誰かが頬をなでている。指先から、かすかに石鹸の匂いがする。
こんな風に触れてくるのは父さまと母さま。そして、おじい様。
いまはあの人だけ。
戦時中のあの人は制服の生地と糊のきいた清潔なシャツ、よく磨かれた革靴の匂い。頬に触れてくる手は石鹸の匂いがして、肩に顔を埋めたときには爽やかな整髪料の香りがした。
手と髪の香りはいまも変わらない。それは安堵感と同時に、あの人との関係は昔のまま、逃れることはできないのだという諦めをもいだかせる。
ユダは頼りなげな呟きを洩らした。
「サウザー……?」
枕元にいた人物が手を止めた。ユダは視線をめぐらせる。意識がはっきりしてくるにつれて、輪郭が鮮明になる。思わず驚愕の声を上げた。
「シュウ……!」
「久しぶりだ。手荒な真似をしてすまなかったな」
シュウが微笑んでいた。顔を鉤裂きにした傷跡を間近に見てユダは息を呑む。聖帝城でも目にしていたが、これほど酷いとは思わなかった。士官学校時代、シュウの部隊に配属されたときの彼の知的な容貌を覚えているだけにユダは戦慄を隠せなかった。傷に触れようとして、シュウの背後からのぞき込んでいる男に気づいた。
「きさま!」
商人の男は笑って跳びすさった。
「おっと、怒るなよ。一応は丁重に扱ったぜ。積み荷の豚や鶏なんかよりは、ずっといい場所に寝かせてやったしな。じゃあ、シュウの旦那。おれはこれで」
「ああ、ありがとう。謝礼の小麦20袋は管理倉庫で受け取ってくれ」
男は両手をこすり合わせ、ほくほく顔で出ていった。
ユダはむっとした。身体から家畜の糞尿の臭いがするのはそのせいなのか。このおれを貨物扱いするとは。しかも、運び賃が小麦20袋だって? ユダはシュウに抗議の目を向けた。
「用があるというわりには、ずいぶんなやり方じゃありませんか」
「我々の
かつての上官に頭を下げられ、ユダはそれ以上何も言えなくなった。
「……いいですよ。逆の立場だったら同じ事をしたでしょうから。それで、おれに何の用があるんです」
「ワクチンと免疫グロブリン、抗生物質を分けてほしい。我々の基地で麻疹の罹患者が大勢でて、死者も出始めているのだ」
シュウは沈痛な面持ちで、彼らが置かれている窮状を語った。
彼が聖帝城に来たのと同時期くらいから麻疹が流行しはじめ、基地の隊員や身を寄せている市民たちが次々に病に倒れた。病人は隔離され、以前に麻疹に
麻疹を小児の病気と侮るのは間違いである。この病気は古代から多くの人間の命を奪ってきた。しかも、麻疹・おたふく風邪・風疹を予防する新三種混合ワクチンに副反応が指摘されて以降、ワクチン接種が積極的に行われなかった時期があり、免疫を持たない者も少なくないのだ。栄養状態が悪く、まともな治療が受けられないいま、麻疹は本来の恐るべき伝染病に戻りつつあった。
「ガルフが言っていた
ユダの予想は当たっていたのだ。中立地帯であるメディスン・シティは対価さえ支払えば、どの陣営にでも商品を売る。敵対している国の物資であろうと、メディスン・シティを通じてなら手に入れられる。シュウたちはそこで医薬品を購入しようとしたが、十分な量を確保できなかったのだろう。
「ワクチンと免疫グロブリンなら、まとまった数を用意できますけど、でもメディスン・シティを経由するのは危険です。あなた方が大量のワクチンを求めていることを知られるのは時間の問題でしょう。ガルフは利に
「ならば、直接ここに持ってきてほしい」
ユダは言葉を詰まらせた。皮肉そうな、だが困惑したような笑みを浮かべる。
「おれを信用するんですか? おれはあの人の
「お前はそんなことはしないさ」
「どうしてそんなことが言えるんです」
「私のことを知らせるつもりなら初めから何も言わないだろう。医薬品の受け渡し場所に大軍を引き連れて現れ、我々を一網打尽にしただろう」
ユダは瞼を伏せた。シュウの言うとおりだ。この人を裏切ることはできない。シュウの下で働けたことは幸せだった。自分はいつか戦いの野で死ぬだろう。だが、シュウには、この人にだけは生きていてほしかった。
シュウはそんなユダの心中を推し量ったように言った。
「サウザーと袂を分かつことはできないのか」
ベッドのシーツを握り締め、ユダは目を逸らした。
「おれはあの人を愛しています」
「それは愛ではない」
シュウは、はっきりと断言した。
