※この作品はR-18です。

乱世の群像   作:獺祭り改め水蜜桃

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 秋の陽が傾き、書斎が黄色く染まっていた。

 室内に流れているのはバッハの“インヴェンションとシンフォニア”

 革張りの椅子にかけたサウザーは頬づえをつき、ハープシコードが奏でる儚く切ない旋律に聴き入っている。ユダは絨毯に腰を下ろし、サウザーの膝にもたれている。傍らでは二頭のボルゾイが揃えた前脚に長い頭部をあずけ休息している。彼らはユダを仲間として受け入れている。主人の新しい飼い犬(ペット)として。

 サウザーの手がユダの肩に置かれ、時折、指先が優しくユダの頬をかすめる。ユダは小さく身をふるわせる。恐ろしくも慕わしいその感触に、逃げ出したいような、それでいて離れていたくないような、相反する感情のとりこになる。

 頬に手をあてられ、上を向かされた。サウザーの顔が下りてきて、唇が触れる。唇を離すとサウザーは微笑んだ。

「このままずっと、おれのもとで憩っているといい。お前が安らげる場所はもう、ここにしかないのだから」

 

「ああ……」と、吐息をもらし、ユダは目を覚ました。

 自分の身体は車両の座席に横たえられていて、頭は堅く締まった膝のうえに乗せられていた。がっしりした手が胸に置かれている。その手が毛布を首もとまで引き上げてくれた。

 他人の腿をサウザーと勘違いしたことに、愕くと同時に、可笑しさがこみ上げてきた。

「膝枕されるのだったら、女の膝のほうがよかったですね」

「まあ、たまにはいいだろう」

 ハイダルも苦笑している。

 船上に引き上げられたユダは直後に気を失っていたのだ。

 ときおり身体が揺さぶられるのは、荒野を走行しているからだ。目黒台の兵站基地に向かっているようだった。

 聖帝軍はKING軍を相手に大敗を喫した。とくに水上部隊である第一軍はほぼ全ての兵力を失い、壊滅状態だった。第二軍をひきいるハイダルは残余の兵をまとめて撤退している最中だったのだ。

「上野の岬からKING軍の船に乗り込む市民たちの姿を見ました」

 目を閉じたまま、ユダは言った。

「彼らの脱出に手を貸したのは、あなたですね」

 市民たちが逃げ延びることができた理由はひとつしかなかった。

 聖帝軍の攻略作戦が始まり地下鉄網が遮断される前に、国防省の地下基地を離れていたのだ。おそらく大江戸線か副都心線を使って東京の北側に逃れたのだろう。そして夜の闇にまぎれて赤羽、王子、日暮里といったように海沿いの尾根をたどり、上野まで南下してKING軍と合流したのだ。

「あなたが失った兵力を補うために増援として送ったのは、東京の北側にある地下鉄出口を監視していた部隊です。あなたは市民たちを逃がすために意図的にそこから応援を回したんです。監視の目を緩めるために。ちがいますか?」

 長い沈黙があった。その沈黙は肯定を意味するものだろうとユダは思った。

「私はシュウくんと一緒に、きみに聖帝軍を去ってもらいたかったのだ」

 ハイダルは小さく嘆息すると、そう告白した。

「攻略作戦の前の晩に言ったはずだね。シュウくんと共に逃げることが、きみが自由になれる最後のチャンスだと。私はきみがその好機に飛びついてくれることを期待していたのだ」

「彼らとのあいだで何か意思の疎通があったのですか」

「いいや。これは一種の賭けだった。あの絶望的な状況のなか、彼らが死中に活を求めて行動してくれるかどうかの。もし、罠の可能性を疑っていたら、あるいはこれまでの生活に執着して拠点に留まりつづけていたら、彼らはあの世に旅立つことになっただろう。市民たちは自分自身の手で生を拾ったのだ」

「おれが彼らと逃げていたとして、あなたにどんなメリットがあったというのです」

「きみは聖帝陛下の御為にはならない」

 ハイダルは、はっきり告げた。

「国防軍時代から、あの方のきみへの執着は尋常ではなかった。それはいまも変わらない。きみにとってはありがた迷惑なだけだろうがね。だが一個人に対する執着はときに足を掬われる原因にもなりかねない。唯一絶対の君主に特別な存在などあってはならないのだ。だからこそ、私はきみに聖帝軍を去ってもらいたかったのだ」

