※この作品はR-18です。

乱世の群像   作:獺祭り改め水蜜桃

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「役者志望だったおれの両親はおれを芸能界入りさせたくて仕方なかったんだ。写真撮影だの、子役のオーディションだのに駆け回らせて、ほんとうに楽しい毎日だったよ」

「さようでございますか」

 点滴の針を抜き、脱脂綿で圧迫止血したコマクは傷口に絆創膏を貼りつけた。

 この前、尋ねたとき、ご両親は弁護士さんでしたね、とコマクは思った。

 抗生薬の点滴をするとき、一時間も腕に針を刺し続ける苦痛を紛らわせるために雑談することが多くなっていた。話題はユダの子供のときの話だ。コマクはユダの過去に興味があった。どこに住んでいたのか、どういう少年時代だったのか、そういったことが知りたかった。しかし、訊くたびに違う答えが返ってきた。ユダは本当のことを言うつもりがないのだ。よほど言いたくないことなのだろう。

 ダガールの話によれば、ユダは欧州の金融財閥の一族の出身なのだという。しかし、ある事件にからみ、一家は破滅寸前まで追いつめられた。そのとき日本の軍部とのあいだで何かしらの取引がなされ、ユダ一人だけがこの国に留まり、いまに至っているのだという。

 つらい経験をしてきたにちがいないが、ユダは決してそのことを語ってはくれないだろう。コマクは諦め顔で点滴のパックやチューブ、消毒薬、ガーゼ、ピンセットといった医療用具をひとまとめにすると、カートを押して部屋を出ていった。

 

 寝台に横たわったユダは顔を背け、コマクが肩を落として出ていくさまを無視しつづけていた。

 見た目は貧相だが、心根は優しい男だ。真実を打ち明ければ心から同情してくれるだろう。だが誰であろうと憐れみを受けるのはまっぴらだった。慰めが何の役に立つというのだ。過去を取り戻すことなど、もう出来ないのだ。

 ユダは窓の外を眺めていた。

 聖帝十字陵の上空に、雄大な入道雲がわき立っている。みるみる高度を増していく。そのさまを見つめながら、苦しみに満ちた前半生、そして大戦末期この世が滅びる最後の夏に見た大磯の風景を憶い出していた。

 

 十五歳の夏休み、ユダは都心にあるカテドラル・ホテルに泊まっていた。

 両親とともに母国イギリスに行くためだった。彼にとっては本格的な帰国となる。

 父は欧州の金融界を支配するアルトシュタット財閥の末子で、スイスに拠点をおく軍需企業アムシェル・インダストリアル社の社長である。スイスは第三次世界大戦が勃発したいまも中立を貫き、その立場を利用して各陣営に武器を製造・販売してきた。

 国防大臣キセガワの支持母体・クガ重工業はアムシェル・インダストリアル社から技術供与を受け、戦術データリンクを使った無人兵器のライセンス製造を行っていた。ユダは二歳のときに両親と一緒に来日し、イギリスと日本の両方の国籍を持っていた。

 九月からイギリスの私立校に編入することがきまっていた。

 ユダはこれまで日本の国防軍幼年学校に通っていた。戦争で利益を上げていながら何の犠牲も払っていないという世間の批判をかわすためだ。むろん、そんなものは方便にすぎず、両親は本気で息子を軍人にするつもりはなかったのだ。

 カテドラル・ホテルはアール・デコ様式の神殿のような建物だった。大理石と銀引きのフロストガラスと鋳鉄で造られた壁や窓の装飾は植物をモチーフにしているが、それらすべてが円弧や直線、幾何学模様で構成されている。妖しく美しく、それでいて冷たい。鉱物の結晶のような世界だった。

 ホテルの高みから光が射し、建物内を満たしている。不思議なくらい静かだった。その静けさは英国の教会の大聖堂にある一族の墓所の静謐にどこか似ていた。

 ユダはこのとき不意に、言いしれない予感にとらわれた。自分の幸福な時代がいまこの瞬間、終わりを告げようとしているような…………。

 金髪の若い将校がソファにかけて優雅に足を組んでいた。その周囲を四人の兵士が直立不動の姿勢で固めている。彼ら全員の腕に憲兵隊の腕章が巻かれていた。

 将校はユダを見ると立ち上がった。肩についている陸軍少佐の階級章がきらりと光った。

「サウザー」

 顔見知りの軍人だった。何度か来賓に同行して学校を訪れたことがあり、高輪にあるユダの父の邸(やしき)にも来たことがある。父が軍事企業の社長を務めている関係上、客のなかには軍人も多かった。

 サウザーはまだ二十代前半で、憲兵隊本部では最年少の少佐だった。そんなことは別段、愕くことでもない。長引く戦争で人的資源が底をつき、十代半ばで少尉に任じられることも珍しくないのだ。

「一緒に来てもらおうか」

 有無を言わせない口調だった。

 戦時特別措置法が施行され、世の中のすべては軍中心に回っていた。軍の命令には法的強制力がある。抵抗すれば逮捕・拘禁が待っているだけである。

 ロビーにいた客やフロントの受付係は、上流階級の子弟とおぼしき少年が軍人たちに連行されていく姿を不安げな面持ちで見守っていた。

 ホテルの外に黒塗りの車が待っていた。サウザーともう一人の軍人の間に挟まれるようにして座らされた。ドアが重い音を立てて閉まる。その重量感から、この車両が防弾仕様の特別製らしいことが分かった。