「お前はサウザーを愛していると言いながら、その実、彼を恐れているだろう。サウザーがずいぶん強引なやり方でお前を手に入れた経緯は私も聞いている。お前は彼に酷い目に遭わされたのではないのか。逃れられない恐怖から身を守るためには恐怖そのものと一体化するしかない。お前はそれを愛と勘違いしているだけだ」
「ちがう! ほんとうに愛しているんです!」
「ユダ、」
骨にまで達する怪我を顔に負ったシュウはほとんど表情を変えることがない。しないのではなく、できないのだ。その分、感情は声となって表れた。シュウの声は痛ましげだった。
「私の目は光を失ったが、その分、心が研ぎ澄まされるようになった。凪いだ水面に物の影がはっきりと映し出されるように、私の心の目には多くのものが見えるようになったのだよ」
「あなたの心の目におれはどう映るんです」
「泣くことすら諦めてしまった悲しい子供だ」
ユダは奥歯を噛み締め、かろうじて嗚咽を押し殺したが、瞳は涙で煌めいていた。
「優しそうな顔をして胸を抉るようなことを言うのは相変わらずですね。その目」
手を挙げてシュウの顔に触れた。
「ある少年の命を救うために自分で
「お前を救えるのだったら、私は喜んでこの目を差し出しただろう」
今度こそ涙があふれてきてユダは手で顔を覆った。
華やかな装いも、美しい化粧も、自分の弱さや臆病さを隠すための虚飾にすぎない。そんなものは目の見えないこの人には役に立たない。自分の本質は変わらない。ほんとうの自分は地下牢で恐怖に慄えていた子供のままなのだ。
シュウは、しゃくり上げるユダを引き寄せ、胸に抱き締めた。
「私たちと来なさい。サウザーと一緒にいて彼がどんな人間かよく判っただろう」
「いいえ、それはできません」
ユダはシュウを押し退け、手で涙を拭った。
「もう後戻りはできません。おれが戻るべき場所はあの人のところ以外、どこにもないんです」
「過去は変えられなくても未来は変えられる。いますぐに決めなくていい。時間はまだある。お前自身でよく考えてから結論を出しなさい」
シュウは上官だったときと同じ、優しい、だが揺るぎない口調で言った。
「ここはどこなんです。国防軍の基地みたいですけど」
廊下を歩きながらユダは周囲を見回した。
ユダはフード附きのマントで注意深く身を隠していた。聖帝軍の主将として顔が知れ渡っているユダが素顔を晒したままでいたら無事では済まない。シュウにしても敵方の人間を引き入れたことが分かったら裏切り者扱いされるだろう。かつての上官と部下として尊敬と信頼をいだいていても、現実の二人は敵同士でしかなかった。
シュウの本拠地は東部方面軍総監部が置かれていた相模原の地下基地に似ていたが、集合住宅のような生活感があった。
長い蛍光灯のついた天井とリノリウムの床は軍事施設そのものだが、ペンキを塗った無機質なコンクリートの壁には折り紙で作った花や子供が描いたらしい絵が貼られている。
掲示板には多種多様な貼り紙がしてある。水耕栽培の農場や豚舎、鶏舎、魚の養殖場などでの労働力や、物資の運搬・仕分け等のボランティアの募集。さまざまな改善要求と返答、行政からのお知らせ。
この地下基地には多くの民間人が身を寄せ、ひとつの街を形成しているらしい。不便な避難生活を余儀なくされながらも、少しでも生活の質を良くしようとの努力が感じられた。
「ここは市ヶ谷にある国防省本省の地下基地だ」
「えッ!」
ユダが愕くのも無理はない。ここは爆心地の直下だった。
政府中枢が集まっていた東京都心は核の集中攻撃を受けた。
千代田区、港区、中央区は日本人全員を三度皆殺しにできるほどの核の炎によって焼き尽くされ、生命の存在を許さない無人の荒野と化していた。
首相をはじめとする閣僚、政府要人、各省庁の官僚は誰一人、生き残らなかった。いや、もしかしたら生存しているのかもしれないが、今日にいたるまで彼らは姿を見せず、その所在は不明のままだった。
首相官邸の地下には核シェルターがあり、国会議事堂、市ヶ谷駐屯地とも地下通路でつながっていた。だが、苛烈きわめる核攻撃によって東京の東側の台地は地滑りを起こし、その後の海面上昇によって、水中に没してしまった。シュウは捜索隊を派遣したが、途中のトンネルが陥没していたうえに大量の海水が湧き出し、それ以上の捜索はできなかった。政府の人間たちは地下核シェルターごと土葬されたか水葬されてしまったのだろう、というのがシュウの考えだった。
