光も音も、自分の身体の感触も、空気の匂いや渇いた舌を湿らせる唾液すら感じない。唯一左手に感じる温もりが無ければ死の暗闇と等しい自分の状態を知り、発狂しそうな感情を温もりにすがって必死に抑え込む。その温もりが誰のものであれ、そしなければ消えてしまいそうな程の恐怖に襲われていた。
身体の震えが止まらない。声も出なくなってくる。声を出したところで返事は返ってこない事実が一層喉を枯らせる。
恐らく俺は涙を流しているだろう。流れているはずの涙も感じられず、消化しようのない恐怖が心を侵す。心が壊れる寸前、掌に誰かが指で何かをなぞり始めた。
「だ・い・じ・ょ・う・ぶ」
平仮名で書かれたその文字は、俺の心に光を灯す。震えは治り、光に向け呟いた。
「ありがとう。」
ーーーーー
ーーー
ー
涙を流し、肩で息をして震える先輩を前にして、私はただ左手を握ることしか出来ずにいた。そんな私から黒髪の女の子が先輩の手を取り、掌を指でなぞる。すると先輩の震えと涙は止まり、眼を閉じてありがとうと呟いた。
「この手は…ユキか?」
ユキと呼ばれた女の子は笑みを浮かべ、また先輩の掌をなぞる。何を書いているかは先輩とその子にしか分からず、先輩はとても集中しているようだった。
「…成る程。集中すれば出来るかもな。ちょっと待ってくれ。」
女の子の手を握り、先輩は黙り込む。何をするのか皆息を飲んで見守っていると、女の子はこちらを向き、先輩が口を開いた。
「よし…"見えた"。別人みたいな"俺の声"も聞こえる。妙な感覚だな。」
何が起こったのか分からない。先輩は右手で女の子の頭を迷いなく撫で、右手を開いたり閉じたりした。
「先輩?分かるんですか?」
恐る恐る眼を閉じたままの先輩に尋ねる。女の子を抱き抱えた先輩は私の頭を撫でて答えた。
「あぁ。見えてるし聞こえるよ、春音。薫に母さん、メティスにアリス、麗華、翔も居るのか。なんか、心配かけたみたいだな。」
笑みを浮かべる先輩に、私は安堵し涙を流し、皆安堵の溜息を吐いた。
「彼女の感覚を借りてるのね?」
「幸い左手は生きてたからな。少なくとも、これで暗闇にひとりぼっちってことは無くなった。」
「案外寂しがり屋ね、貴方。」
麗華と呼ばれた人の言葉に苦笑し、先輩は女の子を抱えたままベッドから降り、唖然とする医師に尋ねた。
「帰っていいですか?先生。」
「あ、いや…もう一度検査を受けた方が…」
「要らないよ。こいつは医学的な障害じゃない。呪いだとかそういう類いだ。それに、俺は暗所も閉所も注射も嫌いでね。安心しな、診察代なら払ってくよ。」
側に置かれていた上着を取り、先輩は病室を後にする。後に続いて家族の人達が部屋から出て、先輩のお母さんが医師にお礼を言ってから出た。私と薫さんも慌ててその後を追い、1人医師だけが残された。
ーーーーー
ーーー
ー
「それで、貴方の五感を奪った命知らずは誰なの?」
「さてね。恨みを買った奴は幾らでも居るが、見覚えのある顔じゃあなかった。そもそも人間かも怪しかったからな。」
一度春音と薫と別れた直毅達はメティスの運転する車で病院を離れ、助手席にアリス、膝の上にユキを乗せた直毅を挟むようにして麗華と優子が、1番後ろの席に翔が座っていた。
「どっちにしても、凛さんに身体を調べて貰わなきゃな。俺の五感が戻るかどうか。」
「本当、どうして貴方はこう面倒に巻き込まれるのかしらね。」
「好きで巻き込まれてる訳じゃない。皆んなに心配かけたい訳でもないからな。」
自らに課せられた宿命だと知らず、彼はユキの感覚を借りて麗華の質問に答える。やがて家に着き、リビングのソファーに深々と座って直毅は大きく息を吐いた。
「そういえば、親父と凛さんはまだ帰ってきてないのか。」
「えぇ、何処に行ったのかしら。」
丁度彼が呟いたと同時に、雄治と凛がリビングの扉を開けて入って来た。
「お帰りなさい。雄治さん。凛さん。」
優子が2人を出迎える。2人の顔には薄くはあるが影が差しており、疲れた様子であった。
「どうしました?疲れてるみたいですけど。何処に行っていたんですか?」