 向かったときは軍の施設ではなく、大磯にあるサウザーの邸宅だった。

 海に臨む緩やかな丘陵地をまるごとひとつ占める広大な敷地の奥に西洋建築の屋敷が建っている。陸軍少佐の身分からは窺いしれないほど贅沢な暮らしぶりだった。

 広い居間に案内したサウザーは、ユダをソファに座らせた。

 ユダは不安げな眼差しで室内を見回した。

 樫で造られた壁といい、ゴシック様式の調度品といい、窓に引かれた金褐色の天鵞絨(ビロード)のカーテンといい、全体が重く沈んだ色調で統一されていて、落ち着かない気分をさらにかき立てる。

 サウザーはサイドボードから鋏(はさみ)を取り出してユダの髪を一房切り落とすと、扉の外にいた男に手渡した。

「それを見せればご老体の気も変わるだろう」

 ユダは相手の意図が分からない以上、おとなしくしていたほうがいいと思った。室内にはサウザーのほかに五人の男がいる。車に同乗してきた者以外に、この部屋で予め待機していた人間もいるのだ。全員が軍服を着ていることからしても、客として招かれたわけではないだろう。

 横向かいのソファにかけたサウザーに訊ねた。

「ここに連れてきた理由を教えてください」

「そうだな。お前の美しさに目が眩んだとでも言っておこうか」

 サウザーはそう言って、自分の容姿に対するユダの自惚れを揶揄(からか)った。高輪の邸(やしき)で開かれたパーティーで父が息子の自己愛ぶりを話題にしたことがあり、その場にいたサウザーも興(きょう)がるような表情でユダを見ていたことがあった。

「おれの両親が黙っていませんよ。このことを知ったら」

「お前の親が警察に知らせるつもりなら、とうにここに踏み込んでいるはずじゃないのか」

 サウザーは唇をゆがめるようにして笑った。

「それにおれは、お前をトランクに押し込んでむりやり拉致してきたわけではない。正々堂々とホテルまで迎えに行ったし、大勢の人間も目撃している。軍相手では警察が動かんというなら、国防大臣に訴えれば済むことだ。キセガワはお前の親とは旧知の仲なのだからな。なぜそうしないと思う? 理由は簡単だ。お前の両親にはそれが出来ない理由があるのさ」

「どんな理由があるというんです」

サウザーは厳しい目つきでユダを見据えた。

 「敵国への通謀容疑だ」

「えッ!」

 言葉を失うユダに追い打ちをかけるようにサウザーは言った。

「お前の両親はすでに軍に拘束されている」

「どうして?!」

「我が軍の機密情報を中国に売り渡していたのだ」

「そんなの嘘です!」

「嘘ではない。資料の受け渡しをしていた社員がお前の父の命令であったと自白している」

「だったらなぜ、おれも軍の施設に連行しないんです。あなたの家に連れてくる必要はないでしょう。いったい何を企んでいるんです」

「お前はなかなか賢いな」

 サウザーは微笑んだ。

「だが、賢すぎないほうが身のためだ」

 凄みのあるその表情にユダは戦慄する。サウザーは立ち上がると、ユダの腕を掴んで引き立たせた。

「しばらくここに滞在してもらうから、そのつもりでいろ。部屋は用意してある。案内してやろう」

 連れて行かれたのは、地下のワイン蔵を改築したらしい小部屋だった。

 煉瓦で覆われた壁には窓ひとつなく、天井から裸電球がひとつだけ吊り下がっている。家具といえば簡易ベッドと洗面台、トイレが備え付けられているのみだった。つい最近作られたものではない。しかし、ベッドには使われていた形跡があった。これまでもここに人が閉じ込められていたのだ。

 ユダはサウザーを振り返った。

 サウザーはユダを見つめ、謎めいた笑みを浮かべている。牢獄じみたこの部屋よりも、その表情のほうが怖ろしく、ユダは後退る。

 顔色を変えたユダに頓着することなく、サウザーはユダの右腕を掴むと、いきなり、ありえない方向にねじ曲げた。ユダは叫び声を上げた。サウザーは容赦せず、左腕も同じように使いものにならなくした。

「骨まではいっていないから安心しろ。しばらく腕が使えないだろうが、日常生活には困らんさ」

 ユダは痛みのあまり声も出せなかった。涙目になってサウザーを見上げた。

 サウザーはベッドに腰かけ、足を組んだ。

「お前をここに連れてきたのはある目的のためだが、それを言うつもりはない。だが、おれ個人としてはお前にとても興味がある。お前は南斗聖拳の拳士として才能があるようだからな」

 幼年学校の武術大会で準優勝したことをいっているのだと気づいた。

 南斗聖拳は軍で採用されている徒手格闘術だ。そのルーツは中国の暗殺拳にある。相手に触れることなく敵を斬ることができ、達人であればコンクリートの壁を切り崩すことさえ可能だ。

