その状況を理解するのには、幾分時間が必要だった。溢れ出る感情を脳が処理する為の時間、そう言ってしまえばいい。ただ、今目の前にある現実はどうしようもない程の絶望。死に至る病。ただ真黒の視界に映っていた唯一のモノは、酷く生暖かい血塗れの"右腕"であった。
その手は優しく俺の頬を撫で、ゆっくりと姿を現していく。その身体の曲線を俺は知っている。その顔を俺は知っている。ただ違うのは瞳の色。赤黒い狂気に満ちた瞳で春音は、いや彼女は俺を見つめて微笑み、俺の頬に付いた血を舐めとってから口付けた。血の、鉄の香りと味が脳に伝わっていく。やがて全身が見え、彼女は俺の前に立ち抱き付く。
「やっと、貴方の愛する"私"になれました。」
彼女の声が聞こえる。唯一の救いは、どうやら俺が感じられるのが彼女だけということだ。もし五感が戻っていたら、目の前に広がっているであろう光景に発狂していた。ただでさえ、想像ですら自分の精神を打ち砕くのに十分過ぎる衝撃なのだから。
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時間はほんの少し遡る。目覚めた春音を連れて、直毅は夢の丘へと向かった。未だ夢の中にいるような状態の彼女は、ただ彼に縋って震え、何かを告げる訳でもなく2人は丘の頂上、木の下に座る。
沈黙に耐えかね、彼が口を開くと彼女は彼の胸に抱き付いて涙を流す。今度は押し殺した声で、現実を受け入れようと必死に。その様子に彼は口を閉ざして、彼女を強く抱き締めた。
その悲しみは幸せだと言った男を思い出す。その男がこの場に居たのなら、彼女にかける言葉の案を尋ねられただろう。だが慰めの無意味さを知る彼が何を告げるのかは定かでは無く、確かめる術がないことを直毅は知っている。失意と絶望に似た悟りの下に自ら命を絶った彼ならば、彼女を言葉だけで殺すことも出来ただろう。
そうして2人が悲しみを分け合い抱き合っている分には、観客達も少なからず満足している。誰かが気を利かせて雨を降らせ始めた辺りで、彼女は彼の顔を濡れた艶っぽい瞳で見つめ、両手を動かし頬を包もうとする。だがその手が頬に触れるよりも早く、"彼女の胸から突き出てきた手が彼の頬に触れた"。
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抱き付いた彼女を振りほどき、俺は倒れている春音を手探りで探して手を握り締める。彼女の視界は既に朧で、俺の顔が微かに見える程度しかない。彼女に触れているだけで、着実に彼女が死んでいくのが分かる。どうしようもない絶望。混乱する頭で必死に救う方法を考える。唯一生きている自分の左腕…望達の身体で出来た左腕に賭け、俺は彼女の手を強く握り締めて祈る。
「大丈夫…絶対に助けるから…」
自分に言い聞かせるように呟く。やがて彼女は、ゆっくりと瞳を閉じて闇に包まれた。
そこから先のことを、俺はしっかりと記憶していない。ただ、どうしようもない怒りと悲しみが心を壊したこと以外は、これが悪夢だと思い込む程に。
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「どうしたのですか?私の"抜け殻"に寄り添って。」
耳障りな音が聞こえる。これならまだ真黒で無音の方がいい。
「私だけを感じて下さい。そして愛して下さい。私も、貴方だけを感じ、愛します。」
ゆっくりと立ち上がり、雑音のする方を向く。酷く醜い肉塊が雑音を発して俺を呼ぶ。気が狂う程腹立たしい。肉塊なら肉塊らしく、バラバラに砕けていればいい。
なら、その姿と音を変えろ。俺に愛<殺>して欲しいなら。
「分かりました。貴方が最初の私を欲するなら。」
肉塊は少しマシな姿と音に変わった。それでもまだ、それは俺を呼んでは近付いて来て訳のわからない音を発する。1秒でも早く、これを目の前から消し去りたい。その一心で左腕を引き抜き銃に変え、両足("と思われる部分")と、両腕("と思われる部分")を撃ち抜いた。
肉塊は雑音を上げる事なく地面に倒れ、馬乗りになった俺をただ微笑んで見つめてくる。ただ、ただ此奴が"俺を感じているという事実が許せない"。
見るな。
突き立てた指で眼球を圧し潰す。
聴くな。
両手で思い切り耳元を叩く。
嗅ぐな。
鼻に拳を叩き込む。
味わうな。
舌を引きずり出し、歯で噛み千切る。
感じるな。
ありったけの力で細い首をへし折る。
そこでようやく、怒りの半分が治った。だがもう半分の怒りが俺を突き動かす。"俺は、俺が此奴を感じていることが許せない"。
そこから先は、只々肉塊を泣き叫びながら殴り続けていた。それが赤黒い血溜まりになるまで。そしてようやく、俺は眩しくて、煩くて、酷い血の匂いと味のする、雨の痛い世界を取り戻した。
…愛する彼女の身体を失い、俺を愛そうとした者を再び殺して。