シュウはかつて副官だったという男を連れてきた。シュウよりは年下らしいその男は、フード附きのマントで身を隠したままのユダを見て怪訝に思っただろうが、態度には出さなかった。三人は国防省施設に隣接した地下鉄・都営新宿線の構内に出た。
「ここでも大勢の人が亡くなっていた。核の炎から逃れようとしたが、結局は焼け死んでしまったのだ」
相模原の東部方面軍総監部の基地を去ったシュウは自らが率いる部隊とともに生存者を探しつづけた。そして生き残った民間人を保護しながら、網の目のように張り巡らされた地下鉄を使い、都心最奥部にある市ヶ谷の基地に潜伏していたのだ。
都心の地表は死の灰が厚く積もり、防護服を着用しなければ近寄ることができないほど放射線の値が高い。聖帝軍や拳王軍がシュウの居場所を発見できないのも道理だった。
失明しているシュウは副官の運転するジープに乗り、ユダは自らがハンドルを握って、都営新宿線、副都心線、西武有楽町線の路線を乗り継ぎ、練馬に向かった。地下鉄のトンネル内は必要最小限の明かりだけがつき、排気ガスを逃がすための送風機が回っていた。敷かれていたはずのレールはなくなっていた。車両を走らせるには邪魔だったろうし、上質な鋼鉄は資源としての価値が高いので再生利用するために持ち去ったのだろう。
かつて練馬駅があった場所で地上に出た。周辺の商業ビルや高架橋は倒壊していて、その瓦礫を使って出入り口が巧妙にカモフラージュされていた。ここまで来れば放射性物質の汚染レベルは低く、素肌をさらしていても大丈夫だった。このまま北西に向かえば聖帝軍の前線基地である六道山城市にたどり着く。
「気をつけて行きなさい」
目印がつけられた地図とコンパス、水と食料を手渡しながらシュウが言った。
砂漠に乗り出したユダが最後に振り向いたとき、シュウはジープの横に立ったままユダを見送っていた。ふたたびシュウを乗せた車両はUターンすると、地下の坑道に引き返していった。
三日後、医薬品をジープに積んだユダはコマクだけを連れて、市ヶ谷の基地に戻った。
同行する人間が多くなればそれだけ秘密が漏洩する可能性が増したし、ユダの軍のなかにもサウザーの密偵がいるかも知れず、信用できなかった。
市ヶ谷に向かうにしても直接ではなく、いったん六道山城市に行くように見せかけて、東進するルートを取った。そのあいだ、何度も車両を停めて尾行者がいないことを確かめた。
地下鉄の要所要所には見張りが立っていて、その都度、シュウから渡された通行手形を見せた。それがなければユダとコマクは銃撃を受け、蜂の巣にされただろう。
「なんだか、ヴェトコンが掘った地下トンネルみたいですね」
助手席に座ったコマクは複雑に分岐した地下道を眺め回し、感嘆したように言った。言い得て妙だな、とハンドルを握るユダも思った。
ヴェトナム戦争でアメリカと戦った南ヴェトナム解放民族戦線(通称・ヴェトコン)はジャングルの地下に数百キロにもわたるトンネルを張り巡らせた。兵士たちはトンネルを使って移動し、銃と無線機を手に辛抱強く待ち続け、アメリカ軍への奇襲攻撃を繰り返した。最新の武器・装備を投入したアメリカ軍も地の利を生かしたヴェトコンには勝てず、戦争は泥沼化し、ついには撤退に追い込まれていったのだ。
シュウの部隊もヴェトコンのゲリラ作戦に倣ったのだろう。敵が侵入してきたら灯りを消し、保守管理用の通路を使って反撃の態勢をととのえる。敵は真っ暗闇のなかを右往左往し、どこから攻撃してくるか分からない相手に翻弄されることになるだろう。東京都心の迷路のような地下鉄網を巧みに利用した防衛方法だった。
市ヶ谷の国防省の地下基地ではシュウと彼の部隊の軍医、救護兵が待っていた。
「ありがとうございます。これで多くの命が救われます」
「私も医師の端くれですから、当然のことをしたまでです」
何度も頭を下げる軍医の手を、コマクは握りしめた。
敵に医薬品を渡したことが露顕したら、ユダもコマクも無事では済まされない。サウザーは裏切りへの報復として二人を極刑に処すだろう。それも想像を絶するやり方で。コマク自身、サウザーは恐ろしかった。しかし、病人に敵味方はないと思い、医師としての義務を優先させたのだ。
「ワクチンで得られる抗体は十年ほどで失われますから、接種を繰り返さなければいけません」
「必要な分をまかなえるよう、メディスン・シティへの供給量を怪しまれない程度に増やしておこう」
このときもユダはフード附きのマントで身を隠していた。だが、軍医たちはユダの正体に気づいた。悪名高い聖帝軍の幹部がここにいることに愕きを隠せないようだったが、シュウの知り合いということで納得したのか何も言わなかった。
