってきたアルトシュタット財閥はこうして第二次大戦後に失った世界の支配権を奪還したのだ。
だが、その過程で、大国の野心というジャガーノートの巨大な車輪に轢殺されていった人々の苦悶や怨嗟の叫びなど、彼らの耳には届かなかっただろう。
少数精鋭のエリートによる支配。それはサウザーの理想でもある。だからといって、その担い手が彼らアルトシュタット財閥である必然性がどこにあるというのか。
強い風が吹き寄せ、薔薇の
「すごいな」
「イギリス原産の薔薇です。おれはこの薔薇がいちばん好きなんです」
ユダが目を上げ、まっすぐにサウザーを見つめた。
サウザーの手が思わず止まった。
なぜ、そんなことをしたのかサウザー自身にもよく分からなかった。ただ触れてみたいという、自分でも理解できない衝動がわき上がったのだ。
ユダは翠玉の瞳を見開いたまま、動けずにいる。
手を離すと、ユダは足もとをふらつかせて、よろめきかけた。胸に抱き留めて支えてやる。
「きみとはいずれ、ゆっくり話ができるだろう」
腕の中で少年が小鳥のように身を慄わせるのを感じながら囁いた。
解放してやり、今度はきちんと立たせてやった。
サウザーもやはり足を止め、少年を見つめ返した。もはや一言も発することなく。そうして二人の周囲で、すべての時間が動きをとめ、静止してしまったかに思われた…………。
サウザーは玉座に坐したまま、虚空を凝視している。その眼差しはここにいない誰かを見つめつづけているようだった。
どんな策を使ってでも、あの少年を手に入れようと決意したのは、あのときだった。たとえアルトシュタット財閥の一族でなかったとしても、出会ってしまった以上、かな らず自分の物にしようとしただろう。
あのとき生まれた感情を思うと、自分でも奇妙に感じられるほどだった。いままでの人生を振り返ってみても、一人の人間にこれほど強い執着心を抱いたことなどなかったのだ。
サウザーは自分でも気づかぬまま、独白を洩らしていた。
「ユダ……早く戻ってこい。おれのもとに」