「昔の知り合いの所にな。優子、後で俺の部屋に来てくれ。」
テーブルの椅子に座り、雄治は煙草を咥えて虚空を見上げる。煙草に火を点けずに。
「凛さん。ちょっといいですか?」
ユキを抱え、雄治と同じく煙草を咥える凛の元に直毅は向かう。
「どうしたの直毅。」
「お疲れかもしれませんけど、俺の身体を調べて貰っていいですか?きっと何処かおかしくなってる筈なんですよ。魔術的な要因で。」
「何があったの?」
「いやぁ。どうやら五感を奪われたみたいで。」
深刻な様子も無く答える直毅に、凛と雄治は煙草を落として驚く。
「冗談だろ直毅。五感が無いんじゃ会話どころか歩くのもままならないだろ?」
「俺1人だとな。はい。煙草落としましたよ、凛さん。」
落ちた煙草を拾い凛に手渡す。彼女は直毅が抱えたユキを見て大体の状態を察した。
「その子の五感を…よくやるわ本当に。生きてる感覚は左手だけみたいね。」
「ご名答。実際、誰かの感覚を借りてないと恐ろしくて立ってられないんですけど。」
「分かったわ。私の部屋に来て。調べてみましょう。」
直毅はユキを連れ凛とリビングを後にし、雄治も煙草を咥えたまま自室に向かう。
「メティスちゃん。後お願いしていいかしら。」
「はい。分かりました。」
夕食の準備をメティスに任せ、優子も雄治の部屋に向かう。
「翔、紅茶を淹れて頂戴。」
「はい。お嬢様。」
リビングは静まり返り、水や食器が小さく音を立てるだけで誰も話そうとしない。その静寂を破り、アリスが1人呟く。
「どうして直毅は平気そうなんだ?」
その疑問にメティスは作業を止め、それに気が付いた麗華もカップを置いて答えた。
「そういう人なのよ。でも内心は平気じゃないわ。側に居た方が良いわね。彼の身の安全もそうだけど、精神的にも誰かが付いてないと。私達が思うほど、直毅は強くないわ。」
「私達が、直毅様を…」
直毅によって救われた少女達は彼を想い、それぞれの胸に決意を固めた。
ーーーーー
ーーー
ー
「……厄介な術式ね。無理に解くと五感が完全に破壊される。術者そのものが術式の代わりになっているような…」
ベッドに横になる直毅の頭に手をかざし、凛は彼の身体にかけられた魔術の正体を探っていた。心配そうに直毅を見つめるユキが凛の方を向く。
「大丈夫よ。まだ術式を解く訳じゃないから。解くのはよく調べてから。」
本棚に向け手を伸ばし、1冊の白く分厚い本を引き寄せた凛がユキに声をかけ、何も書かれていない本の表紙に手をかざす。直毅の身体にかけられた術式を記憶し本に術式として写すと、赤黒い魔方陣が表紙に刻まれ、ページにもビッシリと文字が羅列していた。
「もういいわ。左手に触れてあげて。」
凛の言葉に頷き、ユキは直毅の左手を握る。目を閉じたまま起き上がった直毅は、ベッドから降り彼女を抱き抱えた。
「どうです?凛さん。」
「すぐには解けそうにないわ。迂闊に手を出せば五感が完全に破壊されるようになってる。今のところ確実な方法は、術者を消滅させることね。」
「消滅、ですか。何処に居るかも分かりませんけどね。」
「なんにせよ調べてみるわ。お疲れ様。」
「よろしくお願いします。凛さん。」
凛に礼を言って直毅は部屋を後にする。彼女は煙草に火を灯し、机の上に赤黒い本を置いて解読を始めた。
ーーーーー
ーーー
ー
「そうですか…あの人が。」
「あぁ。俺と凛2人がかりでも勝てなかった…連れて行きたくはないが、直毅にも戦って貰うしかない。いい加減、あいつに本当の事を話そう。」
雄治は机に寄りかかって静かに呟く。優子も覚悟を決めたのか、胸の前で手を握り締める。
「直毅…いつか伝えないといけない事ですから。」
「真実を知ったところで、あいつは俺達の子だ。そうだろう?」
優子は堪えきれず、雄治に抱き着き涙で胸を濡らす。笑みを絶やさない彼女が感情を露わにした。
「どうして…どうしてあの子だけ、こんな目にあわなきゃいけないんですかね…」
「世界が、神が狂ってるからさ。その世界が創った人間も、その人間が"造った"俺達も。」
優子を抱き締め、雄治は虚空を睨みつける。全てを呪うように。