無数の光が黒い水面に映っている。港町の賑わいが夜の海に反射しているのだ。
桟橋には帆を畳んだ木造船が所狭しと係留されている。水面にはいろいろな物が漂っている。虹色に光る廃油、死んだ魚、腐った野菜。泥酔したか喧嘩の挙げ句に殺されたかした人間の死体も二、三、浮かんでいるかもしれない。
埼玉県の県庁所在地だったさいたま市は、内陸深くまで海が入り込んだいま、巨大な島となっている。
ここがかつての名で呼ばれなくなって久しい。いまの呼び名はメディスン・シティだ。
拳王領、聖帝領、サザンクロス・タウンといった列強の緩衝地帯であるこの街は非武装中立が保たれている。そのため交易が盛んになり、食糧、医薬品、麻薬、人間の奴隷、鳥獣の家畜、機械部品、武器の類までもが持ち込まれ、ここで手に入らないものはないとさえいわれている。
関東一円からもたらされた物資の集積地となっているメディスン・シティは夜になれば、いっそう華やかさと淫靡さを増す。
廓の見世では美麗な打ち掛けをまとった女たちが品定めをする客に流し目を送っている。連れ込み宿の近くでは、黒革のジャケットにホットパンツといった出で立ちで片方の鼻に環をはめた男娼が肢体をくねらせ、媚態を振りまいている。
酒家や妓楼、賭博場がひしめく歓楽街の中心部に、ひときわ大きな
酔客のわめき声も女たちの嬌声も三階のここには届かない。鋼板を仕込み、機関銃の銃撃すら跳ね返す扉が、階下の喧噪を閉め出している。
片目の潰れた大柄な男が椅子にかけている。じっとり濡れた手のひらを何度もズボンで拭っていた。
狗法眼ガルフはメディスン・シティの顔役だ。その強面の男が怯えているのだ。
目の前にいる人間が両手を挙げてフードを脱ぐ。長い紅い髪が滝となって流れ落ちる。
ガルフは身慄いする。この男を――男だと思っているが――前にして居心地がよかったためしはない。彼が愛してやまない犬たち、一番のお気に入りのセキまでもがこそこそと隠れてしまった。
男がデスクにしなだれかかるように腰掛ける。立ち居振る舞いが婀娜めいていて、どこか娼婦じみている。いや、娼婦には間違いないのだろう。彼はこの関東を支配する三人の王の一人の愛妾だといわれているのだから。
「儲かっているようだな、ガルフ」
男がデスクの上に置かれていた純金製のシーサー像をなでた。
「商売繁盛。結構なことだ」
「それもこれも、あなた様のおかげでございます」
「だが、金では手に入らないものもある。おれが欲しいのは情報だ」
メディスン・シティにはありとあらゆる物資とともに情報が入ってくる。こうした歓楽街はそれぞれの陣営が潜り込ませている諜報員の情報交換の場でもあるのだ。
ガルフは拳王軍、KING軍の情勢を話した。それから疫病が
「疫病だって?」
男は片方の眉をつり上げた。
「なんだ、それは」
「麻疹だそうで」
「詳しく話せ」
ガルフは知るかぎりの情報を伝えた。出し惜しみしたところで、ろくなことはない。西から来た
「このことを誰かに喋ったか?」
「いえまだ。メディスン・シティの医薬品供給を一手に担われているのがあなた様でございますれば、まず最初にご相談申し上げようと、ハイ」
「いい心がけだ」
男は笑った。首を巡らせて、窓の向こうを眺めやる。
「この街はラオウのものでも、シンのものでも、ましてサウザーのものでもない」
悪徳と頽廃の街の燦めきを、ほんとうに愛しくてたまらないといったように、瞳を細めて見つめている。彼は笑みを浮かべたまま、ガルフを振り返った。
「ここはおれの聖域なのだよ」
「わたくしめはあなた様の
男の手がガルフの腕に触れ、優しく這い上がる。美しい手だ。しかし、その気になりさえすれば、この手が人間の身体を容易に切り刻んでのけることをガルフは知っている。この男の娯楽に提供してやった美男美女がどうなったか、思い出すだけで身の毛がよだった。
「ガルフ、」
紅いマニキュアを塗った長い爪を持つ指がガルフの顎をとらえた。指先から漂う香水の薫りが鼻先をかすめる。男は顔を近づけ、あと少しで唇が触れようとしたところで、嫣然と微笑った。
「お前は長生きするだろうよ」
男はふたたびマントに身を隠すと、来たときと同じくらい唐突にいなくなった。
冷や汗がどっと吹き出した。
ガルフは膝の慄えを抑えながら立ち上がった。室内に充満する香水の匂いを追い出そうと、窓を開ける。
いままでどこに隠れていたのか、セキが姿を現した。卑屈な上目遣いでガルフを見る。自分もさっきまでこんな顔をしていたに違いないと思うと、ガルフはいまいましくなり、セキを蹴り飛ばした。
商人や一時の娯楽を求めにきた遊興の徒、客引きや街娼のなかを、ユダは足早に歩いている。フードを目深にかぶりマントで身を包んだ姿は人目を憚る風情だったが、気に留める者はいない。
シュウの居所はまだつかめない。ガルフは何も知らないようだった。
大量のワクチンを欲しがっている
自分が知るかぎり、数百人規模で麻疹が発生しているという情報はない。だとしたら、伝染病が発生しているというのはシュウの部隊ではないだろうか。あるいは彼が潜伏している基地内で。
サウザーもラオウも、シュウの行方を追っているだろうが、ユダは彼らより先にその居場所を探し出したかった。
ユダは歩を速める。右へ左へと人混みをかき分ける。その姿が不意に路地裏に消える。真後ろから、ぴたりと追跡してきた男は左右を見回す。袋小路だ。誰もいない。
「なぜ、おれの後を尾ける」
ユダは商人風の男の背後に回り込んでいる。右手が首筋にあてがわれている。わずかに指を引いただけで男の頭部は地面に転がり落ちるだろう。男は降参するように両手を上げてみせた。
「あんたを捜している人間がいるんだ。近々、来るだろうと思ってガルフの
「おれを捜しているだと?」
「そうさ。あんたは聖帝軍の主将だろう。南斗紅鶴拳のユダ」
強い警戒心が呼び起こされた。ユダは男を地面に組み伏せた。
「お前の雇い主は誰だ?!」
「あんたもよく知っているやつだ。案内する。手を離してくれないか」
ユダは男を睨んでいる。殺すのは簡単だ。だが、このおれに用があるとは何者なのだ。男の首を掴んでいた力を緩めた。
男の手元で白刃が閃く。ユダは手首を掴み、捻り上げた。男の手から刃物がこぼれ落ちる。ちがう。ただの鍵だ。別の男がユダに体当たりする。もう一人いたのか。しまった、と思ったときには人ひとりを気絶させるに足る麻酔液が注入されてしまっていた。
ユダの視界が暗転した。路上に倒れ伏す。
手首を擦りながら立ち上がった男はもう一人とともに、用意しておいた死体袋にユダを詰め込んだ。路地裏にはいつの間にか車が横付けされている。
「悪いな。依頼主はあんたを眠らせた状態で連れてこいと言っているんだ。まあ、命までは取らんから安心しろ」