影法師の夜
人には様々な欲求がある。生理的な欲求を除けば、それこそ無数に。共感を得るものから、果てはその者にしか理解出来ないものまで。少女が抱いたそれは、その中でも比較的理解出来るものであった。
他者への憧れ。自分より優れた者を模倣し、優越感を得る。程度の差はあれ、誰しも一度は体験すること。ただ1つ違うことがあるとすれば、少女は憧れの対象に"成り代わることが出来た"。人が定めた法に従うが人の定。人ならざる少女が縛られる訳もなく、生理的欲求まで押し上げられた欲望もまた、食物を求める人の様に少女を突き動かした。
全ては愛する人の為に、愛される為に。総じて人の為とは偽りと言うが、少女は偽りなく彼を愛していた。
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少女の狂気に比べ、雄治に右眼を撃ち抜かれた男の憎悪は、観客達を満足させるには足りないようだ。
暗闇の中自我を崩壊させ、ただ黒い感情を垂れ流す男を見兼ね、舞台から救いの手が差し出される。
それは1つのフィルムの入ったケースであった。1908回に及ぶミステイクを繋ぎ合わせた憎悪の塊。狂う男の胸に埋め込まれ、溢れ出た黒いフィルムが男の身体に巻き付き、男の全てを取り込んでいく。やがて男の身体を覆っていた銀の鎧は黒鉄の様な輝きに色を変え、潰れた右眼で闇を見て、自らを呪った。
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直毅が五感を奪われてから暫くの間、少女と彼の戦いがテレビで流れる以外は平穏が続いていた。ニュースを見て心配した彼の友人達が家を訪れるなど、騒がしくもあったが、それ以上に友人達との触れ合いは彼の心を落ち着かせた。
だが彼が平穏である状態を観客は求める訳もなく、代わりに観客は彼の影を、吐き気のする地下へと向かわせた。少女の愛憎劇と、男の復讐劇の準備が済むまでは。
「……クソ野郎共め……」
薄暗い部屋の中、ベルと眠っていたジョン・ドゥは目を覚まし呟く。ベッドから出て服を着、彼は机の上にいつの間にか置かれていた札束と紹介状をコートにしまい、部屋を後にする。
フードを被り、足音を響かせ路地を歩く。窓から漏れ出す嬌声や悲鳴、怒号に嫌気を覚え煙草に火を点け溜息と共に紫煙を吐き出す。入り組んだ路地裏に進み、何の看板もない場所の階段の前で煙草をすり潰し、地下への扉を開けた。中に入るとカウンターに男が1人と、重たそうな扉の前に2人大柄な男が居た。カウンターに居た男は彼を見て、スーツ姿の大柄の男2人を連れ近寄る。
「すみませんが、当店は一見様のご利用は…」
「紹介状ならある。」
内ポケットに手を入れた彼にスーツ姿の男2人も拳銃を抜こうとし、彼はコートを広げゆっくりと紹介状を取り出す。
「ミスターハンニバルからの紹介状だ。確認してくれ。」
紹介状を受け取り、内容を見た男は態度を和らげ2人を下がらせた。
「これはこれは、ミスターハンニバルのご友人でいらっしゃいますか。失礼致しました。本日はどういったご用件で?」
「少し"買い物"に。"新品"はあるかな?」
「えぇ勿論。ご案内致します。あぁその前に、武器は携帯しておられますか?」
「いや。だが金属探知機は止めてくれ。身体の中に機械が入ってるんだ。ボディチェックで頼む。」
「かしこまりました。」
下がらせた男の1人が彼の身体をチェックし、安全を確認すると、重たそうな扉を男2人が開け、カウンターに居た男が彼を招く。中に入った彼が感じたのは、どうしようもない嫌悪感だった。
吐き気を催すほどの欲望が、酒と煙草、麻薬の香りに乗って辺りを包んでいた。ソファーに座り女を囲んで酒を飲む者。部屋に連れて行く者。今にもその場で"始めそう"な者。普段なら脳天を撃ち抜きたくなる者ばかりが目に映り、彼は煙草を咥え気を紛らわす。
「"新品"をご所望のようで。近頃は中々仕入れるのが難しいのですが、丁度入荷したところです。まだ仕込み前ですが。」
「自分好みに仕上げるのも一興、だろう?」
「はい。この部屋です。」
通路に幾つも並ぶ扉の1番奥に辿り着く。ジョンは男に札束を渡し、扉を開けた。
「どうぞ、ごゆっくり。」
男が扉を閉め、部屋に入った彼の瞳に1人の少女が映る。白い肌に金髪の美しいポニーテールで、見た目に合わない薄地の黒いワンピースを着て、顔は俯いたままで彼を見ようとはしない。
「さて、どうするかな…」
彼が近寄ろうとした瞬間、少女は射抜く様な視線を向けてから胸元に飛び込み、握り締めていたナイフで左胸を突き刺した。
鮮やかな手並みと評価していいだろう。刺したナイフを回転させ傷口を広げ、少女は確かな殺意をその蒼い瞳に乗せた。ただ、相手が死人であった点を除けば。
「おぉ…まさか刺されるとはな。しかも心臓目掛けて一刺しだ。いい腕だ、お嬢ちゃん。」
胸を刺されたジョンは驚きながらも、苦痛の声1つすら上げず少女の肩をゆっくりと押し身体を離し、刺さったナイフを引き抜き少女に返す。
「そう警戒するな…っていうのも無理か。まぁ座りな。」
唖然とする少女を他所にジョンはベッドに腰掛け、煙草に火を点け紫煙を吐き出す。
「考えてる事を当ててやろうか。なんで死なないんだって思ってるんだろ?当然だ。心臓貫かれて生きてるなんて人間じゃないからな。」
警戒する少女を見つめながら、彼は小さく笑って答える。
「生憎俺は死人でな。死ぬに死ねないんだ。試しにもう一度刺してみるか?」
「………遠慮するわ。」
少女は大きな溜息を吐き呟いた。
「そうか。まぁ、俺は君をどうこうするつもりはない。むしろさっさとこんなゴミ溜めみたいな場所から出て行きたい位なんだ。」
「ゴミ溜めって分かってるなら、どうして来たの。」
「そういう"役"でな。表に出るまで付いて来てくれればいいんだが。どうする?殺人が趣味なら此処も表よりいい環境かもしれないな。扉の向こうはゴミだらけだ。」
「この世は何処も此処と同じ。吐き気のするゴミ溜めよ。」
「まさしくその通り。それじゃ、多少はマシなゴミ溜めに来るか?」
「……地獄がどんな場所なのか、教えてくれるなら。」
ナイフをジョンに渡し、少女は彼の左胸に触れる。
「名前は?」
「俺はジョン・ドゥだ。君は?」
「……忘れたわ。名付け親を殺した時から。」
「成る程、じゃあ1つ質問だ。猫は好きか?」
「えぇ。それが?」
「じゃあ、メンフィスって呼ばせて貰おう。嫌なら言ってくれ。別の名前を考える。」
「それでいいわ。」
ナイフをしまったジョンは扉を開け、少女と共に地下を後にした。
「……所で、なんで私を買ったの。」
「猫の相手役が欲しくてな。」