コマクが軍医たちとともに患者が隔離されている病室に行っているあいだ、シュウはユダを私室として使っている仮眠室に案内した。
二つの簡易ベッドとスチールのロッカー、小さなテーブルに椅子が二脚。片側の壁には子供が書いたらしい絵がいくつも貼られ、天井からはボール紙で作った飛行機がついたモビールがつり下がっている。ベッドの下には男の子用のスニーカーがあった。シュウには息子がいたはずだから、その子の物だろう。
「少し手狭だが、我慢してくれ。避難民が多いので、会議室や研修室なども仕切りを設けて居住スペースとして使っているんだよ」
「どれくらいの人がここに身を寄せているんですか」
「軍人と軍属が500人、民間人が2000人ほどだ」
聖帝軍や拳王軍から見れば取るに足らない数だが、この近辺では最大勢力だ。民間人もいざというときには兵士として十分通用する。女性も兵役対象だったから、成人であれば誰でも銃器の扱いを心得ているのだ。
2500人の人員を擁し関東平野の中央に位置するシュウの部隊は、聖帝軍、拳王軍、KING軍の三国鼎立状態に楔を打ち、勢力図を塗り替える可能性がある。シュウの気性からいって積極的な軍事行動に出るとは思えないが、必要ならその地理的優位性を最大限利用するだろう。
「この基地には統合幕僚長や陸幕長がいたはずですが、姿が見あたりませんね。あの方たちはどうしたのですか」
「私たちがここにたどり着いたとき、生きていた者はほんのわずかしかいなかった。爆心地の直下ということもあって地下核シェルターの機能の大半が失われ、施設を十分稼働できなかったのが原因らしい。生存者と一緒にこの基地を再建するまで一年かかったよ」
外堀通りから南側の地域は大部分が海中に没している。高台にある市ヶ谷の地下基地はかろうじて持ちこたえたが、それでも被害は甚大だったのだろう。
シュウは椅子にかけて待っていなさいと告げると、トレイに軽食を乗せて運んできた。
ハムとレタスのベーグルサンド、よく焼けたソーセージ、スクランブルエッグにコーヒー。品数の多さと新鮮さにユダは愕いた。
「よくこれだけの食糧が手に入りましたね」
「すべて自家製だよ。基地の農場と飼育場で育てた野菜と肉を使ったものだ。コーヒーは大麦から作った代用品だけどね」
「とても美味しいですよ」
マグカップのコーヒーをすすったユダは微笑んだ。シュウも自分のコーヒーを味わっていたが、カップを置くと、サウザーと袂を分かち自分と一緒に来るように勧めていた話をふたたび切り出した。
「それで心は決まったか? お前はみんなの命の恩人なのだ。喜んで受け入れてもらえると思うが」
ユダはコーヒーに視線を落としたまま、ふっと口元をほころばせた。
シュウと行動をともにするつもりはなかった。医薬品はシュウへの餞別であり、今度こそ今生の別れをするつもりだった。
「その話はもう止めてください。あなたが自分の道を違えることがないように、おれも自ら選んだ生き方を変えることはできません。おれはこれまで多くの人間を殺してきました。これからも殺すでしょう。ここの人たちと生きることはできません。あなたへの義理はこれで果たしたと思ってください。おれはサウザーの臣下であなたの敵対者なのです。次に会ったら、あなたを殺します。それがサウザーの望みなのですから」
シュウの眉宇が苦悩に曇った。ユダに視線を向けたまま、しばらく何も言わなかった。
「お前はいまもサウザーに囚われたままなのだな」
ようやく口を開いたシュウは悲しげに言った。
「いつか、お前自身の心が解放される日が来ることを願っているよ。そのときはためらわずに私のもとに来なさい」
ユダはただ静かに微笑んでいた。その日が永遠に来ないことは自分でもよく分かっていたのだ。
「おれがここに来たのはもうひとつ、あなたに警告をするためです。サウザーは武蔵野台地の制覇を目指しています。ここは安住の地とはなりえません。あの人があなた方を見つけ出すも時間の問題でしょう」
「すでに手は打ってある。心配はいらない」
どのような方策があるというのだろう。サウザーは己れに逆らう者を生かしてはおかない。六道山城市がいい例だ。奴隷として生きることすら彼は赦さなかった。
サウザーの命令なら、あなたを殺すと言ったばかりのユダだった。しかし、それでもやはりシュウには生きていてほしいのだった。