第四話「それでも・前」
しばらく続いた怒りの感情はいつの間にか深い悲しみに変わっていた。
どうしてだろう、怒ってるのに涙が止まらない。
こんな時、アイツが居てくれれば……。
そう思って部屋を見渡そうとした時に気付いた。
「もう、居ないんだ……」
蝉の奏でる夏の音が聞こえ響く中を歩く玉男は身を凍えさせていた。いや、正確には大切な者を失った喪失感に身を凍えさせているのだ。
手の平に残る愛しい人の小さな頭の感触を壊さぬように、彼はあの時から手を閉じようとしなかった。
「謝って済む問題でもないよな……」
しかし彼にはそれ以上の方法は思い当たらない。
当てもなく彷徨う彼の視線の先には延々と暗闇が続くのみであり、眺めていればいる程に昼間の淫らな紫の姿が視界に過ってしまう。
揺れ動く彼女の白く大きな乳房に触れた時の事を思い出すと開いたままの手の平にその心地良く柔い感触が喚起されてしまいそうになり、彼は慌てて頭を振ってそれを阻止して大きく吐息をつく事で気持ちを落ち着ける。
「あれ、玉男じゃんか。こんな所で何をやってるんだぜ?」
地面と睨み合いをしている玉男の耳に聞き知った少女の声が降ってくる。
顔を上げる動作のまま視線を上へと向かわせると、そこには箒に跨った小さな魔法使いがいつも通りの人懐っこい笑みを浮かべながら見下ろしてきている姿があった。
「ああ、魔理沙か」
肺の中に溜まった淀んだ空気を吐き出すついでのように呟かれたことに腹を立てたのか、魔理沙の笑みは引きつったものに変わる。
「私じゃ不服か?」
徐々に高度を落として目の前に降り立った魔理沙が玉男の顔を見た瞬間、半開きの目は元の大きさ以上に見開かれる。
「どうした、いつも以上に酷い顔だぜ?」
いつも以上は余計だ、と頭で思い浮かべるものの玉男の口から漏れるのは、「ああ」という声になれなかった息の残骸だけだった。
道の途中にあった大岩に腰を掛けながら、ようやく喋れるようになった玉男から事の経緯を聞いた魔理沙は「お前な」と頬に汗を伝わせながら大きく吐息をついた。
「俺は最低だ」
経緯を語っていた時から終始、視線を足元に向けている玉男が吐き出す自責の言葉をすっかり聞き飽きてしまった魔理沙は、トレードマークの黒い帽子を脱いで頭を二三度かいてから小さな口を開ける。
「あのな、そうやって自分を責めてればアイツの負った心の傷が癒えるのか?」
そこから少しの間を置いて「私はそうは思わないぜ」と言い切る魔理沙は、言い終える瞬間まで鋭い眼光を玉男に浴びせ続ける。
「それは」と言い淀む玉男が目を逸らすのを魔理沙は見逃さない。
「情けない――嗚呼、情けないぜ。お前ならと思ってた自分が情けないぜ!」
徐々に声を荒げる魔理沙の目に、悔しそうに歯ぎしりする玉男の微かに動く口元が目に入る。
本当に手間の掛かる男だぜ、と心の隅でボヤく小さな魔法使いは目の前の男に魔法の呪文をかける。
「あの時、霊夢に言った言葉は嘘っぱちだったのか?」
「ずっと側に居たい」と告げられた事を柄にもなく嬉しそうに話す霊夢の顔が魔理沙の脳裏で喚起している。
それは視界に映っている目の色を変えた玉男も同じだろう、と魔理沙は微かに白い歯を覗かせながら表情を和らげる。
「――違う。嘘なんかじゃないっ!」
魔理沙はここに来て初めて玉男の口から飛び出た感情の込められる大きな声に、今度は確かな微笑みを返す。
「私の大切な親友を頼んだぜ」
駆け出して行く玉男の背に小さくそう告げると、魔理沙は横に置いた帽子を被り直す前に「やれやれだぜ」と漏らすのだった。