 サウザーもまた武術を極め、南斗聖拳で最強といわれる南斗鳳凰拳の将の称号を持っている。だが、そんなものは形式的なもので、称号自体には何の意味もないと思っていた。

「南斗聖拳なんて徒手格闘術のひとつにすぎないじゃありませんか。それが何だっていうんです」

 両腕を痛めつけられ、床に蹲ったユダはかろうじてそう言った。

「どうかな。おれはこう考えているのだ。もし、この世が滅んだら、文明が中世のレベルまで後退してしまったとしたら、南斗聖拳こそが新しい時代を制することになるのではないかとな」

「そんな考えはナンセンスです。世界が滅びるなんてあるわけないじゃないですか。むしろ、そうならないようにするのが、あなたがた国防軍の務めでしょう」

 サウザーの表情が一変した。襟をつかまれ、息がかかるほど近くに引き寄せられた。

「自分には関わりないとでも言いたげだな。他人には血を流させておいて自分たちは安全な場所に隠れて安逸を貪る。この国の政治家や官僚連中と少しも変わらん。お前も日本国民なら、国民としての義務を最後まで全うしたらどうだ」

 手を離され、床に突き倒された。サウザーが冷ややかに見下ろしている。

「お前たちの一族は19世紀から大英帝国を陰から支配してきたそうだな。そしていまなお、ヨーロッパを中心に絶大な影響力を及ぼしている。だが、いかなる権力もいまのお前を救うことはできない。そのことを思い知るべきだな」

 サウザーは上着を脱ぎ、ネクタイを弛めた。ユダの腕を掴み、無造作にベッドに放り投げる。

「な……なにを」

 起きあがる間もなく、サウザーに覆い被さられ、のしかかられた。両手を左右に開かれ、顔の脇に押さえつけられる。

 サウザーは酷薄な笑いを浮かべた。

「躾のなっていない犬ほど始末が悪いものはない。お前には従順というものを学ばせてやろう」

 

 ユダはベッドに身体を投げ出していた。

 衣服を引き剥がされ、電球の明かりに汗ばんだ白い背が照らし出されていた。

 サウザーは身を起こすと、乱れた髪を頭部になでつけた。その物腰はいつもの落ち着き払ったものと少しも変わらなかった。

 身装りを整えてベッドに腰を下ろしたサウザーは、うつ伏したままのユダの背を優しく愛撫した。

「いまは苦痛と屈辱しか感じなくても、お前はいずれ、おれに支配されることを無上の喜びに思うようになる」

 手のひらにユダの慄えを感じ取ると、彼は笑った。

「調教には手間と時間がかかるものだ。おれはその過程が嫌いではないがな」

 サウザーは立ち上がると、牢を出ていった。扉が閉ざされ、鍵がかけられる。足音が遠ざかる。

 取り残されたユダは両腕の痛みと下半身の激痛に呻いた。

 受けた仕打ちに対する衝撃が今さらながら心身を打ちのめした。監禁と凌辱、昨日に変わる身の転変に気も狂わんばかりだった。

 聞く者とていない地下室に、慟哭が響いた。

 

 ユダは部屋の片隅でうずくまっていた。

 いまだ恐怖と屈辱から立ち直れずにいた。

 あのあと、ようやくベッドから這い下りて服を着たが、腕の痛みがひどく、袖を通すのもやっとだった。

 身体の痛みばかりでなく、上流階級に生まれて何不自由ない生活してきたユダにとって、牢獄での暮らしは耐え難いものだった。

 洗面台とトイレがあるだけなので水を飲むことはできても、身体を洗うことができない。窓のない室内では時間さえ分からなかった。

 他人と触れ合えるのは食事を受け取るときだけで、それも食器の出し入れ用の穴ごしだった。ユダはその人に向かって必死で訴えた。

「お願いです! ここから出してください!」

 だが、悲痛な叫びは無視された。

 誰も助けには来てくれなかった。ワインを貯蔵するために作られたこの地下室は壁が厚く、どれほど声を上げても一階には届かないのだ。

 牢に入ってくるのはサウザーだけだった。彼の訪れはユダに恐怖と苦痛しか与えなかった。

 ユダはこれ以上は下がれない壁の奥に後退った。情けを知らぬサウザーはユダの手を掴むと、羊か山羊を屠殺場にひいていくように、ベッドに引きずっていった。

「いやです! やめてください!」

 抗おうとするユダの顔をマットレスに押しつけた。

 剥き出しにした双臀の奥に二本の指を挿入し、抽送を繰り返す。ユダは悲鳴を上げた。サウザーは指を抜くと、孔が窄まりきらぬうちに性器をねじり込み、押し入らせてきた。

「ああ……ッ!」

 腕の靱帯を傷めつけられていたユダは上半身を支えられずベッドに頽れた。サウザーはユダの髪をつかみ、上体を引き起こして責め立てた。

「い、いたいッ! もう……赦して!」

 やめてくれるようにいくら頼んでも、きいてはくれなかった。

 サウザーは情では動かない人間だ。ユダに暴行を加えたのは彼の自尊心をへし折るためだったが、それだけが目的ではなかった。もっとも、そのことに気づいたのはずっと後になってからで、このときはサウザーの苛酷な扱いに呻吟するばかりだった。