 たしかにそうだろう。ユリアに対するシンの態度を見ればよく分かる。

 古(いにしえ)より絶世の美女のために国を危うくした王は多い。シンもまたその一人になるかもしれない。ユリアへの愛ゆえに、いつか彼は破滅するかもしれないのだ。

 しかし、サウザーはちがう。聖帝十字陵にひとつひとつ隙間なく積み上げられていく巨石のように、彼が築こうとしている帝国には他者への情愛といった夾雑物が入り込む余地はない。彼の心の内には誰も踏み込めない。少なくとも、ユダはそう思っていた。

「だが、きみが聖帝軍にとどまったおかげで私の首も皮一枚でつながったようだ」

 笑(えま)いを含んだ口調に、ユダは目を開ける。ハイダルは表情を緩め、口もとをほころばせている。しかし、その顔つきはすぐに憐れみを帯びたものに変わった。

「聖帝陛下が目黒台の兵站基地で待っておられる。きみはそこで陛下の裁きを受けることになるだろう」

 国防省本省の地下基地を攻略中の聖帝軍がKING軍の奇襲攻撃を受け、交戦中であるとの報せはすぐに聖帝城にもたらされた。

 救援に向かうべく自ら軍を率いたサウザーは目黒台の兵站基地に達したところで、北天が紅に染まっているのを見た。続々と駆け込んでくる使者によって戦況が伝えられたが、夜が明けて、ついに聖帝軍が敗れたとの報が入った。

 そこでサウザーは目黒台に軍を留め、ユダやハイダルが戻ってくるのを待つことにしたのだ。

 いまの自分は敗軍の将だ。その責めは負わなければならない。

 斬首されるか、牢獄に繋がれるか。あるいはサウザーが言っていたとおり教育部隊に引き渡され、洗脳処理を施されるのか。

 ユダはさっきまで見ていた夢を思い出した。

 あれは深層意識の発露だ。

 サウザーを恐れながら、同時に心を奪われている。主人の愛撫に焦がれる、飼い馴らされた犬のように。だから、サウザーから離れられないのだ。

 「再教育」を受けたら、自分はもう、いまの自分でいられなくなるだろう。

 そのほうが、いっそ楽かもしれない。自己を完全に喪失してしまえば、この世のいかなる苦しみや悲しみからも遠く隔たっていられるだろう。

 ユダは片手を上げて顔を覆った。

 

 目黒台の兵站基地には聖帝の御座所として大きな幕舎が設営されていた。

 玉座に坐したサウザーの左右に、戦場から引き揚げてきた第一軍、第二軍の指揮官たち、そしてサウザーともに城を発って従軍してきた親衛隊らが侍立している。

 聖帝の御前に片膝をついているユダは終始俯いたままだった。

 乱れた長い髪からはまだ海水が滴り、つねには欠かさない化粧も剥がれ、素顔に近い容貌は憔悴しきっていた。

 身装りを取り繕おうともしない彼の姿は恭順の意を示しているように見える。しかし、実際にはそうする気力もないほど疲れ果てていたのだ。

 無言のままでいるユダを弁護したのは、第二軍の司令官ハイダルだった。

「聖帝軍の水軍を壊滅させた責任はむろん主将に帰するものでございましょう。しかし、遠征の目的である国防省地下基地の攻略は達成され、主将の功績は小なりとは申せません。なにとぞ、陛下。これまでの功を鑑み、主将にご寛恕を賜りますよう」

 それに対して、ユダに下された処分は「主将の任を解き、謹慎させる」というものだった。

「東京を我が掌中に収めることには成功したのだ。いまはそれでいい」

 聖帝領ではほんの些細な失策を理由に極刑に処される者も少なくない。指揮官たちの目には聖帝の寛容さは異様なものと映っただろう。

 しかし、専制君主であるサウザーの意思は絶対であり、あらゆる物事に優先する。

心中にどのような思いが渦巻こうと臣下たちは表面的には聖帝の決定に従い、大風になびく草むらのごとく平伏した。

 ユダは、このやり取りをどこか遠い出来事のように聴いていた。命の保証を得たことについても、安堵より、むしろ苦痛を引き延ばされた感覚しかなかった。

 ただ機械的に頭を下げ、謝意を口にした。

「陛下の寛大なご沙汰に心から感謝申し上げます」

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