第五話「それでも・中」
知らない間に随分と遠くまで来ていたようで、最上段が遥か頭上に見える石造りの階段の前に戻ってくる頃になると、俺の肺と両足は悲鳴を上げ始める。
両膝に手を乗せて上体を前屈みに傾けると、そのまま頭の中身が鼻からこぼれ落ちるのではないか、という錯覚に陥る。
それでも、俺はここで足を止める訳にはいかないんだ。
「――霊夢」
呼吸が整うのを待たずに歯を食いしばって視線を上げる。
濃紺の夜色で染め上げられた目の前の階段はいつも以上にそびえて見えるが、ふと頭に過る霊夢の笑った顔が地面に張り付く足を上げさせてくれる。
都合の良い勝手な言い分だとは思う。それでもこの気持ちに嘘や偽りはない。
いつも一匹狼で無関心な態度を一貫していても、その実、誰よりも他人との繋がりを大切にしている不器用な巫女。
おこがましくも素直になれないでいる彼女の側に寄り添って居てあげたいと抱いた、あの気持ちは本当なんだ。
俺は一生を掛けて霊夢の側に居たい。その気持ちをもう一度伝えよう。
それで少しでもこの状況が好転してくれるなんて思わない。それでも伝えたいんだ。この素直な気持ちを。
すっかりと忘れてしまっていた一人心地に戸惑う霊夢。
無意識の内に彼の面影を追うようにして伸ばされた手が虚空を掴むと、大分痛んでしまった様子が伺える畳の上に前のめりに突っ伏す。
「……もう嫌」
未だに昨晩の彼の感覚が残る場所に指を当てがうと、彼女の中に降り積もった悲壮の雪原が局所的な熱によって溶け始める。
「こんな時に私は何を」と自身を戒めるが、動き出した人差し指はその勢いを増しながら局部をこすり続ける。
畳の上に片手を着いて腰を浮かせる霊夢は痩身な身をよがらせる度に、昨晩までに行った恋人との交わった瞬間を頭に喚起させる。
大きな手の平に包まれる胸。高熱を発する柔らかい舌先が触れ合う瞬間に訪れる脳を麻痺させる甘美な感覚。下腹部の奥深くまで抉ってくる硬質な熱棒に貫かれる至上の快楽。
しかし不意に彼と交わっている女性が自分とは異なる自物に成り代わると、激しさを増していた指の速度が低下して行き、彼がその女性の名を口にしてしまうと完全に動きを止めてしまう。
「霊夢――っ!」
霊夢が快楽の喘ぎを苦しさの喘ぎに変えてしまった瞬間、先まで頭に思い浮かべていた虚像の声が実像になって再び彼女の耳に入ってくる。
「たま、お……?」
唐突に開け放たれた障子との間に立つ玉男の呼吸は絶え絶えで、大きく肩を上下させる様子から霊夢は彼がここまで走ってきたのであると悟る。
「はぁはぁ――霊夢、最後に一つだけ言い忘れてたことがある」
途切れ途切れに紡がれる言葉は彼の見た目に反して力強く、苦し気に引き下がる目蓋から覗く眼光も同様に鋭い。
肩で口元の汗を拭うと玉男は大きく息を吸い込む。
「俺の居場所はここにしか――霊夢の側しかないんだっ!」
足を伸ばしたまま両手を支えに身体を起こしている霊夢は、突然に発せられた大声にビクッと小さく身体を震わせながら下を向く。
「……勝手なこと言わないでよ」
視線を畳に落としたまま正座を組み始めると、その静かな物言いが返って聞き手に圧迫感を与える低い声色を発する。
嬉しさや憤りなどの、そんな分かり易い感情でも無い妙な感覚が霊夢の視界に広がる畳を震わせる。
「許してくれなんて言わない。だけど、側に居させて欲しいんだ」
「意味わかんないわよ」
声の震えを必死に抑えようと努める霊夢だったがそんな意に反して、声帯は必要以上に震えてしまう。
「霊夢を一人にさせたくないんだ」
ゆっくりと視線を上げる霊夢の瞳に映るのは、玉男の見せるあの日の笑顔だった。