 ユダは必死に神に祈った。どうか、ここから助け出し、家族のもとに帰してください。それが叶わないなら、せめてこの苦しみから自分をお守りくださいますようにと。だが、神はイスラエルの民を救ったようには彼を救ってはくれなかった。

 一縷の望みは父と交友関係があった国防大臣のキセガワだった。彼が自分と両親の救出に尽力してくれることを願った。しかし、その希望もすぐ絶たれることになった。

「お前たちの後ろ盾となっていたキセガワだが、やつは解任されたぞ」

 入ってくるなり、サウザーはベッドの上に新聞を放り投げた。

 新聞の一面には国防大臣キセガワが職を解かれたという記事が載っていた。アムシェル・インダストリアル社の機密漏洩事件にからんで罷免されたのだ。

 そればかりではない。キセガワの派閥や欧州と関係が深い者たちがすべて政権から退けられていたのだ。

 ユダは知らなかったが、そこには第三次世界大戦におけるアメリカと欧州の主導権争いがあった。

 アムシェル・インダストリアル社はクガ重工業を介してキセガワに多額の政治献金を行っていた。そしてインダストリアル社の背後には巨大金融財閥アルトシュタット家があった。キセガワはそれらを通じて欧州の代弁者となっていた。日本から欧州色を排除したいアメリカにしてみれば、キセガワはまず第一に失脚させなければならない人間だったのだ。

「これでお前たちを守ってくれる者はこの国にはいなくなったというわけだ」

 サウザーが冷笑した。

 だが、彼はひとつの事実を隠していた。

 イギリス政府とアムシェル・インダストリアル社は機密漏洩を事実無根として日本政府を非難し、社長夫妻と息子を即刻釈放するように求めていた。

 大磯にあるこのサウザーの邸宅にもイギリス大使館の職員が訪れ、邸内にいる社長の息子を引き渡すよう申し入れていた。しかし彼らは結局、邸内には入れず、追い返された。そのことは新聞には載っていなかった。政府が報道機関に圧力をかけていたのだ。国民の知る権利は戦時特別措置法によって制限されていた。そのため人々は政府の発表を鵜呑みにするしかなくなっていたのだ。

 何も知らないユダは、自分たち家族が完全に孤立無援になったと思った。もはや望みはなくなった。自分の運命は目の前にいるこの男の一存で決まるのだ。彼の慈悲に縋るしかないのだ。

 ユダはがくがくと慄え、我知らず跪いていた。サウザーはユダの瞳の中に絶望を読み取った。

 サウザーはユダの上に屈み込み、顎を持ちあげると、唇を触れ合わせた。

「おれに従うんだ」

 ユダに着ているものを脱ぐよう命じた。自らも裸体を晒したサウザーはベッドに横たわり、上下を入れ替えた姿勢でユダに口腔での奉仕を強いてきた。

 ユダはもう何の躊躇いもなく、命令に従った。サウザーの顔に跨り上体を伏せると、これまで幾度も自分を刺し貫き、抉ってきた凶器に唇をつけ、口中深くに迎え入れた。頭を上下に振り、舌をからめる。

 その従順さに満足したサウザーは唾液で濡らした中指をユダの後孔に挿入した。指を往還させ、敏感な部分を擦り上げる。ユダは思わず口を離し、喘いだ。サウザーは尻をたたいた。

「ちゃんとしゃぶるんだ」

 ユダはふたたび口にふくみ、喉の奥まで呑み込んだ。

 しかし、サウザーはユダの性感の在処を探り当ててしまうと、執拗にそこばかりを責めはじめた。ユダは続けていられなくなり、肘を崩して、また尻を打たれることになった。

 そうしたことが何度も繰り返され、ユダがより大きな刺激を求めてくるのを感じたサウザーは顔の上からユダを退け、今度は自分の下肢を跨がせた。

「自分で挿れてみろ」

 なおも指で嬲りながらサウザーは言った。

「どこがいちばん感じるか自分でも分かっただろう」

 顔を苦しげにゆがめながら、サウザーを自分の中に受け入れる。思いも寄らぬ快感が全身に走った。

「ああッ!」

 ユダは声を上げた。すでに身体が反応しはじめていて、感じていることを隠せなくなった。腰を上下に揺すった。ベッドがリズミカルに軋みを立てる。

「ああ……、ああ」

 喘ぎつづける口唇から喉に唾液が流れた。

 異常な興奮状態が続いていた。人間は他人に生死を左右されるという極限状態に置かれたとき、それがいつ果てるともなく続くとき、そのストレスに耐えきれず、恐怖の対象と同化しようとする。自分を守るための心理的な防衛反応だ。それがユダにも起こりつつあった。

 サウザーも下から突き上げながら、ユダを追い上げるように性器を握り、扱きはじめた。

「ああッ――あ――あ――ッ!」

 精を放ったユダはサウザーのうえに倒れ込み、激しい呼吸を繰り返した。サウザーはユダを抱き締め、褒美を与えるようにキスをした。

 サウザーが自身の欲望を解き放つために身体を入れ替えた。

 腰を抱えられ、両脚を肩に担ぎ上げられる。ふたたび貫かれ、突き上げられる。

 ユダは自分でも意識しないまま、サウザーを緊(きつ)く締めつけていた。サウザーは陶酔の表情を浮かべ、その味わいを余すところなく堪能する。ユダを激しく揺さぶりながら、顎をつかみ、顔をのぞき込んできた。

「お前は誰のものだ。言ってみろ」

「あ……ああッ、あなたの、あなたのもの」

「おれに忠誠を誓うんだ。死ぬまでおれに仕える、と」

 翻弄され、何も考えられなくなったユダは叫んだ。

「誓います。あなたに……死ぬまで忠誠を!」

 絶息するような瞬間を与えられ、後ろだけで達したユダは、そのまま気を失った。

 

 それからというものサウザーが訪れるたびに身体を開き、肉欲に溺れるようになった。

 サウザーを恐れていることに変わりはなかった。しかし、恐怖を感じれば感じるほど、身体が熱く燃え上がった。恐怖そのものが欲情をかき立てる触媒となるようだった。

 ユダはいまや娼婦と変わりがなかった。サウザーの部下や邸内の使用人は秘かに地下牢を「少佐の娼館」と呼ぶようになった。

 サウザーはユダを完全に屈服させてしまうと、待遇を少しずつ改善させていった。

 ある日の夕、唐突に地下牢から連れ出された。長期間にわたる監禁でユダは時間の感覚を失っていた。どれくらい閉じ込められていたのか、いまが何日なのかさえ分からなかった。

 邸内の廊下には燈(ひ)が灯され、外が深みを帯びた青に染まっていた。

 空気が澄んでいた。窓が開け放たれており、海風が流れ込んでいる。久しぶりに味わう地上の空気だった。

 二階への階段を上り、広い廊下を通って、着いたのは突き当たりの部屋だった。室内は広くて清潔で、トイレと浴室が備え付けられていた。

「今夜からはここを使うといい」

 愕いたユダはそのまま浴室に連れていかれ、袖とズボンの裾をたくし上げたサウザーに全身を洗われた。温かい湯と薫り高い石けん、柔らかいタオルの感触が心地よかった。サウザーは信じられないくらい優しかった。ユダの濡れた髪を拭きながら言った。

「髪が伸びてしまったな。明日にでも理容師をよんで切らせてやろう」

 バスローブを羽織り、テーブルを挟んだ椅子に座らされた。

 予め申しつけてあったらしく食事が運ばれてきた。給仕はユダに一度も視線を向けることなく、皿を並べ料理を盛りつけた。洋食を中心とした献立で、地下牢で出されていたものとは質、量ともに違っていた。

「冷めないうちに食べるんだ」

 ユダが食事をしているあいだ、サウザーはすでにどこかで済ませてきたのか、コーヒーだけを飲んでいた。彼は一言も口をきかず、なにか物思いに耽っているようだった。

 さきほどの給仕がふたたび現れて食器を下げた。そのときも、やはりユダを見ようとしなかった。主人のすることに余計な詮索をしないと徹底して教育されているようだった。

 歯を磨き、口を漱いでしまうと、今度は麻のパジャマに着替えさせられ、床に就かせられた。

 また身体を求められるのだと思ってユダは身構えたが、サウザーは「よく休むんだな」とだけ言って部屋を出ていこうとした。

 ユダは急に離れがたい衝動に駆られた。

「待ってください」

 反射的に手を差し伸べ、引き留めようとした。

「行かないで。そばにいてください」

 サウザーはすぐに戻ってきた。ベッドに腰かけ、ユダを抱き締めた。

「どうした」

 ユダは答えなかった。どうしてサウザーを呼び戻したのか自分でもよく分からなかった。

 あれほど自分を苦しめてきた人なのに。いまだって怖くて仕方ないのに。ユダが腕を解こうとしなかったので、サウザーはともにベッドに横たわった。

「大丈夫だ。お前が眠るまで一緒にいてやる」

 サウザーの声が直接、身体に響いてくる。その快さと温もりに包まれ、ユダは安堵したように眠りに落ちた。

 

 ある日の午後、サウザーはまだ陽も高いうちから在宅していた。一週間ほど国防省に呼び出され、それが終わってようやく帰ってきたのだ。

 世界を二分した大戦はいまだ継続していたものの、極東では東アジア条約機構(EATO)の優勢で推移していた。ロシアは欧州との戦争が膠着化し、中国に積極的な支援ができなくなっていた。

 中国の制圧下にあった台湾が十年ぶりに独立を回復したのもこの年である。東アジア条約機構は台湾を足がかりに、中国南方における制空権と制海権を奪った。

 アメリカとともに東アジア条約機構についていた日本は戦勝気分に沸いていた。

 サウザーは政府主催の軍事パレードにかり出されていた。下らない任務だと彼は吐き捨てた。

 首相は国防軍の最高司令官という立場であったが、実際に血を流しているのは召集令状によって戦場に送られた国民であって、彼のような政治家ではなかった。

「たまには外に出たらどうだ」

 サウザーは部屋に引き籠もっているユダを気遣ったのか、庭に連れ出した。

 空は快晴だった。八月も半ばとあって陽射しが強い。ユダは眩暈がしそうになった。サウザーも濃い色のサングラスをかけている。

「少し待っていろ」

 サウザーは腰の高さほどもある大型犬を二頭連れてきた。ロシア産の猟犬・ボルゾイだった。一頭は茶色く、もう一頭は黒白だった。

 ユダもその犬種のことはよく知っていた。イギリスやドイツにいる伯父や従兄たちが暮らしている城にも厩舎や犬舎があり、狩猟用の馬や犬が飼われていたのだ。サウザーがこんな犬を飼っているとは知らなかったが、彼らはサウザーの最も忠実な従僕であり、彼の行くところなら何処へでも付き従った。

「ピョートルとエリザベータは狼狩りの猟犬だ。命じられればお前の身体など苦もなく八つ裂きにするぞ」

 そう言って笑うとサウザーは茶色いほう、ピョートルをユダの手にゆだねた。

「しばらく散歩させてこい」

 ユダは言われたとおり、ピョートルを連れて芝生の庭を下りはじめた。

 端正に刈られた庭木の緑が目に眩しかった。爽快な風が斜面の下から吹きつけてくる。

 それにしてもなんと広大な敷地だろう。

 緩やかな起伏のある芝生の丘が広がっているなかに手入れの行き届いた林と竹藪があり、使われていないようだが茶室まであるのだ。松林の向こうには海も見える。

 大磯というのは明治時代から政財界の重鎮たちが本邸や別邸を構えてきた風光明媚な土地である。それはいまも変わらず、都会の喧噪から隔絶された閑雅というべき静けさを保っている。

 この邸宅もおそらく、そうした誰かの屋敷だったのだろう。

 サウザーがどういう経緯でここを手に入れたかは分からない。だが、単に気に入ったからという理由だけとは思えなかった。彼は軍の警察というべき憲兵隊の人間だ。おそらくユダのように厳重な監視下に置かなければならないが、監獄には収監できない人間を閉じこめておく場所が必要だったのだろう。

 手綱を握りながら、ピョートルの躾の良さにも愕いていた。犬というのは見ず知らずの人間を侮り、自分の優位を示そうとして勝手な行動を取ろうとすることが多いのに、このボルゾイはユダの横に寄り添い、決して前に出ていこうとしない。サウザーの邸(やしき)の執事や使用人たちも主人のすることにはきわめて忠実だ。躾のなっていない犬は始末が悪いとサウザーが言っていたのを思い出した。彼は人間にも犬にも鉄の規律を行き渡らせているのだ。

 いつの間にか敷地の外れまで来ていた。

 鬱蒼とした木立の向こうに煉瓦の壁が見えた。

 いまなら逃げられる。咄嗟にそう思った。

 ここは邸の裏手にあたり、向こうからは見えない。自分がいなくなったことに気づくまで時間がかかるだろう。

 もう、あの拷問のような恥辱と快楽を味わわされずにすむのだ。

 一歩踏み出そうとして、ユダは立ち竦んだ。

 逃げる? あの人から? 本当にそんなことが出来るのだろうか。

 地下牢で受けた痛苦と絶望感は忘れようもなく心身に刻みつけられていた。

 サウザーからは逃げられない。どうしようもなく囚われている自分を自覚した。

 ユダは地面に膝をついた。涙が出た。

 これからどうなるのだろう。あの人はおれをどうするつもりなのだろう。ピョートルが聡(さと)い目で見つめている。ユダは犬を抱き締めると、絹のような毛のなかに顔を埋めて泣いた。

 

 ユダはピョートルを連れて戻ってきた。睫毛にはまだ涙が光っていた。

 サウザーが丘の上に立ち、微笑んでいた。

 その表情を見て、自分が試されていたことを知った。逃げ出さないか、言いつけに忠実に従うかどうかテストしていたのだ。もし逃げていたら力ずくで連れ戻し、ふたたび、あの地下牢に閉じ込めただろう。ユダはサウザーの恐ろしさ、冷酷さをあらためて感じた。

 サウザーは蒼ざめているユダに腕を回し、邸のほうに歩き出した。

「今日は海風が気持ちいい。食事はテラスで摂ることにしよう」

 

 ユダはますますサウザーに逆らえなくなった。

 朝食や夕食をともにし、書斎で本を読み、音楽を聴く。求められれば身体を差し出す。ピョートルやエリザベータと変わらないサウザーのペットだった。

 八月の終わり、国防軍士官学校の制服を渡され、両親がすでに帰国したことを知らされた。通敵容疑については未決のまま、恩赦という形で釈放され、国外退去処分になったのだ。ただ一人、ユダをのぞいて。

「おれがこの国でのお前の身元引請人だ。これからはおれの指示に従ってもらおう」

 士官学校に入り正式な軍人への道を歩むことは、サウザーの手駒となって生きることを意味した。

 ユダは言葉を返さなかった。予期していただけに言うべき言葉を持たなかった。

 両親が無事に帰国できただけでも感謝するべきなのだ。たとえ自分がこの人から一生、逃れられなくなったとしても。

 士官学校編入の日、保護者として同行したサウザーはユダの肩を抱いて微笑んでいた。

 

 軍人の卵として学業と訓練に明け暮れる毎日。孤独の日々。

 ユダは同期生との間に友人を作ろうとしなかった。彼らのほうでも距離を置いていた。

 軍の有力者の肝煎りによる入学とはいえ、通敵容疑がかけられた人間の息子というレッテルはそう簡単に消えるものではなかった。

 両親はもちろん身内は誰一人、会いに来なかった。手紙も届かなかった。

 一年が過ぎる頃にはすべてを諦め、サウザーの期待に応えることだけを考えて生きるようになった。サウザーはユダにとって恐怖の対象であると同時に庇護者であり、唯一の心の支えだった。

 休暇には大磯にあるサウザーの邸宅に行き、彼と一緒に過ごした。

 サウザーのもとには、時折、奇妙な来訪者があった。

 ある夜、応接室のソファに身の丈二メートルを超える巨漢が坐していた。

 銀色の髪と刃鋼色(はがねいろ)の双眸、巌(いわお)のように厳めしい顔つき。胸板が分厚く盛り上がり、膚(はだ)は歴戦の闘士であることを物語るように褐色に陽灼けしている。年齢はサウザーとさほど変わらないだろう。サウザーと一緒に部屋に入ってきたユダを見て、男は言葉を発した。

「なんだ、このガキは。どうしてこんなやつがここにいる」

「そう突っかかるな。彼は我々のスポンサーのご令孫だよ」

「お前が“皇帝”の孫息子を囲い者にしているという噂は本当だったのだな」

「遅かれ早かれ、我々の仲間に加わることになるのだ。いま、おれの手許に置いておいても不都合はなかろう」

 男は鼻を鳴らした。

 それがラオウとの出会いだった。国防陸軍・南部方面軍の特殊部隊に所属する彼は南方戦線の英雄だった。彼は南斗聖拳と双璧をなす北斗神拳の使い手であり、沖縄防衛戦で敵の一個大隊を素手で壊滅させたという話は伝説となっていた。

 この出会いが何を意味するのか、このときのユダには分からなかった。目の前にいる男がその後の人生に大きく関わってくるとは想像もしていなかった。

 戦争は激化の一途をたどり、徴兵年齢は十八歳にまで引き下げられた。自分も来年には戦場に行かなければならない。

 最後の夏は微睡むように、ゆっくりと時間が流れた。

 サウザーと一緒に、ピョートルとエリザベータを連れて広大な庭を散歩した。なだらかな芝生の庭はそのまま浜辺につながっていた。積乱雲がぐんぐん高さを増していった。二人は海岸に立ち、雲が夕映えに染まっていくさまを眺めていた。

 

 頬を軽く叩かれて、ユダは目を覚ました。

 サウザーが寝台の傍らに立っていた。どうやら、うたた寝をしてしまったらしい。

 窓の外を見ると、聖帝十字陵の上に浮かぶ入道雲は形が崩れ、風に流されつつある。時間にして、ほんの十数分だったのか。自分にとっては何年にも感じられたのに。

「夢を見ていました。ずっと昔のこと」

 ユダはゆっくり身を起こした。サウザーが気に入っているからという理由で長く伸ばしてきた髪が肩から背に流れ落ちた。

「あの頃のあなたは悪魔のようでしたね」

「お前は鼻持ちならないガキだったな」

 サウザーも寝台に腰を下ろし、ユダを抱き支えるように背後から抱擁した。頭をかき撫で、髪を梳く。ユダは振り返り、サウザーの肩にもたれて目を閉じた。しばらく愛撫されるままになっていたが突然、サウザーを押し倒した。

 サウザーの上にのしかかり、彼の首に両手を絡める。

「おれたち家族の運命を狂わせた通敵容疑はあなたのでっち上げです。あなたはずっと、おれを騙していた」

 

 真実を知ったのは士官学校に入って一年経ったときのことだった。

 同期生から秘かに両親の手紙を渡されたのだ。彼はユダの耳もとに口を寄せると、誰にも見つからない場所でそれを読めと言った。急いでトイレに駆け込むと、手紙を開いた。

 そこにはユダを置き去りにしたことを詫びるとともに自分たちがおとしいれられたこと、息子を手放したことをずっと後悔していること、いつか必ず迎えに行くといったことが切々と綴られていた。

 両親は日本への渡航を切望していた。息子の帰国を求める嘆願書も大使館を通じて何度も送っていた。それらは悉(ことごと)く無視された。出した手紙はすべてサウザーの手で処分されていた。ユダ本人は監視されていた。一人で外出することはなく、移動は学校と大磯の往復だけで、休暇になると校門の前に差し回しの車が来てユダを攫うように連れていってしまうからだ。

 ユダは泣いた。自分を欺きつづけていたサウザーを激しく恨んだ。そして涙を流しながら手紙を破り捨てた。こんなものが見つかったら、監視の目がより一層厳しくなり、二度と母国の土を踏むことができなくなる。両親とも会えなくなってしまう。

 ユダは何も気づかないふりをし続け、ただ家族と会う日だけを夢見ていた。

 だが、その希望はついに潰えた。

 大戦は無秩序無制限の核攻撃による世界の終焉という形で幕を閉じた。

 彼が両親と再会する日は永遠に失われてしまった。

 

 ユダはサウザーの首にかけた手に力をこめた。

「あなたの目的はいったい何だったのです」

 喉を絞め上げられているサウザーは意に介したようすもなく、ユダを見上げて笑った。

「まったくのでっち上げというわけではないさ。尾鰭をつけてやったのは事実だが。発端は一人の社員の不正だ。そいつは多額の報酬に目がくらんで中国に機密情報を売り渡していたのだ。それでも初めは些細なものだったのだろう。だが、中国は狡猾だ。それをネタに要求をエスカレートさせていった。そいつは怖くなり、自殺を図った。しかし未遂に終わった。アムシェル・インダストリアル社は事件をもみ消すために、その社員を急遽帰国させることにした。だが、情報を掴んでいた我々がいち早く身柄を押さえた。そして刑の減軽と引き換えに偽証させたのさ。すべてはお前の父シモン・アルトシュタットの指示であった、とな」

 翠玉(エメラルド)色のユダの瞳に憎しみが燃え上がった。

「そこまでして、あなたは何を得たかったのです」

「アルトシュタット家の永久(とわ)に変わらぬ友情。惜しみない支援。そこから導き出される無限の可能性」

 ユダは、はっと息を詰まらせた。

「あなた方がクーデターを計画していたという噂は事実だったのですね」

 世界が破局を迎える半年前くらい前から、世間に不穏な噂が流れるようになっていた。

 国防大臣の地位を逐われたキセガワが巻き返しを謀っているというのだ。現政権に不満をいだく青年将校らがそれに同調し、クーデターを企てているという。しかし、真偽は不明のままだった。計画が実行に移されるより前に世界が滅んでしまったからだ。

「我々の支援者は誰だったと思う?」

 サウザーが皮肉そうな笑みを浮かべる。意味深な表情を見てユダはラオウと引き合わされた晩の、サウザーの不可思議な言葉を憶い出した。

「まさか……」

「そう。お前の祖父“皇帝”マイヤーだ」

 マイヤー・アルトシュタット。欧州の政治と経済を牛耳る帝王。

 フランクフルトの金融商からのし上がったアルトシュタット家は、七つの海を支配し、陽の沈まぬ帝国となった英国を裏から支配してきた。第二次大戦後、大英帝国の凋落とともに一時は勢いを失ったものの、没しつつあった陽をふたたび彼らの頭上に輝かせたのはマイヤー・アルトシュタットであった。

 第三次世界大戦でロシアが欧州相手に苦戦を強いられることになったのも、アルトシュタット家と系列財閥がいちはやくロシアの金融資産を凍結し、欧州の戦時国債を引き受けるとともに、石油、食糧、武器の提供、傭兵の派遣など、あらゆる面で支援したからだといわれている。

 ユダにとって祖父はあくまでも優しく慈悲深く、一族をあまねく照らす太陽のような存在だった。

 しかし、祖父は孫息子を人質に取る軍部を利用して、アメリカ一辺倒の日本の政府首脳部を打倒し、ふたたび日本を対アジア戦略の橋頭堡にしようとしたのだ。ユダの知らない、祖父の冷徹な一面だった。

 クーデター計画にはラオウも参加していた。あのとき手を組んだ人間たちが大戦後の日本の覇権をめぐって闘争を繰り広げることになったのは、あるいは必然的な運命だったのかもしれない。

 ユダはサウザーの喉元から手を離した。

「そういえば何時だったか、あなたは言っていましたね。この世が滅ぶ日が来るかもしれないと。そのときは南斗聖拳こそが世界が制するだろうと。こうなることを予期していたのですか」

「おれは可能性のひとつを提示しただけだ。戦略防衛システムの問題点は軍の研究所でずっと以前から指摘されていたからな。戦争の最終目標を敵国の殲滅と設定した時点で、人類の破滅は決定づけられていたんだよ」

 サウザーは身を起こすと、髪をかき上げた。

「それに世界の破滅を願ったのはおれではない。民衆の総意がこの世を滅ぼしたのだ。全てをリセットしたいという願いがな」

 寝台から下りたサウザーはユダの手を引いて、窓辺に連れ出した。眼下に広がる広大無辺な砂漠を指し示す。

「見ろ。この変わり果てた世界を。緑なす山々、豊饒なる海。すべては記憶の中にしか存在しない。おれたちがともに過ごした大磯もいまはない。おれは愚か者どもが二度とこんな過ちを繰り返さないように導いてやるつもりだ」

 サウザーは聖帝十字陵建設に従事させられている人々を冷ややかに見下ろした。

「愚昧な人間どもは死ぬまで奴隷であることに甘んじていればいいのだ」




 作中で出てくるイギリスの私立学校や、国防軍士官学校(旧日本軍の士官学校に準拠)の入学年齢は実際のものとはちがいます。通常、イギリスの私立学校は十三歳から、旧日本軍の士官学校は十六歳からです。
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